第32章_交錯する策
明け前、王都の回廊は湿り気を孕み、石が低く息を吐いた。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城の腹を渡る。港の灯は細い糸を束ね、鐘楼の根元に据えた“呼吸井”は静かに沈んで戻った。
作戦室の扉が開くと、地図の上に海の色が一枚、置かれているかのようだった。五つの海域が薄墨で、王都と港、その間に赤い脈。さらに、外輪の肩から滲み出る黒の点が三つ、城へ向かう道をぼんやりと汚している。
王太子は余計を言わない人だ。彼は視線だけで「座れ」と告げ、短く指示を落とした。
「港と城の脈は通った。今日やるのは二つ。——“耳”を広げること、それから“策”を交錯させることだ」
“耳”。
それは兵の耳でも見張り台の耳でもない。街全体の拍を揃えるための、目に見えない聴取域のこと。呼吸井と拍の芯、座と縫い目、骨の肩とわき腹、そのすべての返りが同じ間で街へ届くよう、あらかじめ敷く“聴き方”の座である。
「耳は三段にする」海人が地図へ指を滑らせる。「城門前、王都大橋、港の中腹。橋の上では“走らない”。拍を深くして通す」
ディランが旗の角度に印を足した。「橋上は霧が降りる。見えぬ合図に備えて手首で半歩の“待ち”。二短は変えない」
タイは木柄の布先を指で整え、短く言った。「道の“楽”を先に眠らせる。耳は焦ると詰まる」
ケイトリンは樹脂の蓋を撫で、「香りは使わない。喉は通ってる」と小さく笑った。
ダルセは竪琴の弦を一本増やし、低い“長”の下で短い二つを隠すように調弦する。
「交錯する策」王太子は黒の点を二度叩く。「眷属は三つに割れ、同じ時刻に別の手を打ってくる。港の腹、城の背、そして大橋。——同時に来る。“同時に見せかける”も含めて」
老船大工が顎をさすり、こはるへ視線を流した。「同時は、人の肩をばらばらにする。耳が要るな」
こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ、浅い谷をひとつ。(名は渡さない。灯は胸に)
作戦は短い言葉で編まれていく。
一隊は王都大橋で“耳”を広げ、二隊は城門前で“耳”を据え、三隊は港の中腹で“耳”を保つ。
“耳”は座って進み、走らない。合図は旗と鈴、そして胸の拍。
王都大橋。
朝靄が低く垂れ、石の欄干に水の珠が並ぶ。橋脚が二度、腹で鳴り、川面の泡が細く弾けた。
ディランが先頭に立つ。旗は低く、角度は半歩の“待ち”。
こはるは帆布を三日月に敷き、白で内側へ橋、紅で胸へ灯、灰で“空”を薄く挟む。
ダルセの“長”が霧を撫で、短い二つが橋板の目へ落ちる。
ケイトリンは欄干の影で包帯をほどき、兵の喉元へ布を示す。「息を深く。返事はいらない」
タイは橋板の節を布先で眠らせ、急ぎ足になりそうな踵の前へ“止まる”を置いていく。
“耳”が立つと、橋の上の気配が同じ背丈になった。行商の荷車の軋みと兵の鎧の擦れる音が、互いを邪魔しない。
こはるは胸の棚で浅い谷を長くひとつ。白が前へ、紅が内へ。
(ここで走らない。渡すのは、私が選ぶ“間”だけ)
同刻、城門前。
石畳の継ぎ目に水が残り、門楼から落ちる影が濃い。
海人は門の喉で“耳”の座を据え、門番に短く言う。「押さない。——止めて、置く」
兵がうなずき、槍の石突きが同じ拍で地を叩く。
王太子は城楼の上から目で合図を降ろし、余計を言わない。
港の中腹では、老船大工が索を叩き、呼吸井の口を見張る。
「耳が立ってる間は、腹は鳴かない」
「鳴ったら?」とこはるが問うた時、空の色が一段暗くなった。
——同時。
黒でも白でもない輪郭が三つ、王都大橋と城門前と港の中腹で同時に結ばれる。
合わせの“ふり”が古い手順を舐め、名を取りに来る。
大橋では霧が揺れ、城門前では槍の影が一瞬揺らぎ、港の中腹では呼吸井の縁が紙一枚ぶん浮いた。
海人の声が胸の奥へ届く。「押さない。噛むな。離れる」
ディランは旗の“待ち”を半歩延ばし、タイは“楽”の芽を先に眠らせる。
ダルセの“長”が一分だけ深い。短い二つは遅れてひとつ、早めてひとつ。
こはるは布を強く押し当て、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。灰が“空”を受ける。
輪郭は形を作り切らず、三方向で同時に粉に崩れた。
——策はここから交錯する。
橋の下手で、眷属が“囮”の列を走らせた。泣き叫ぶ声は子の高さを真似、呼吸の間を乱すように揺れる。
ディランの目が霧の奥で細く光り、「待て」を掌で示す。
こはるは走り出しそうな足の前に“止まる”を置き、布を渡さず折り目だけを示した。「ここで止まる。次で渡す」
本当に迷っている子が一人、欄干の陰から出た。
ケイトリンが膝を折って視線を合わせ、「喉を通す」と短く言う。母の肩が一段落ち、子の手が布の折り目を真似た。
城門前。
門楼の影で黒い“口”が片目を開く。
海人は舵のない舵手のように角度だけを変え、門の喉に座を置く。
「噛まない。——ここは通路だ。押さず、詰めず」
兵の槍が二短で地を打ち、足並みがそろう。
王太子は余計を言わない。ただ片手を胸に置き、拍に一つ“待ち”を足す。
港の中腹。
呼吸井がふっと浮いて、すぐ沈む。
老船大工が井の縁を叩き、タイが布先で縁の“目”を撫でる。
ダルセの“長”が井の内に落ち、短い二つが港の腹へ降りる。
こはるは胸の棚で浅い谷を長くひとつ。白が前へ、紅が内へ。
井は鳴らなかった。代わりに腹が一段深くなった。
その時、霧の裏で“名”が投げ込まれた。
——こはる。
“誰かの声”の形を借りた“名”。
喉が一瞬、反応しそうになった。(渡さない)
こはるは布を鼻口に押し当て、浅い谷を連ねる。白が前へ、紅が内へ。
ディランの旗が半歩遅れで落ち、タイの布先が橋板の“目”を眠らせる。
呼びは粉になり、“耳”は切れなかった。
交錯の二手目。
眷属は城門前の“囮”を橋へ、橋の“囮”を港へ、港の“囮”を城門へ向けて回し始めた。
三つの列が互いの振る舞いを真似、街の拍に“同時の乱れ”を作ろうとする。
「回すなら、こちらも回す」海人が地図へ指を走らせる。
「橋の“耳”を半歩遅らせて城へ渡し、城の“耳”を半歩先どりで港へ返す。港の“耳”は腹で一度沈んで、橋へ薄く戻す」
言葉は短い。拍は長い。
ダルセの“長”が一本、街の上を横切り、短い二つが別々の方向へ散っていく。
ディランの旗が橋上で半歩遅れて落ち、城門前で半歩先に上がる。
タイの布先が港の縁で“楽”の芽を眠らせ、ケイトリンは布の折り目を子の目線で示す。
こはるは胸の棚に薄い棚をもう一枚挟み、白と紅の間に“空”を足した。
——同時の乱れは、同時の“待ち”でほどける。
大橋の霧が薄く引き、城門の影がひとつ後ろへずれる。
港の腹は揺れず、呼吸井の口が静かに開いて静かに閉じる。
王太子が作戦室の窓辺で息を短く吐いた。
伝令が走らずに来る。「橋、走らず。城門、詰まらず。港、鳴かず」
彼はうなずくだけで、余計を言わない。
日は高くなり、雲はまだ低い。黒でも白でもない輪郭は、外輪の肩で形を作り損ねては崩れ、また集まる。
交錯は続く。だが“耳”は立ったままだ。
こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直し、浅い谷をひとつ。(策は回した。次は——切っ先。こちらから一度、先に噛まずに触れて“位置”を確かめる)
海人が頷く。「黄昏、王都大橋の中央で“耳”を一段深く。そこで位置を聞く」
ディランは旗の角度に“黄昏”の印を足し、タイは木柄の布先を乾いた布に替える。
ケイトリンは温石の残りを数え、「足りる」とだけ言った。
ダルセは弦を一度撫で、長い浅い谷を空に吊った。
霧はまだ橋に残り、鐘楼の根元では呼吸井がふっと沈んで戻る。
街は同じ間で息をし、策は交錯したままほどけずに保たれている。
(名は渡さない。灯は胸に。耳は立った。——黄昏で位置を聞く)




