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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第31章_波間に響く誓い

 夜明け前の海は、群青色の静寂を抱えていた。波間に浮かぶ漁船が、かすかな軋みを立てるたび、海面に淡い光が揺らぐ。こはるは舳先に立ち、冷え切った風を頬に受けながら、港町の灯が遠ざかっていくのを見つめていた。

  甲板を歩く足音が背後から近づき、海人が無言で隣に立つ。彼の手には小さな羅針盤が握られていた。

 「本当に行くんだな」

  低く落とされた声に、こはるは短くうなずく。

 「もう、決めたことだから」

  彼らの目的地は、沖合いに点在する岩礁群。そのひとつ、潮目の中に沈む“蒼鱗の礁”には、ある古い伝承が残っている。嵐の夜、その礁に立てられた誓いは、必ず果たされる——。それは迷信だと笑う者も多いが、こはるはその力を信じたかった。いや、信じることでしか、この道を進めないと思っていた。

  海人が肩越しに視線を投げる。

 「潮が変わるまでに戻らなきゃ、港に近づけなくなる」

 「わかってる」

  短いやり取りのあと、再び沈黙が落ちる。波の音と船の軋みだけが、二人の間を満たしていた。

  やがて水平線が朱に染まり始めるころ、遠くに岩礁の影が見えた。海面から突き出た黒い岩肌が、まるで海の底からのぞく巨大な獣の背のようだ。船が近づくにつれ、潮の流れが急に複雑になり、舵を握る海人の指先に力がこもる。

  岩礁に接岸するのは危険だった。波が岩肌にぶつかり、白い飛沫を高くあげる。こはるは縄梯子を肩にかけ、海人の制止を振り切って舷側へ身を乗り出した。

 「私が行く」

 「待て、危ない!」

 「ここまで来て、引き返せない!」

  海風が髪を乱し、冷たい潮水が足元を濡らす。こはるは梯子を岩に掛け、渾身の力でよじ登った。岩の上は滑りやすく、足場は不安定だ。だが、その中央には確かに古びた石碑があった。表面には波に削られた文字がかすかに残り、朝日を受けて淡く輝いている。

  こはるは石碑の前に膝をつき、胸の奥に溜め込んだ言葉を吐き出すように、はっきりと誓いを告げた。

 「必ず——彼を守る。この命が尽きるまで」

  次の瞬間、突風が吹き抜け、潮の匂いが強くなった。海人が甲板から叫ぶ声が聞こえる。

 「こはる! 急げ、潮が動き始めた!」

  こはるは振り返り、険しい潮のうねりを見た。海面はすでに荒れ始め、帰路を阻むように波が立ちはだかっている。

 岩礁の上で潮風に体を煽られながら、こはるは必死に体勢を整えた。濡れた岩肌は足を取るが、背後に迫る波のうねりはそれ以上に容赦がない。海人の声が、荒れる風と波音を切り裂くように響く。

 「こはる! 戻れ!」

  振り返ると、船の舷側から必死に手を伸ばす彼の姿が見える。しかしその距離は思った以上に遠く、潮流が瞬く間に二人の間を広げていく。

  こはるは石碑から手を離し、急いで梯子へと向かった。足場の悪い岩場を蹴るたび、潮水が膝までかかる。梯子に手をかけた瞬間、背後から押し寄せた大波が、こはるの体を横から叩きつけた。

 「っ——!」

  肺の空気が一瞬で奪われ、視界が泡立つ。必死に岩肌に爪を立て、流されまいと踏ん張る。指先に感じる石の冷たさだけが、かろうじて現実とのつながりだった。

  海人が甲板から身を乗り出し、縄を投げる。

 「掴め!」

  こはるは力いっぱい手を伸ばすが、波がまた視界を奪う。腕が痺れ、息が続かない。それでも、もう諦めるわけにはいかなかった。あの誓いは、必ず守らなければならない——その一心で、こはるは再び手を伸ばし、縄の端を掴んだ。

  海人が渾身の力で引き上げる。船縁に手が届いた瞬間、こはるは全身の力を失い、甲板に崩れ落ちた。肩で荒く息をつきながら、彼はこはるの顔を覗き込む。

 「……無茶をするなって、何度も言っただろ」

  叱責の声に混じる安堵を、こはるは聞き逃さなかった。

  船はすぐさま港への帰路を取るが、潮の流れは思った以上に速くなっていた。水平線の向こうに、黒雲が這うように広がってくる。

 「嵐が来る……」

  海人の呟きに、こはるは唇を引き結んだ。

 黒雲が海の縁を呑み込みはじめた。風は表層だけを裂く鋭さに変わり、波の肌は粟立つ。

  舵輪に手をかけた海人が短く判断を落とす。「港に戻る。座に乗り換える。——走らない」

  甲板に倒れ込んでいたこはるは上体を起こし、胸の内に燈した“二つ”の拍をそっと重ねた。白は前へ、紅は内へ。浅い谷をひとつ置くと、肺の中の乱れが一段落ちる。

  帆は半分まで落とし、索は鳴き、舳先は斜めに波の斜面を撫でて降りる。ディランが前檣の根で姿勢を低くし、風下側の綱に半歩遅れて体重を預けた。

 「曲がる前に止まる。二短は変えない」

  タイは木柄に新しい布を素早く巻き、舷の内側を軽く叩いて“いま生まれた楽な道”の腰を先に眠らせる。

  ケイトリンは桶の陰で薬包と布を手早く仕分け、甘い滴と“喉を通すだけ”の香草布を甲板中央に置いた。

  ダルセは竪琴を濡らさぬよう体で庇い、音を出さずに弦の位置を確かめる。拍の型は胸の中で鳴らし、港の鐘の深い谷に合わせる準備だけをした。

  最初の押しが来る。

  西からの突風が、舵の裏に回り込む形で帆を膨らませ、船体を横へ押し出した。海人は舵を切らない。切れば波の肩に乗り上げて転ぶ。

 「押さない。ずらす」

  舳先を半度だけ外へ滑らせ、横腹を狭い角度で波に当てると、船はきしみながらも進路を保った。

  こはるは舷の縁に膝をつき、胸の棚に極薄の“灰”を一枚挟む。風と波の間にわずかな空を作り、そこへ浅い谷を落とす。甲板を叩く水音が少しだけ低くなった。

  稲光が遠くで海を割り、遅れて腹の底を鳴らすような雷が来る。

  雲脚の向こう、港の灯が糸の束になって一度だけ揺れ、そのまま細く伸びていくのが見えた。

  海人が舳先越しに告げる。「灯台の“拍の芯”が生きてる。座へ繋げば戻れる」

  こはるはうなずき、濡れた髪を指で払った。誓いの言葉がまだ喉の奥で反芻されている。——必ず、彼を守る。

  波の谷へ降りる瞬間、船体がわずかに浮いた。その薄い無重力の隙間に、別の呼びが紛れ込む。

  名ではない。古い航法の手順——“帆を張れ”“舵を切れ”“風に合わせろ”。

  こはるは唇を固く結び、布を鼻口に当てて浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  ディランが綱の張りを半歩遅らせ、タイが木柄で舷の“目”を撫でて眠らせる。

  呼びは粉に崩れ、船は痩せずに次の斜面へ移った。

  やがて港外のしるべ岩が見えた。泡に縁取られた黒い突起が、嵐の中で意外なほど確かな位置を示す。

 「第一の座、踏み石の輪」

  海人の声に、ディランが旗の代わりに腕を高く振る。

  こはるは胸で白い橋を短く置き、紅の灯を深く潜らせた。「座って進む場所」を甲板の上に作る。

  最初に座るのは負傷者と子、それから列の後ろの者たち。座は進む。座りながら、拍だけを深くする。

  ケイトリンが“喉を通す”を合間に落とし、ダルセが低い谷を一つ、間を空けて二つ、胸の中でだけ鳴らす。

  第二の座、空洞の器具の影は、突風で形を変えやすい。器具の“名”が舌の先まで出かかった。

  こはるは布を強く押し当て、浅い谷を連ねる。(渡さない。名は渡さない)

  タイの木柄が器具の横腹を一度“噛まずに”触れ、ディランの舵印が半度外へ逃がす。

  影は空を噛んで崩れ、座の返りは薄く港へ届いた。

  第三、礁と杭の間。波の肩が不規則に重なり、楽な道が勝手に太る。

  海人が短く言う。「楽を先に潰す」

  タイが舷を布で二度、軽く叩く。木と布と水のあいだに小さな眠りを置く。

  こはるは白の橋を一本、紅の灯を胴に通し、灰で“空”を挟む。

  船体のきしみが一瞬、低くなり、列の肩が同じ高さで落ちた。

  第四、広い浅瀬の三角。

  ここで海は一度だけ、こはるの喉へ“懐かしさ”を差し出した。春の夜明け。祠の白い礎石。最初の日の湿り気。

  ——戻る?

  こはるは誓いの言葉を胸で確かめ、浅い谷を長く一つ。(戻らない。選ぶ)

  白が前へ、紅が内へ。灰が“空”を受ける。

  懐かしさは粉に崩れ、三角の座は拍を保った。

  「第五、第六を重ねる。三日月を二重に」

  海人の指示で、こはるは帆布を左右にずらし、座を重ねて“縫い目”を太らせる。

  ダルセの谷が胸の中で「長・短・短」。港の鐘の深い谷が遠雷に紛れながらも、確かに二度返ってきた。

  ——灯台が生きている。呼吸井も、腹も。

  標の並びが港の喉へ向かって一本の線に揃った時、黒でも白でもない輪郭が、風下で四つ、同時に結ばれた。

  合わせの“ふり”が、座を“名”で呼ぼうとする。

  海人の声は低い。「押さない。噛むな。——離れる」

  タイは横腹に“いる”だけを置き、すぐ離す。

  ディランは綱を一拍遅らせて締め、舵を半度もどす。

  こはるは浅い谷を三つ、胸の棚で落とす。白が前へ、紅が内へ。

  輪郭は形を作り切らず、風にほどけた。

  港の喉がひらく。

  呼吸井の口が床下でふっと沈み、波止の脇が紙一枚ぶん濃く、鐘楼の足元がひと息深くなる。

  座の返りは腹へ降り、骨の肩とわき腹を経て泉へ上がる。

  船は座から座へと渡り、最後の縫い目を通って桟橋の外縁へ滑り込んだ。

  着桟。

  最初に降りたのは子と年寄り、次に負傷者。

  こはるは甲板に手をつく母の背へ軽く触れ、折り目を示すだけで布を渡した。「ここで止まる。次で渡す」

  母は息でうなずき、子の肩が一段落ちて戻った。

  全員が渡り終えた時、稲妻が海の端を裂き、遅れて腹を叩くような雷が重く来た。

  それでも、港の拍は切れない。

  王太子が波止の付け根に立ち、余計を言わずに頷く。伝令は走らずに報を置いた。「灯台、生きる。呼吸井、通る。腹、揺れず」

  海人が舷側に手をつき、濡れた髪をかき上げて息を吐いた。

 「戻った」

  こはるは濡れた衣の裾を握りしめ、彼の横顔を見上げた。嵐の唸りの下で、彼の呼吸が自分の拍と同じ間で落ちているのが、確かにわかった。

 「――守るって、誓ったから」

  海人は目だけで笑って、短く答える。「じゃあ、俺も。君を支えるって、今ここで誓う」

  その言葉が胸の奥で静かに重なり、誓いは拍になった。

  灯は火ではない。返りの明るさ。二人の誓いは、港の呼吸に細い光を足した。

  嵐はまだ終わっていない。外輪の向こうで、深い“口”がどこかの肩を探っている。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べ直す。

 (名は渡さない。灯は胸に。——次は、港と城を一本で通す“脈”)

 港の拍が落ち着きを取り戻す中、甲板に残ったのは海人とこはる、そして数名の船員だけだった。

  他の者たちはそれぞれ港の奥へ向かい、家族や仲間の元へ走っていった。濡れた板の上に立つ二人の間には、まだ潮の匂いと嵐のざわめきが残っている。

  海人は視線を港の灯台に移した。灯は確かに生きているが、その光はわずかに揺れている。外海の荒れが完全に収まったわけではない。

 「……次は、港から城までを一本で通す脈だな」

  こはるは頷き、視線を海から街並みへと移す。

  白壁の倉庫が並び、その奥に古い石造りの城が見える。塔の窓に灯が二つ、ゆっくりと瞬いていた。

 「でも、その前に——」

  こはるが口を開きかけた時、背後から低い声がかかった。

 「海人、こはる。殿下がお呼びだ」

  振り返ると、港の兵士が濡れた鎧をきしませながら立っていた。

  城門までの道は、嵐の余波でぬかるんでいた。

  石畳の隙間に水が溜まり、歩くたびに靴底が重くなる。

  海人は歩幅を落としてこはるに合わせ、時折、彼女が滑らないよう腕を支えた。

  港の喧騒が背後に遠ざかり、代わりに城壁の重い静けさが近づいてくる。

  城門をくぐると、湿った石の匂いが鼻を打つ。

  廊下の奥で、王太子が待っていた。

  彼は一歩前に出ると、二人に向かって短く言った。

 「港を守ってくれて感謝する。しかし、次が本番だ」

  広げられた地図には、港から城、そして城下町を抜けて丘の上の祠へと続く道筋が描かれている。

  そこに赤い線で一本の脈が引かれていた。

 「この脈を通せば、街全体が息を合わせられる。外輪の口がいくら探っても、内側を崩せなくなる」

  こはるはその線を指先でなぞり、静かに問いかけた。

 「通す方法は……?」

  王太子は視線を海人へ移し、低く答えた。

 「君たち二人にしかできない。港で誓いを重ねたその拍——あれが鍵だ」

  説明を受けた後、二人は城を後にした。

  街はまだ完全には落ち着いていない。通りには倒れた屋根瓦や折れた柱が散らばり、人々がそれを片付けている。

  こはるは立ち止まり、近くの老女に布を手渡した。

 「これで口元を覆って、深く息を。楽になります」

  老女は小さく礼を言い、布を口に当てた。肩がわずかに落ちたのを見て、こはるはまた歩き出した。

  丘の麓に差しかかると、空が再び低く唸った。

  海人は空を仰ぎ、短く言う。「時間がないな」

  二人は足を速め、丘を登る。途中、壊れた石段を避けて脇道に入ると、古い祠の屋根が見えてきた。

  祠の前には、波止で見たのと同じ“名を奪う影”が立ちはだかっていた。

  それは形を変えながら、二人の胸に直接、古い呼びかけを投げ込んでくる。

 ——帆を張れ。舵を切れ。戻れ。

  こはるは深く息を吸い、胸の棚に白と紅、極薄の灰を並べた。

 「渡さない」

  海人も同時に誓いを胸で鳴らし、影の前に立った。

  影が一歩踏み込んだ瞬間、二人の拍が重なった。

  白が前へ、紅が内へ。灰が空を受ける。

  影は形を結びきれず、音もなく崩れ落ちた。

  祠の中で、古い鐘が一度だけ鳴った。

  その響きは港まで届き、城の塔に光を宿した。

  街の人々が同じ間で息を吸い、吐くのがわかる。

  脈は通った。

  丘の上で、二人はしばらく立ち尽くした。

  嵐はまだ完全には去っていない。だが、胸の奥には確かな拍が残っていた。

 「これで……守れる」

  こはるの呟きに、海人は頷いた。

 「ああ。あとは、最後の“口”を閉じるだけだ」


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