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第35章_黄昏の灯火




 西の空を茜色が染めるころ、こはるは港の桟橋に立っていた。潮の香りが、昼間よりも濃く鼻腔をくすぐる。足元では木の板が海面の揺れに合わせて小さくきしみ、その下で波がゆっくりと砕けては消えていった。

  昼間は漁船や観光船で賑わうこの場所も、夕暮れ時になると人影はまばらになる。遠くでカモメが一声鳴き、海面すれすれに滑空していった。こはるは袖口を握りしめ、波間に視線を落とす。あの出来事から、まだ一日しか経っていない。

  背後から足音が近づく気配がした。振り返ると、海人が立っていた。夕日を背にした彼の輪郭は柔らかく、けれどその眼差しには迷いがなかった。

 「……待たせた?」

 「ううん。私も、来るのが少し早かったから」

  互いに視線を交わし、少しの沈黙が流れる。こはるは桟橋の端に視線を戻し、言葉を選ぶように唇を開いた。

 「昨日のこと、まだ信じられないの。全部、夢だったみたいで」

 「でも、現実だ。俺たちが見たこと、感じたこと、全部」

  海人の声は低く、確信を帯びていた。

  彼はこはるの隣に立ち、同じように海を見つめる。その距離は近すぎず、遠すぎず、けれど互いの体温がかすかに伝わる程度だった。

 「これから、どうする?」

 「決まってる。あそこへ行く」

  海人は視線を水平線に向けた。そこには、薄暗くなり始めた海の彼方に小さな光が瞬いていた。灯台の明かりだ。

  その光は、日が落ちるにつれてはっきりと強くなる。まるで、迷う者を導くための唯一の目印のように。

 「灯台……あそこに、答えがあるの?」

 「答えかどうかはわからない。でも、あの場所を避けて通るわけにはいかない」

  波の音が二人の会話を包み込む。こはるは無意識に海人の横顔を見つめた。彼の表情は穏やかだが、その奥には何かを決意した強さがあった。

  やがて、海人が歩き出した。こはるも後に続く。桟橋から陸へ戻る道は、夕闇がじわじわと押し寄せてきていた。漁師たちは船を繋ぎ終え、港町の家々には灯りがともり始める。

  港の外れに向かう道すがら、二人の足音だけが響く。やがて視界の端に、白い壁の灯台が見えた。

 「思ったより近いようで、遠いわね」

 「そうだな。……でも、こうして一緒に歩いてれば、遠さなんて感じない」

  こはるはふっと笑った。それはほんの少し、心の重さを軽くする笑みだった。

 灯台へ向かう道は、海沿いの細い坂道だった。右手には切り立った崖、左手には波が岩肌を打つ白い飛沫が見える。日が完全に沈むまで、もうわずか。潮風は冷たく、肌を刺すようだ。

  こはるは足元に注意しながらも、崖の下の海を見やった。暗く沈んだ水面に、夕空の残光が淡く映っている。波間から漂ってくる潮の匂いは、心を研ぎ澄ませるようでいて、同時に過去の記憶を呼び起こす。

 「ここを通るの、初めて?」

 「ええ。前に灯台を遠くから見たことはあったけど……こんなに近くで見るのは初めて」

 「この辺りは夜になると真っ暗になる。だからこそ、灯台の明かりが余計に目立つんだ」

  海人は淡々と説明しながらも、その歩幅はこはるに合わせていた。ふと、彼の背中越しに灯台のシルエットが大きくなっていくのが見えた。白壁に夕闇が絡みつき、その頂から放たれる光はゆっくりと回転している。

  やがて、灯台の根元に到着した。入り口は古びた鉄の扉で閉ざされ、表面には塩で白くなった跡があった。海人が扉に手をかけると、金属が低くきしむ音を立てて開いた。

 「……入るよ」

  こはるは頷き、後に続く。

  灯台の内部は石造りの壁が螺旋階段を囲むように伸びていた。薄暗い中、上から差し込む光がところどころを照らす。階段を上るたびに、外の風の音と波の轟きが遠のき、代わりに木造の床板が軋む音が響く。

  途中、壁に掛けられた古い写真が目に入った。漁船、港町、そしてこの灯台の建設当時らしきモノクロ写真。こはるは足を止めてそれらを見つめた。

 「……ここ、ずっと昔からこうだったのね」

 「何十年も、この町を見守ってきたんだ」

  最上階に辿り着くと、円形の部屋に巨大なレンズが鎮座していた。灯台の心臓部だ。透明なガラス越しに外を見ると、真っ暗な海の中に町の灯りが点々と輝き、そのさらに奥には漆黒の水平線が広がっていた。

  海人が無言で床に置かれた木箱を開けた。中には、分厚い帳簿と古びた鍵が入っている。帳簿の表紙には見覚えのある紋章が刻まれていた。

 「これ……」

 「そう、あの日の手がかりだ」

 帳簿の革は潮を吸って硬くなり、角は擦れて丸くなっていた。海人が手の甲で塩の粉を払うと、紋章の線がうっすらと浮き上がる。王都で見た古い印と同じ枝振り、中央に波、下に真珠を抱いた貝。

 「王都と繋がっている……灯台はただの目印じゃない」

  こはるが息を飲むと、海人は短く頷き、帳簿を膝に広げた。

  最初の数葉は灯台守の交代記録や風向きの記述、潮位の数字が几帳面に並ぶ。けれど中程を過ぎると、文字の筆圧が変わり、見覚えのある言葉が増えた。〈耳〉、〈返り〉、〈骨の芯〉、そして——〈呼吸井〉。

 「ここでも“耳”を立てていたんだ」

 「港の“腹”と橋の“耳”を、灯台の“目”で繋いでいた」

  海人が指でなぞる行には、夜半から明け方にかけての操作手順が簡潔に記されている。

  ——“霧の夜は灯を低く、長を一つ深く。名を投げられたら鼻口を覆い、返りの道だけを残す。橋の切っ先は触れずに在せ”。

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ、浅い谷をひとつ置いた。読むほどに、灯台がこの町の見えない骨を支えてきたことが身に入ってくる。

  海人は箱の底から古い鍵を取り出す。握りに小さな刻印——〈北窓〉。

 「上部の整備窓だ。風と光の“角度”を変える仕掛けがあるはず」

  レンズの脇に小さな扉を見つけ、鍵を差し込む。錆びた歯が噛み合い、固い音が一度響いてから、扉はゆっくりと開いた。

  窓の向こうは夜の崖だった。灯台の光が回転するたび、断崖の一部だけが白く浮かび、すぐ闇へ沈む。海人は窓枠のレバーを確かめ、こはるへ目で合図する。

 「三拍目で半分。五拍目で閉じる」

  こはるは頷き、レバーに手を添えた。

  三拍目——レバーを静かに引くと、灯の帯が細くなり、北の堤と港の背をなぞる角度へ変わる。

  五拍目——元へ戻す。

  それだけで、灯の呼吸が町の拍に薄く重なった気がした。

  帳簿にはもう一つ、赤い糸で挟まれたページがあった。端に書き込まれた日付は、潮枯れが始まる少し前。

  ——“橋に切っ先を在し、背で“束”を作る夜、灯は“待ち”を砕かず寄り添うこと。『名』を投げ込まれても、返さない。灯は名前ではなく、道を示すために在る”——

  最後の行に、くっきりとした署名があった。

  “聖海の乙女補佐 巡視隊士 海人”。

 「……君の字だ」

  こはるの声が喉の奥でほどける。

  海人は苦笑して肩をすくめた。「あの頃は、まだ全部を分かっていたわけじゃない。ただ、目の前の“待ち”を崩さないことだけ書いた」

  レンズの外で風が変わる。潮が吹き上げ、窓枠に星粒のような雫が散った。

  その雫のむこう、崖の斜面に何かが白く光った。岩肌の裂け目——いや、刻印だ。波の形が三つ、肩を並べる紋。

 「見えた?」

 「ええ。あれ、印だわ。……“背”と“堤”の間、灯で合図を通すための目印」

  海人はレバーを三拍目に合わせ、灯をわずかに絞る。帯は崖の紋に触れず、ただその縁を撫でて過ぎた。

  崖の下から返りの光が一つ。堤へ、次いで港の背へ——灯の呼吸が街の骨をさらい、静かな“承諾”が返ってくる。

  こはるは帆布を取り出し、窓辺に三日月を小さく置いた。白は前へ、紅は内へ、灰は“空”。

 「ここで“耳”を浅く保てる。港と橋、背と堤。灯は“名”を呼ばずに、道だけ通す」

  言いながら、掌の汗を裾でそっと拭った。

  階下から足音が上がってきた。

 「ここにいたのね」

  ケイトリンが顔を出し、手にした小袋を軽く振る。「砂糖漬けの皮。喉が乾く前に舐めて」

  肩越しにディランとタイ、ダルセの姿も見える。ディランは旗を巻いたまま視線で窓外を探り、タイは窓の桟に触れて木の“目”を撫で、ダルセは弦を鳴らさず指先で“長”の形を描いた。

 「堤と背、通った。港は浅い。橋は“在る”」

  海人の短い報告に、皆の肩が一段落ちる。

  ケイトリンが窓辺へ来て、崖の印を見やった。「あの印、誰の仕業?」

 「たぶん昔の灯台守。帳簿に記されてない“仕事”だ」

  海人は帳簿の赤糸ページを指で叩き、続けた。「夜半前、もう一度だけ角度を合わせる。——『剣と歌』の合わせに、灯の“待ち”を添える」

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ。

  灯の帯が回り、町の屋根が一瞬ずつ浮き、また沈む。

  港の呼吸井はふっと開いて閉じ、王都大橋の切っ先は“在る”のまま細く立ち、堤の“耳”が浅く息をする。

 「……海人」

 「ん?」

 「私は、ここで“道”を示す。あなたは下で、“人”に触れて」

  海人は頷く。「わかった。『名』を呼ばれても、返さない。——道だけ通す」

  皆が踵を返す。こはるは窓辺に残り、レバーに指をかけた。

  灯台の心臓は、静かに脈動を続ける。

  黄昏の灯火はもう夜の灯に変わりつつあり、町の拍はそれを受け取って、さらに深く整いはじめていた。

 灯台の帯が一周して戻るあいだに、こはるは三度、角度を微調整した。三拍目で半分、五拍目で戻す。帯は崖の紋を触れずに撫で、堤の“耳”と背の“耳”に同じ薄さで落ちる。

  心臓の鼓動と灯の脈動が重なり、胸の棚に置いた白と紅が静かに呼吸を揃えた。灰は極薄の“空”。浅い谷をひとつ長く、次いで短く——灯は“名”を呼ばず、道だけを示す。

  階段の下から、海人の足音が遠ざかる。ディランの低い合図、タイの木柄が布を巻く乾いた気配、ケイトリンの温石が掌に渡る無音のやりとり、ダルセの“長”を胸で鳴らして飲み込む息。

  灯台は、皆が街へ散る音を吸い込み、静かさを濃くしていった。

  ふと、窓の外で風が切り替わった。東からの薄い冷えが帯の端を掬い、光の輪の縁が紙一枚ぶん歪む。

 (崩さない)

  こはるはレバーの根を微かに押さえ、胸の棚に白を一歩前、紅を一歩奥。灰を厚くして“空”を受ける。浅い谷がそのまま灯の軸を支え、歪みは音もなく消えた。

  帳簿の赤糸ページが風にめくれそうになり、こはるはそっと押さえた。指先に塩の粉が触れる——この灯台が、幾夜も同じ“待ち”を繰り返してきた証。

  彼女は視線を崖の紋へ戻す。白い線が三つ、肩を並べて夜気に沈む。そこへ帯の縁が触れずに触れ、堤の上から小さな返りが一つ、橋の腹から薄い返りが二つ、順に立った。

  呼吸井は鳴かない。

  港の底は深くも浅くもならず、ただ紙一枚ぶんの沈みを保つ。

  王都大橋——切っ先は“在る”。

  背の“耳”は半拍先に保たれ、堤の“耳”は半拍遅れて返す。

  こはるは帆布の三日月を窓辺で組み替え、小さな“座”を二つにした。白を細く、紅をさらに奥へ、灰を挟んで間を伸ばす。(稽古の道を通す。剣は横、歌は縦。——灯はただ、間を守る)

  その時だ。

  崖の下、黒でも白でもない輪郭が“影”として浮いた。名でも音でもない、空白の形。

  帯をぶつければ噛まれる。——だから、重ねる。

  こはるは浅い谷をひとつ延ばし、灯の縁をわずかに広げて“影”の外側に薄い光を置いた。

  光は影を裂かない。ただ、影の“外”を示す。

  影はそこでほどけ、波の皺に混ざり、堤の草先を一筋だけ揺らして消えた。

 (来る前の寝返り……今はまだ“起きない”。起こさない)

  こはるは息を一つ落とし、帳簿の余白に小さく印を付ける。〈東風・極薄・影一〉。

  灯の帯が再び町を撫でていく。屋根が一つずつ浮かび、また沈む。広場の端で子どもの影が伸び、すぐ家の中へ吸い込まれた。

  港の背で、海人がひと叩き指先を上げる姿が遠目に見えた気がした。確かさは不要だ。感じられれば十分。

  階下から軽い足音。ダルセだった。

 「声は置かない。けど、これだけ」

  彼が差し出したのは布で包んだ小さな鈴。中の粒が動かないよう、糸で固く封じられている。

 「“鳴らさない鈴”。俺が歌で抜ける“間”に、灯の帯の縁を重ねてほしい。橋の上で——剣の横と、俺の縦のあいだ」

  こはるは頷き、鈴を帳簿の上に置いた。

 「三拍目、縁を細く。五拍目、戻す。あなたの“長”が落ちる底に合わせる」

  ダルセは笑わず、目だけで礼を言った。足音はすぐ、また階段を下りていく。

  入れ替わるように、ケイトリンが顔を出した。

 「喉、乾いてない?」

 「平気。……そっちは?」

 「みんなの足は通ってる。走らない」

  短いやり取りのあと、ケイトリンは窓の縁を撫で、材の乾きを指で確かめた。「木目、生きてる」

  彼女が去ると、灯室は再び静けさに満たされた。

  こはるは視界の端で夜雲の厚みを読む。東の雲が一段重くなる。帯の回転に合わせ、レバーをほんのわずか遅らせる。

  ——三拍目で半分。五拍目で戻す。

  帯は崖の紋を撫で、堤の“耳”を浅く、背の“耳”を深く。港の腹は静かに受けて返す。

  やがて、王都大橋の上に細い列が見えた。

  剣の横列、歌の縦の息。

  列は走らず、橋の中央で半歩の“待ち”を置き、欄干の高さへ刃を揃える。

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ。(灯は名を呼ばない。——道だけ)

  帯の縁を細くして、橋の中央へ触れずに触れる。

  その下で、水が一枚、静かに伏せられた。

  輪郭はまだ起きない。

  だが、町の骨は一本に揃い始めた。堤・背・港・橋——灯が撫でるたび、各所の“耳”が同じ深さで息を合わせる。

  帳簿の赤糸ページが月光を吸い、最下段の一文が夜の中でくっきりと立つ。

  ——“灯は名前ではなく、帰路を示す”。

  こはるはその行を人差し指でなぞり、窓外へ視線を投げた。

  遠く、外輪の肩で白くない影がひとつ、寝返りを打った。

  こはるはレバーに指をかけ、浅い谷を長く。

 「——まだ、起こさない」

  囁きは灯の心臓に沈み、帯は何事もなかったように町を一巡りした。

  夜の底は、静かに深まる。

  黄昏の灯火は完全に夜の灯になり、稽古のための“道”は橋上に通された。

  こはるは最後にもう一度、白を前、紅を内、灰で“空”。浅い谷をひとつ置き、灯の脈を胸の拍に重ねた。

 橋上の稽古は、夜の静寂と同じ速さで進んだ。

  海人の剣は横に、ダルセの歌は縦に。二つの軌道は交わらず、しかし同じ呼吸で動く。

  こはるは灯室からそれを見下ろし、帯の回転を半拍だけ遅らせて“間”を作る。剣の横が切り抜けた空間へ、歌の縦が落ちる。その一瞬のために光の縁を細く引き、触れずに撫でる。

  港の背でケイトリンが腕を組み、風の匂いを読む。

 「南はまだ黙ってる……でも東が膨らむ」

  その声は橋の下の水面にも届き、薄い波紋を作った。

  ディランは港の端で縄を編み、長さを計って印をつける。彼の動きはまるで潮の脈を計るようで、足元の水が緩やかに呼吸していた。

  王都大橋の中央で、海人が短く顎を上げた。こはるはそれを合図と受け取り、帯の縁をさらに細く、深くする。

  剣が右へ抜け、歌が下へ落ちる。その瞬間、港の腹と堤の耳が同時に返り、背の耳が半拍遅れて応じた。

  橋上の影が、まるで布を一枚剥がしたように薄くなる。

  しかし、外輪の肩はまだ“寝返り”の姿を保っている。

  遠いが確かに息をしている。起き上がるには至らないが、目を開く準備だけは整っている気配。

  こはるは帯の回転を元に戻し、町の骨を撫で続けた。橋、堤、背、港。どこも同じ深さで“息”を合わせ、外輪に届かないよう慎重に間を置く。

  階段を駆け上がる足音。タイだった。

 「合図、三つ先延ばし。港の下に“浅瀬”が出た」

 「……走らせないため?」

 「そう。浅瀬の縁に沿って帯を細くしてほしい。足を止めさせる」

  こはるは頷き、胸の棚に白と紅、灰を極薄で置く。浅い谷を二つ連ねて、帯の端を浅瀬の外側に沿わせた。

  港の下で、影が足を止める。そこにディランの縄が届き、輪がひとつ落とされた。

  東の雲がさらに厚くなる。帯の回転は遅れを許さない。

  海人とダルセは橋上でまだ稽古を続けているが、その動きは徐々に“形”から“実”へと変わってきていた。

  横と縦が交わる一瞬、その下で港の腹がわずかに沈み、堤と背の耳が順に返る。まるで灯台が指揮する楽隊のように、全てが同じ拍を刻む。

  ケイトリンの声が再び届く。

 「東、沈む。南、薄く立つ」

  こはるはすぐに南側の窓へ移動し、帯の角度を変える。南の背の耳に半拍早く触れ、堤を遅らせる。港は静かに受けるだけ。

  南からの息が港を撫でる前に、背と堤がその勢いを分け合い、町の奥まで届かせない。

  その操作の最中、外輪の肩が再び微かに動いた。

  影の輪郭は先ほどよりも鮮明で、まるでこちらを試すように波間から覗いている。

  こはるは深呼吸し、白をさらに前へ、紅を奥へ。灰で“空”を挟み、浅い谷を三つ連ねる。

  帯の縁は影に触れず、しかし確実にその外を囲む。

  影は一瞬、膨らんだように見えたが、やがて小さく収縮し、再び海の中へ沈んだ。

  帳簿の余白に印が増える。〈南風・極薄・影二〉。

  こはるは赤糸のページを閉じ、胸の拍と帯の脈を再び合わせた。

  夜はまだ深まりきらない。だが、稽古の“道”は町全体へ広がりつつあった。

 夜が芯を見せはじめた。灯は一巡ごとに静けさを深くし、町じゅうの“耳”は同じ深さで息を保つ。

  橋の上では、剣の横と歌の縦が既に“稽古”の域を越え、わずかな合図だけで重なるようになっていた。横が空を作り、縦がそこへ落ちる——落ちた瞬間、港の腹が紙一枚ぶん沈み、堤と背が薄く返す。

  こはるは灯室でレバーの根をそっと押さえ、胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ長く置いてから短く返す。(名は渡さない。灯は道を示すだけ)

  外輪の肩は三度、寝返りを打とうとして、いずれも“外”に薄く囲まれてほどけた。帳簿の余白に印が増える。〈東風・影一〉〈南風・影二〉〈無風・影零〉。

  階段を上がる足音が一つ。海人だ。

 「港、通った。橋も“在る”。……次は“大潮門”だ」

  その声は低く、灯の鼓動と同じ速さで灯室に満ちた。

 「極点きょくてんで“止める”?」

 「止める、じゃない。“満たす”だ。稽古で揃えた拍を束にして、門楼の腹へ置く」

  海人は帳簿の赤糸ページを軽く叩いた。「灯は三拍目で半分、五拍目で戻す。橋は横、歌は縦。背と堤は半拍ずらし。港の腹は受けるだけ」

  こはるは頷き、窓外の崖に並ぶ白い紋へ帯の縁を滑らせる。紋の外を撫でるだけで、堤から小さな返りが一つ、背から薄い返りが二つ、順に立つ。

  灯は名を呼ばない。けれど、町の骨は灯の“間”で一本に揃う。

  ダルセが鈴を掲げずに現れた。封じたままの“鳴らさない鈴”を掌で転がす。

 「橋の“合わせ”、今ならいつでも実に変えられる」

  続いてディランが旗を肩へ回し、短く告げる。「剣列、横一。待ちは二分割。走らない」

  タイは木柄の結び目を固くし、「浅瀬、眠ったまま。舟の目も静かだ」とだけ言う。

  ケイトリンは温石を布に包み直し、視線だけで皆を一巡させた。「喉は通る。余計は要らない」

  海人が灯室の床に港図を広げ、爪で小さな印を刻む。

 「大潮門——ここが“腹”。橋から横、歌から縦、堤と背は半拍ずらしで“束”。灯は三拍目に細く添え、五拍目で戻す。返りは門の底へ落とす」

  こはるは図の印へ視線を落とし、胸の棚に白と紅、灰。浅い谷をひとつ。(満たす、だ)

  外で風がひと息変わった。灯の帯の縁が紙一枚ぶん揺れる。

  こはるはレバーをほとんど動かさず、胸の紅を奥へ、白を前へ、灰で“空”を受ける。揺れはそのまま“待ち”に沈んだ。

 「——行って」

  彼女が言うと、海人は頷き、短く返す。「橋で合わせ、門で束ねる」

  皆が階段へ散る。

  こはるはひとり灯室に残り、帯の回転に合わせて呼吸を整えた。三拍目で半分、五拍目で戻す——灯は骨を撫で、街路の影を薄くし、屋根の端を一瞬だけ浮かせる。

  港の背で“耳”が半拍先に息をし、堤の“耳”が半拍遅れて返る。王都大橋の中央には、切っ先の“在る”が細く立ち続ける。

  その時、外輪の肩が四度目の寝返りを打とうと身を丸め——やめた。

  町じゅうの“待ち”が一本の筋に揃い、その筋の外側で灯が静かに“外”を示し続けていたからだ。

  こはるは帆布の三日月を畳み、窓辺に新しい折り目を置いた。白は前、紅は内、灰は“空”。

 (名は渡さない。灯は道を——そして今夜は、“満ちる”道を)

  戻る鐘が一つ、深い谷を落とす。

  続けて二つ。

  港の腹がふっと沈み、背と堤が順に返り、橋の中央に“合わせ”の静けさが降りた。

  海人の声が遠く、しかしはっきり届く。「——大潮門へ」

  こはるはレバーの根を軽く押さえ、帯の縁を細くして、門楼の方角へ“道”を一筋通した。

  灯は回る。

  夜の底は、やがて“満ち”の形へと変わる。

  こはるは胸の棚で浅い谷をひとつ長く置き、息をそっと落とした。

 (次の拍で、私たちは“止める”のではなく——満たす)


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