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第33章_黄昏の聴き取り

 日が傾き、王都大橋の霧はわずかに薄まったが、欄干の影はなお深く伸びている。川面は夕陽を受けて黄金色の筋を散らし、その間に、黒く沈む流れがいくつも縫い込まれていた。

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ、浅い谷をひとつ置く。

 (黄昏。位置を聞く。——噛まない、押さない、渡さない)

  その思考は、拍とともに胸の奥で一度沈み、再び浮かび上がる。

  海人は橋の中央に立ち、両手を背に回して川面を見下ろした。

 「ここから“耳”を一段深くする。橋の両端は半歩待ち、中央で三拍目に落とす」

  ディランが旗を低く構え、角度を一度確認する。

  タイは木柄の布先を湿らせ、橋板の“目”を軽く撫でた。

  ケイトリンは腰の袋から温石を取り出し、兵の掌に押し当てる。「息は深く、長く。返事はいらない」

  ダルセは竪琴の弦を一度撫で、“長”の下で短い二つを隠すように調弦を整える。

  ——耳が沈む。

  橋の中央で“間”がひとつ深くなり、両端からその深みへ拍が流れ込む。

  夕陽が欄干の影を延ばし、川の黄金が一段と濃くなる。

  その時、川下から小さな揺らぎが上がってきた。

  黒でも白でもない輪郭が、水面をすべるように橋の下を通り、中央で形を揃える。

  耳がその位置を捉えた瞬間、こはるの胸の谷がひとつ強く押し込まれる。

 (ここだ。——位置を聞いた)

  輪郭はすぐに形を変え、橋の下流へ消えようとしたが、海人の声が短く響いた。

 「噛まない。——待て」

  ディランの旗が半歩遅れて落ち、タイの布先が橋板の“目”を撫でて“待ち”を置く。

  ダルセの“長”が橋の腹を通り、短い二つが水面の上で交差する。

  輪郭は立ち止まりかけ、しかし完全には止まらず、再び水の奥へ沈んでいった。

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直し、浅い谷をひとつ置く。

 (今は追わない。灯は胸に。耳は立った)

  橋の中央で海人が目を細めた。

 「次は——ここから城門前へ半拍先行で送る。港へは一拍遅らせて返す。交錯は続ける」

  ディランが旗の角度を変え、タイが布先を乾いた布に替える。

  ケイトリンは温石の残りを数え、「足りる」と短く言った。

  ダルセは竪琴を撫で、“長”を空へ放った。

  夕陽は沈みかけ、橋の霧が再び濃くなり始めていた。

  川の黄金は細くなり、黒い筋が増えていく。

  しかし“耳”は崩れず、街の拍は保たれている。

 (位置は聞いた。次は、触れる。噛まずに、先に)

 日は川の端で途切れ、橋の上の色から赤が抜けていく。霧は粒を細かくし、欄干の水珠が音もなく弾けた。王都大橋の中央——“耳”を一段深くした地点に、静かな空洞ができている。そこへ向かって、街じゅうの拍が細い糸になって集まり、また散っていく。

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直し、浅い谷をひとつ。(今度は“触れる”。——噛まず、押さず、渡さない)

  海人が短く合図する。「三拍目で“空”を置く。五拍目で離す」

  ディランは旗を低く寝かせ、半歩の“待ち”をさらに薄く延ばした。「橋の両端、二短は変えない。中央は“長”を一分だけ深く」

  タイは木柄の布先を湿らせ、橋板の“目”を手のひらで包むように撫でる。「楽の芽は先に眠らせる。触れる手前で、いちど息を置く」

  ケイトリンは温石を兵の掌に押し、樹脂の蓋を確かめただけで閉じた。「香りはいらない。喉は通ってる」

  ダルセは竪琴の弦を掠め、“長”を胸で鳴らして空へ放つ。続けて“短、短”を薄く潜らせ、橋の腹に通す準備をする。

  ——三拍目。

  こはるは“耳”の中心に、目に見えない薄い座をひとつ置いた。白は前へ、紅は内へ。灰がそのあいだに“空”を作る。

  触れていない。けれど、触れた。橋の下の流れが、一瞬だけ息を止めたように静まる。

  川下で、黒でも白でもない輪郭が細く伸び、位置を合わせる気配を見せた。

  五拍目。

  離す。

  座はほどけ、返りだけが欄干の影を撫でていく。輪郭は追って来ない。そこに「ある」まま、こちらの手の内を測っている。

  海人が舵のない舵手のように言葉の角度だけを変える。「もう一度。今度は“裏呼吸”。触れずに触る」

  こはるは胸の棚に薄い棚を一枚追加し、白と紅の間に、さらに淡い“空”を差し込んだ。(触れずに触る。置かずに置く)

  ダルセの“長”がわずかに深くなり、橋の石が紙一枚ぶん温くなる。

  タイが布先で欄干の継ぎ目を撫で、ディランは旗で“見えない欄干”の高さを示した。

  二度目の“触れずに触る”。

  輪郭は今度、ほんの少しだけ近づいた。

  名は投げてこない。古い手順も呼ばない。ただ、こちらの“待ち”の深さを量るように立つ。

  その時、橋の両端から足音が混じった。

  避難の列が黄昏の渡橋を急ぎ、数人が走りかける。

  ケイトリンが列の脇に膝をつき、布の折り目を示すだけで布を渡す。「ここで止まる。次で渡す」

  母の肩が一段落ち、子の足が止まる。

  ディランの旗が半歩遅れて落ち、“耳”の空洞は崩れない。

  ——三度目。

  海人が低く言う。「芯の記憶を薄く、輪郭の外側へ」

  こはるは“骨の芯”に触れたあの日の手つきを、息だけで再現する。噛まず、砕かず、ずらさず。

  胸の棚で浅い谷を長くひとつ。白が前へ、紅が内へ。

  橋の下で、輪郭がかすかに身じろぎした。

  そこに“在る”が、こちらの“在る”へ薄く寄ってくる。

  こはるの喉の裏に、微かな“懐かしさ”が差し出された。

  春の夜明け、王都西岸の祠の礎石。最初の湿り気。

  (渡さない)

  布を強く押し、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  懐かしさは粉になり、輪郭は形を作り切らない。

  そこへ、橋の上流側で“囮”の列が出た。

  泣き声と呼び声が重なり、拍を崩す角度でこちらへ流れてくる。

  タイが木柄で橋板の“目”を先に眠らせ、ダルセの“短、短”を逆位相で薄く重ねた。

  こはるは“耳”の空洞を一分だけ深くし、囮の列の足音を空へ逃がす。

  囮は薄い壁に触れたように速度を落とし、やがて人影ごと霧に溶けた。

  (位置は聞けた。外輪の肩ではなく、街の“背”へ回り込むつもり——)

  こはるがその結論を胸で結ぶのと、城の裏手に冷たい風が走るのは、ほとんど同時だった。

  王太子の旗が城楼の上で一度、ふわりと翻る。合図は短い——“背へ”。

  海人が瞬時に策を組み替える。「橋の“耳”を半拍遅らせて背中へ流す。城門の“耳”は半拍先に立て直す。港は腹で沈んで一度だけ返せ」

  ディランが橋中央で旗の角度を変え、手首の“待ち”を別の向きへ送る。

  ダルセは“長”の尾を伸ばし、短い二つを背のほうへ散らした。

  タイは欄干の継ぎ目を撫でて“楽”の芽を眠らせ、ケイトリンは行き交う兵の口元に布の折り目だけを示す。

  橋の“耳”が背へ流れ出した瞬間、こはるの胸の棚に鋭い“名”が打ち込まれた。

  ——こはる。

  だれかの声に似せた“名”。

  指先が一瞬、ほどけかける。(渡さない)

  浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。灰が“空”を受ける。

  海人の視線が横から触れ、「ここにいる」という簡素な確かさが胸の拍へ重なる。

  “名”は粉になった。

  城の“背”——北館の裏庭。

  そこに、黒でも白でもない輪郭が薄い円を描いて立った。

  “耳”の返りが半拍遅れて届き、庭の気配が一つ深く落ちる。

  王太子が裏門の喉に座を置き、兵の列を“走らせない”。

  老船大工は鐘楼の根元で索を叩き、呼吸井の口を見張る。

  橋の中央では、まだ“耳”の中心が保たれていた。

  こはるは胸の棚に薄い棚をもう一枚挟み、白と紅の間へさらに淡い“空”を置く。(触れずに触る——背中へ)

  ダルセの“長”が空を滑り、短い二つが街の背骨を渡る。

  タイは欄干を叩かず、ただ存在だけを置き、ディランは旗を低く寝かせた。

  そのとき、橋の下で水音が変わった。

  輪郭が一つ、あえて“音”を立てたのだ。こちらの“待ち”を乱すために。

  海人がすぐに告げる。「押さない。離れる」

  こはるは“耳”の中心から座を少し外へずらし、返りの道だけを残す。

  輪郭は追って来ない。追えば、噛むことになる——だから追わない。

  黄昏が夜へ移る境目、橋の灯がひとつ、ふわりと揺れた。

  揺れは広がらない。“耳”が生きている。

  伝令が橋のたもとへ走らずに来る。「背、保つ。城門、詰まらず。港、鳴かず」

  王太子の旗が一度だけ縦に揺れ、作戦室からの返事が短く届いた。「次、切っ先」

  海人がこはるを振り返る。

 「触れた。聞けた。——今度は、『こちらから先に触れる』だ」

  こはるは小さく頷き、袋の結び目を二度確かめた。

  胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ。(噛まない。押さない。——先に、触れる)

  橋の下の黄金は完全に消え、黒い流れだけが残る。

  “耳”は静かに深い。

  街は同じ間で息をし、外輪の肩では輪郭が形を損ねては集まり直している。

 (名は渡さない。灯は胸に。次は、“先触れ”)

 夜が完全に降りる前、王都の東の空にかすかな白が浮かんだ。月にはまだならないその光は、城壁の向こう側を照らさず、ただ“耳”の縁を薄く染めている。

  海人は旗の動きを止め、低く息を吸った。「次は“先触れ”だ。待つ側じゃなく、渡す側」

  こはるは袋の口を開き、白と紅の順を指先で確かめる。灰はその間に揃え、胸の棚に置く。

  ディランが橋の中央から半歩下がり、旗を地面すれすれに寝かせる。「合図は二短の後、“長”を返す。間は詰めすぎない」

  ダルセは竪琴を抱え直し、低い“長”を喉の奥で一度響かせた。

  タイは欄干の節に布先を触れ、結び目を確かめる動作を繰り返す。「一呼吸置いてから叩く。音は立てない」

  ケイトリンは温石の蓋を外し、すぐまた閉じた。「これで熱は保てる。長くなる戦だ」

  こはるは深く息を吸い、胸の棚から白を一歩前へ押し出す。紅は内に、灰はそのあいだに溶け込ませる。

  “先触れ”——こちらから輪郭の外皮をなぞる。触れる前に触れる。

  橋の下の黒い流れが、一瞬だけ波紋を広げた。

  輪郭が応じた。

  形を作らず、しかし“そこに在る”という重みを増してくる。

  (来る)

  海人が短く告げる。「長を二つ。間を空けて短を三つ」

  ダルセがその通りに弦を鳴らし、ディランが旗で“耳”の高さを示す。

  ——一度目の“先触れ”。

  白が前へ出て、紅が深く内に回り、灰がその隙間に座を置く。

  輪郭は揺れもせず、ただその表面にわずかな温度を浮かべた。

  二度目の“先触れ”。

  今度は紅が先に動き、白が後から覆う。

  輪郭が半歩近づき、水音が少しだけ高くなる。

  こはるの胸に微かな“記憶”が差し込まれた。

  ——石畳の朝、まだ靴音もない頃の市場の匂い。

  (渡さない)

  浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。灰が“空”を広げる。

  記憶は粉になり、流れに散った。

  海人が目だけで次を促す。

  こはるは袋の中の最後の紅を指先で転がし、胸の棚に置いた。

  触れる。

  輪郭の表面が、今度ははっきりと“押し返す”力を持った。

  その瞬間、橋の北端から兵の一団が駆けてきた。

  旗は立てず、声も上げず、しかし足音が拍を乱す。

  ディランが旗を低く振り、兵の進路を横へ逸らす。

  タイが欄干の節を叩き、音を波に溶かす。

  乱れは広がらなかった。

  こはるは三度目の“先触れ”を置く。

  白が前へ、紅が内へ。灰がその間に薄く座る。

  輪郭が半歩引き、橋の下の水音が沈む。

  海人が短く頷く。「引かせた。次は“誘い”だ」

  こはるは袋の口を固く結び、胸の棚を閉じる。

  橋の中央に残る“耳”は、まだ深く息をしていた。

 “先触れ”が三度、輪郭を撫でて去ったのち、橋の下の水は音を低くした。黒でも白でもない塊は、こちらの拍と“待ち”の深さを測り終え、いったん身を丸める。追えば噛む。——だから追わない。

  海人が橋の中央で、舵のない舵手のように言葉の角度だけを変えた。

 「次は“誘い”。こちらの道を見せる。だが通さない。——灯は胸、名は渡さない」

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ、浅い谷をひとつ。(誘うのは“道”。餌ではない)

  ディランは旗を低く寝かせて印を描く。橋の中央から城の“背”へ細い糸を延ばし、半歩遅れて港の“腹”へ戻す。

  タイは欄干の節を布先で撫で、走りたがる足の前に“止まる”を置いていく。

  ケイトリンは兵の喉へ布の折り目だけを示し、「息を深く」と短く落とした。

 ダルセは竪琴の弦を掠め、“長”の尾を細く引き延ばして川上へ、続けて短い二つを橋の腹に潜らせる。

  ——最初の“誘い”。

  こはるは帆布を三日月に折り、欄干の影の内側に小さな座を置く。白で縁に橋、紅で内に灯、灰で“空”をひと筋。

  座は“進むふり”をする。だが一拍だけで止まり、返りだけを川下へ落とした。

  輪郭がそれを嗅ぎ、半歩だけ寄る。

  二度目の“誘い”。

  今度は橋の中央ではなく、半歩外へ。

  こはるは白を前へ、紅を深く内へ、灰を薄く挟み、“空の座”を滑らせる。

  座は“曲がる前に止まる”で、わずかに肩を見せた。

  輪郭はさらに寄る。——だが、まだ「噛む距離」ではない。

  橋の両端で、避難の列が黄昏に急ぐ。

  老いも子も、荷車も荷も、拍の中で歩き、走らない。

  ケイトリンは疲れの色の濃い者を見つけるごとに膝を折り、包帯の折り目を示す。「ここで止まる。次で渡す」

  肩が落ち、息が合う。“耳”は崩れない。

  三度目の“誘い”に入る手前、こはるの喉の裏へ“懐かしさ”が投げ込まれた。

  ——春の祠、最初の湿り。

  布を鼻口へ強く押し、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  懐かしさは粉になった。輪郭は形を作り切らない。

  「三度目は“橋の下”に座を見せる」

  海人の低い声に、こはるはうなずく。

  欄干の影から身を少し乗り出し、胸の棚の白で水面の上に短い橋を置く。紅は胸の奥に灯を守り、灰は“空”を薄く張る。

  座は水へ沈まない。沈むふりだけをして、返りを上へ上げる。

  輪郭の縁が、ようやく“触れる距離”まで近づいた。

  ——その刹那。

  橋の上流で、囮の列が再び泣き声を立てた。今度は“名”を含まない。音の高さだけで拍を崩す角度を狙っている。

  ダルセの“短、短”が逆位相で薄く重なり、タイの布先が橋板の目を眠らせる。

  ディランの旗が半歩遅れて落ち、“耳”の深みは保たれた。

  「四度目は“骨の芯”の外側を撫でる」

  海人の言葉は短い。

  こはるは胸の棚に薄い棚をもう一枚挟み、白と紅の間の“空”をさらに淡く整える。(噛まない、砕かない、ずらさない)

  息だけで——触れる。

  輪郭の表皮がわずかに波立ち、そこに「在る」がこちらの「在る」へ薄く寄った。

  城の“背”がその瞬間、風を吸った。

  王太子の旗が城楼の陰で一度翻り、裏庭の“耳”が半拍深くなる。

  港の“腹”では呼吸井がふっと沈み、薄く戻る。

  “誘い”の道が、街の背骨を通って港へ、港から城へ、橋へ——細い輪となって結び直された。

  輪郭は座へ完全には乗らない。

  だが、位置は晒された。肩の角度、裏の呼吸、逃げる向き。

  海人が短く告げる。「聞けた。——次は“切っ先”」

  切っ先は突きではない。

  噛まずに、押さずに、触れて“位置”を固定する細い先。

  ディランは旗の角度に“切っ先”の印を加え、手首の“待ち”を一分だけ尖らせる。

  タイは木柄の布先を硬い布に替えず、あえて柔らかいまま結び目を固くした。「当てるだけ。息で押すな」

  ケイトリンは温石の蓋を開けてすぐ閉じ、「通ってる」とだけ言う。

  ダルセは“長”の始点を低く据え、短い二つの間に極小の沈黙を挟んだ。

  こはるは胸の棚に白と紅、灰。浅い谷を長くひとつ。(名は渡さない。灯は胸)

  ——切っ先。

  白い橋を細く延ばし、紅の灯をさらに内で深く守り、灰の“空”で尖りの根を軽く支える。

  その細い先端が、水面の直上、輪郭の縁に“触れずに触れた”。

  輪郭は逃げる。

  だが、逃げる向きは“待ち”の中にある。

  ディランの旗が半歩遅れて落ち、切っ先の根が揺れないよう“耳”が深く息をした。

  タイは欄干の節を二度、布で撫で、楽の芽を先に眠らせる。

  ダルセの“短、短”が橋の腹で交差し、川下へ細い道を示す。

  ——固定された。

  海人の目が細くなる。「ここだ」

  王太子の旗が城楼から一度だけ縦に揺れ、作戦室の返事が短く届く。「次、束へ」

  束。

  ばらけた拍と“待ち”と返りを、切っ先の位置に向けて一本に集める手順。

  こはるは胸の棚に極薄の白をもう一枚足し、紅と灰の間に“空”を重ねた。(束ねるのは力じゃない。間と返り)

  橋の中央で“耳”がさらに一分沈み、両端から流れて来た拍がそこへ静かに落ちる。

  城の“背”で裏庭の空気がひとつ深くなり、港の“腹”で呼吸井の口が紙一枚ぶんだけ広がった。

  輪郭は抵抗しない。

  代わりに、こちらの“束ね”の癖を測るように揺れる。

  海人が短く告げる。「束は解ける。解けても“位置”が残るように」

  ディランが旗の尾を短くし、手首の“待ち”を二度に分ける。

  タイは布先の結び目を指先で確かめ、ケイトリンは兵の掌へ温石を押し当てた。

  ダルセの“長”が細く深く、短い二つが石の腹へ染みる。

  束は解けた。

  だが、位置は残った。切っ先の“触れずに触れた”痕と、街じゅうの“待ち”の癖が、橋の中央に目に見えない印を刻んでいる。

  こはるは息をゆっくり吐いた。肺の奥で浅い谷が一つ落ち、胸の棚の白と紅が互いの影を温め合う。

 (次は——“集める”。橋ではなく、城の“背”で。そこに置く)

  そのとき、港の方角で稲光が海の端を裂いた。遅れて腹を叩くような雷鳴。

  伝令が走らずに来る。「港、鳴かず。背、保つ。橋、切っ先“在る”」

  王太子の旗が遠くで二度、静かに揺れた。

  海人がこはるへ視線を寄越す。

 「行こう。背で“集める”。——走らない」

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直した。

 (名は渡さない。灯は胸に。切っ先は在る。次は“集める”)

 港から城の“背”へ向かう道は、夕闇と潮の匂いが混ざり、石畳の目に海霧が薄く溜まっていた。

  こはるは歩幅を崩さないように、右の足裏に浅い谷をひとつ置き、左の胸で紅の灯を守った。

  背で“集める”ためには、この歩みの拍そのものが“束”の芯になる。乱せば、全てがこぼれる。

  海人は背後に目を配りながらも、真正面しか見ていないような足取りで進む。

 「背は風が抜ける。——そこに在るのを集め、形にする。形にしても噛ませない」

  こはるは頷き、胸の棚に灰を薄く足して、空の面を広げた。

  裏庭の門に近づくにつれ、音は減り、石壁の呼吸が深くなる。

  ケイトリンが先に門をくぐり、庭に散らばる兵へ目をやる。

 「疲れは置け。集める場では削られる」

  兵たちは言葉もなく頷き、腰を下ろし、掌を温石にかざす。

  ディランは旗を高く掲げ、庭の四隅へとゆっくり向けた。

  タイは庭の中央に敷かれた石板を布先で撫で、わずかな傾きを直す。

  ダルセは竪琴を抱え、長い音をひとつ置いてから、間を挟まず短い二つを庭の空へ放った。

  ——集める準備が整っていく。

  こはるは庭の北側に立ち、胸の棚から白を一筋、紅をその奥に、灰を全体へ薄く。

  南では海人が同じく棚を整え、互いの“空”を中央で合わせる。

  庭の空気がわずかに沈み、外の風が背の壁を舐めて流れていく。

  その流れの中に、橋で固定した“切っ先”の痕が細い糸のように漂っているのを、こはるは感じた。

 (ここで——捕まえる)

  捕まえるといっても、力で掴むのではない。

  糸を自分の拍の中へ“落とす”のだ。

  こはるは右足の谷を浅く広げ、胸の紅をさらに奥で灯し、灰を厚くかけた。

  海人も左足に谷を置き、棚の白と紅を逆にして合わせる。

  ——糸が二人の間に落ちた。

  その瞬間、庭の中央に小さな渦が生まれる。

  ディランの旗がゆっくり下ろされ、タイの布先が石板の目を優しく押さえる。

  ケイトリンが温石を一度だけ開き、ダルセの長音が渦の底に沈む。

  渦は輪郭を直接は引き込まない。

  だが、切っ先で固定された“位置”から、逃げ場を細く削っていく。

  外で見張る兵が低く「動かない」と告げ、庭の拍はさらに深まった。

  海人がこはるを見る。

 「次は——形にする。形は見せるだけ。触れさせない」

  こはるは紅を守る棚に白をもう一枚足し、灰で縁をぼかす。(形を見せるのは挑発じゃない、知らせだ)

  庭の中央に、淡い光の輪が浮かぶ。

  輪郭はそこへ視線を向けるが、踏み込まない。

  しかし、その位置は変わらない——それが目的だ。

  こはるは胸の奥で灯を小さく震わせ、渦と輪を同時に保った。

 (これで、“次”を呼べる。背で集めたものを——港へ返す)

 裏庭の渦と輪は、息を合わせるほどに音を失い、石の目が紙一枚ぶん沈んでは戻った。

  こはるは胸の棚で紅を守り、白を縁へ滑らせ、灰で“空”を厚くする。海人は反対側で白を芯へ寄せ、紅を奥で揺らさず、灰で外を薄く撫でた。二人の“空”は中央で触れずに触れ、渦の縁に道を作る。

 「返す」

  海人の声は低く短い。

  ディランが旗を横に寝かせ、半歩の“待ち”を二度に分けて庭の南へ送る。

  タイは布先で石板の目を撫で、楽の芽を先に眠らせる。

  ケイトリンは温石の蓋を一度開き、兵の掌へ押し当て、すぐ閉じる。「息、落とすだけ」

  ダルセは“長”を細く引き、短い二つを地面の下へ沈める。

  輪郭は渦を踏まず、輪を噛まず、距離だけを測る。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚で浅い谷を長くひとつ。(港へ返す道は、背骨から腹へ。——走らない)

  門を出ると、城の廊に夜の気が溜まり、火皿の明かりが薄く揺れた。

  “耳”は背で深いまま、半拍遅れて廊下へ流れ、次いで石段を降りて街路へ落ちる。

  こはるは右足裏に浅い谷、左の胸で紅、灰を挟んで“空”。

  海人は角の手前で止まり、曲がる前に“待ち”を置く。

  街の拍は乱れない。

  屋根の影から避難の列が現れては消え、子の肩が上がりそうになるたび、ケイトリンが折り目を示して「ここで止まる。次で渡す」と短く置く。母の息が落ち、列の歩幅が揃う。

  老いの男が荷車の轅を手放しそうになった時、タイが布先で車輪の“目”を撫で、きしみ音を波に溶かす。男は驚きもせず、ただ歩幅を戻した。

  ダルセの“長”は聞かせるためでなく、道の底に敷くためだけに鳴り、短い二つが曲がり角の“待ち”に添えられた。

  王都大橋の手前で、こはるは息をひとつ置いた。

  橋の中央に刻んだ“切っ先”の痕はまだ在り、耳の空洞は深い。

  輪郭は川下に半歩退き、こちらの道の癖を測るだけで噛みに来ない。

 「橋は“渡すふり”で返す」

  海人が角度を変える。

  ディランは旗先で橋の中央を指し、半歩遅らせて港の方向へ下ろす。

  こはるは白を前へ、紅を奥で灯し、灰で“空”を細く繋いだ。

  座は中央に“進むふり”をし、三拍で止まる。返りだけが川面を走って港の“腹”へ滑り込んだ。

  その時、橋の下で水音がひとつ、意図的に高く跳ねた。

  輪郭が“名”の代わりに拍そのものを噛もうと、音の角を立てたのだ。

  こはるは布を鼻口へ押し当て、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。灰が“空”を受ける。

  ダルセの“短、短”が逆位相で重なり、タイの布先が欄干の節を撫でる。

  音は粉になり、耳の空洞は崩れずに保たれた。

  橋を渡り切ると、港の匂いが夜気の底から立ち上がった。

  呼吸井の口がふっと沈み、戻る鐘の深い谷が二度、王都の腹を撫でる。

  老船大工が縁で索を叩き、短く言う。「腹、鳴かず」

  海人が頷き、「返り、入った」とだけ答えた。

  港の“腹”へ降りる小径は狭い。石段の目が湿り、足裏に薄い冷えを残す。

  こはるは胸の棚で紅を守り、白を薄く、灰を厚くした。(ここで雑になれば、全部こぼれる)

  “網の間”の入口で、ケイトリンが先に潜り、「匂いはいらない。通ってる」と短く置く。

  ディランは旗を畳み、手首の“待ち”だけで合図を渡す。タイは木枠の“目”を布で眠らせる。

  ダルセの“長”は低く、短い二つは狭い天井に吸わせるだけ。

  “網の間”の最奥、南の排出口。

  潮は静かに出入りし、渦は極小のまま呼吸している。

  こはるは両膝をつき、胸の棚で白と紅を向かい合わせ、灰で“空”を一枚挟んだ。

 (背で集めた糸を——ここへ落とす)

  浅い谷を長くひとつ。

  背から腹へ、橋から腹へ、城から腹へ。糸が三本、音もなく落ち、同じ深さで結ばれた。

  呼吸井が静かに開き、港の底が紙一枚ぶん沈む。

  泉の面は城でわずかに下がり、王都の大橋の石の腹が一息だけ深くなる。

  街全体の拍が、束ね直されてから離れた。

  ——その刹那。

  外輪の肩で、黒でも白でもない輪郭が三つ、ほぼ同時に崩れ、次いで一つに寄ろうとした。

  合わせの“ふり”が諦め切れず、最後の“口”を作る構え。

  伝令が走らずに来る。「外輪、寄る。——一」

  王太子の旗が城楼で二度揺れ、作戦室から短い言葉が降りた。「次、極点」

  極点。

  潮枯れの最深に落とす“待ち”と“返り”の束。

  海人は港図の縁に爪で小さな印を刻む。「大潮門。——走らない。座は‘歩く座’で。骨は‘肩’先行」

  ディランが旗へ“極点”の角度を記し、タイは布先の結び目を固くする。

  ケイトリンは温石を三つに割り、帆布の端へ滑らせる。「通すだけ」

  ダルセは“長”を胸で深く据え、短い二つの間に極小の沈黙を足した。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直す。浅い谷をひとつ。(名は渡さない。灯は胸に。——極点)

  港口の暗がりに、門楼の影が長く伸びている。

  戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が腹を撫でた。

  “耳”は背で保たれ、橋で深く、港の底で静かに沈む。

  極点へ向かう列の肩は、同じ高さで落ち続けていた。

 (ここまで来た。——次で、噛ませずに“止める”)

 港口から極点へ向かう道は、海図の上では単なる細い線だが、実際には水と風と音が複雑に絡む迷路だった。

  足元の石段は海苔のような薄膜で滑りやすく、波の跳ね返りが細かい水粒となって顔や腕にまとわりつく。

  こはるは浅い谷を胸に保ちながら、一歩ごとに足裏で“目”を確かめた。紅は胸奥に沈め、白は道筋の前方に置き、灰で空を細く維持する。

  海人は前方で手を挙げ、角度をわずかに変える。

 「極点までは三呼吸。ここからは“返す”じゃなく“止める”だ」

  その言葉に、ディランは旗の端をしならせ、二度、短く振った。合図は港口に残った者たちにも伝わり、背後で足音が揃う。

  タイは布の端を水に浸し、滴を一粒ずつ指先で払うようにして湿度を整えた。

  ケイトリンは温石を懐にしまい、代わりに掌で空気の層を撫でるようにして温度差を抑える。

  ダルセの“長”は胸の奥深くで鳴り、短い二つがその響きに寄り添いながら、海面の揺れをわずかに沈めた。

  極点は、港の奥にある石門の下に隠されていた。

  門の両脇には潮の流れを計るための“耳”が二つ、古い石に刻まれた文様のように並んでいる。

  その耳は生き物のように震え、流れの方向と速さを微細に知らせていた。

  海人が膝をつき、耳の片方に指先を触れる。

 「まだだ……あと半拍」

  こはるは胸の紅をさらに奥に押し込み、白をぎりぎりまで前に出す。灰は中央で細く保たれ、浅い谷がゆっくりと形を整えていく。

  外輪の気配が、潮の裏側からじわりと迫ってきた。

  黒でも白でもない輪郭が二つ、音もなく近づき、やがて重なろうとしている。

  ディランが旗を高く掲げ、次の瞬間、海人が短く命じた。

 「——今だ」

  こはるは白と紅を中央で噛み合わせ、灰で“空”をぴたりと塞いだ。

  同時に、ダルセの“短、短”が逆位相で重なり、タイの布先が石門の目を撫でる。

  ケイトリンは空気の層を瞬間的に引き締め、ディランは旗で“止まり”を指示した。

  極点の耳が震えを止め、港全体の呼吸が一瞬だけ途切れた。

  外輪の輪郭は、その“無”に踏み込みきれず、音も姿も揺らしたまま、潮の奥へと押し返されていく。

  港の水面は静まり返り、石段に落ちる波の音さえも、深い布で包まれたように遠のいた。

  海人はゆっくりと立ち上がり、港の奥を見渡す。

 「……止まった」

  その声は低く、しかし確信に満ちていた。

  こはるは胸の紅をそっと解き、浅い谷をひとつ長く置いた。

  もう“名”は噛まれない。拍は整い、街も港も静かな呼吸を取り戻していた。

 極点が静まり、門楼の影はひと息だけ短くなった。

  こはるは胸の棚から灰をそっと引き、白と紅の間に残した“空”の薄さを指先で確かめる。(噛ませずに止めた——けれど、終わりじゃない)

  海人が石耳を離れ、港の面を見渡した。

 「今の“無”は長くは保てない。外輪は形を変えて、別の肩で来る」

  ディランは旗を巻きつつ、刃の腹を布で拭った。刃鳴りはさせない。「橋へ戻る。背と腹は“耳”を浅く保ち、極点は二短で見張る」

  タイは木柄の結び目を固くし、「港の“楽”はすぐ芽吹く。先に眠らせて回る」と短く言う。

  ケイトリンは温石の残りを数え、ふたを閉じた。「通ってる。余計は要らない」

  ダルセは竪琴を背へ戻し、弦の張りを指で弾かずに確かめる。声は出さない。息だけを整えた。

  桟橋に上がると、戻る鐘が深い谷を二度落とした。王都の腹がそのたびに沈んでは戻り、港の拍とつながる。

  伝令が走らずに寄る。「城、背 保つ。橋、“切っ先 在る”。外輪、肩をずらす」

  王太子の旗が城楼で短く揺れ、作戦室からの言葉が風に混じる。「橋、迎え。剣と歌の備え」

  王都大橋へ向かう道すがら、こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚を整えた。

  白は前へ、紅は内へ。灰は極薄の“空”。

  街の拍は束ね直されており、避難の列はもう走らない。角ではケイトリンが折り目だけを示し、子の肩が一段落ちるたび、母の息が同じ間で返った。

  タイはきしむ扉の“目”を布で撫で、音の角を波に溶かしていく。

  橋のたもとに着くと、霧は細い糸になって欄干に絡み、川面の黒が輪郭を曖昧にした。

  ――だが、“切っ先”の痕はまだ在る。

  こはるは手を欄干に置き、そこに刻まれた目に見えない印を胸の谷でなぞった。

 (ここから“聴く”は“迎える”へ。噛まず、押さず、重ねる)

  海人が手短に配す。

 「橋の中央、“耳”を一段浅く——動ける深さに。背は半拍先行で支え、腹は半拍遅らせて返す。切っ先は触れずに在す」

  ディランが旗へ“迎え”の角度を描き、半歩の“待ち”を二分割して上下へ散らす。

  ダルセは“長”の根を低く据え、短い二つのあいだに極小の沈黙を入れる。

  タイは欄干の節ひとつひとつに布先を触れ、楽の芽が立つ前に眠らせる。

  ケイトリンは兵の喉へ布の折り目を示し、「深く——返事はいらない」とだけ落とした。

  ——外輪の肩が替わった。

  黒でも白でもない輪郭が、今度は川上からではなく、川の腹の底を這うように近づく。

  水音は立てない。代わりに“懐かしさ”を滲ませ、名より先に喉の裏をくすぐる。

  春の祠。星の湿り。

  こはるは布を鼻口に押し、浅い谷を三つ。(渡さない) 白が前へ、紅が内へ。灰が“空”を受け、懐かしさは粉になった。

  輪郭は形を作らず、“切っ先”の在処を探る。

  海人の声が胸の奥まで届く。「迎える。——剣と歌の“合わせ”は、走らない」

  ディランが一歩進み、刃の角度を“待ち”へ合わせる。剣尖は川へ向かない。欄干と同じ高さで止まる。

  ダルセの“長”が橋の腹に落ち、短い二つが兵の踵へ薄く触れる。

  拍は乱れない。むしろ、集まる。

  輪郭の縁が、切っ先の“触れずに触れた”痕にまた触れた。

  剣はまだ振らない。歌もまだ上げない。

  こはるは胸の棚に薄い棚をもう一枚挟み、白と紅の間の“空”を広げる。(ここで噛ませない。——次に向こうが“音”を立てる)

  川底のどこかで、小さな泡が弾けた。

  合図だった。輪郭が“名”の代わりに音の角を立て、拍そのものを噛みに来る。

  その瞬間、ディランの刃が“音にならない音”で角を落とし、ダルセの“短、短”が逆位相で重なる。

  こはるは浅い谷をひとつ長く置き、切っ先の根を揺らさずに受ける。

  ——噛まれない。

  音の角は粉になり、輪郭は半歩退いた。

  王太子の旗が城楼で一度、縦に揺れる。“よし”。

  海人がすぐに次を告げる。「中央を“交差”に。剣は上から下へじゃない、横へ合わせる。歌は縦に長く」

  ディランは刃の面を横に寝かせ、欄干と同じ高さで“待ち”を通す。

  ダルセは“長”を一段深くして縦に通し、短い二つを人の肩の高さで分けた。

  兵の踵に同じ間が揃い、橋の“耳”は浅くも崩れない。

  輪郭は川腹で身を丸め、もう一度“音”を立てる構えを見せる。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷を準備する。(来る——今度は強い)

  タイが欄干の節を先に撫で、ケイトリンが温石を掌に押し、「息」とだけ言う。

  川面がわずかに隆起した。

  ——来た。

  “名”ではない。音でもない。拍の外側に“空白”を差し込んで、こちらの“待ち”を折ろうとする手だ。

  こはるは“空白”に“空”を重ねる。灰で、同じ“無”をこちらから置く。

  ディランの横一文字が“空白”の縁をなで、ダルセの“長”がその底を埋める。

  海人の低い声が刃にも弦にも届く。「押さない。——重ねる」

  衝突は起きない。

  重なった“無と空”が互いを呑み、輪郭の手は噛み切られずにほどけていく。

  橋の中央に、切っ先の“在る”がもう一度、細く立った。

  戻る鐘が深い谷を落とす。二度。

  城の背で“耳”が保たれ、港の腹が静かに沈み戻る。

  伝令が走らずに来る。「外輪、肩 崩る。合わせ、散る」

  王太子の旗が遠くで揺れ、短い言葉が風に混ざる。「夜半、剣と歌——橋上で立てる」

  こはるは胸の棚を確かめ、白と紅の間に極薄の灰をひと筋。(ここまでが“聴き取り”。次は“剣と歌”で通す)

  海人が頷き、欄干から手を離す。「夜明け前、もう一度ここで。——走らない」

  ディランは刃を鞘に納め、旗を巻いた。

  タイは布先を解いて洗い、また静かに巻き直す。

  ケイトリンは温石を三つに割って包み直し、「足りる」とだけ言った。

  ダルセは竪琴の弦を撫で、声を出さずに一度、胸で“長”を鳴らした。

  霧はまだ橋に残る。

  だが、“切っ先”は在る。“耳”は生きている。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直した。

 (名は渡さない。灯は胸に。——次章、“剣と歌”)


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