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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第30章_再起の灯火

 薄曇りの明け、港の石は湿りを吸い、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が王都の腹を渡り、泉の面は昨夜と同じ低さを保つ。六つの座は沖で息を続け、縫い目は肩とわき腹を経て“返り”を港へ運んでいた。

  こはるは桟橋の端で舟板に掌を置き、胸の棚に白と紅、極薄の灰を重ねる。浅い谷をひとつ。袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りで指を落ち着かせた。

 「今日は灯を起こす。――外で」海人が杭に爪で印を刻む。「翠海の灯台跡。座でつなぎ、骨で渡り、縫い目で戻す。追わない。噛まない。走らない」

  ディランは旗を低く保ち、角度に半歩の“待ち”を三段で仕込む。「曲がる前に止まる。座へ入る前に止まる。灯台に入る前に止まる」

  タイは木柄を杖に戻し、先端に新しい布を巻き直した。「灯の跡は“楽な道”が多い。先に眠らせる」

  ケイトリンは樹脂と包帯、温石を籠に収め、「喉を通す。匂いは薄く」と短く言う。

  ダルセは竪琴を背から外し、弦を一本増やす。低く長い“呼吸の道”を置くためだ。

  方舟は港口を抜け、礁、杭、器具、踏み石、浅瀬の三角をかすめ、第六の座で“座って進む”を受け渡す。老人の小舟は斜め後ろを守り、舳先で囁いた。「灯台は、昔、潮を集めて返す役目だった。――骨と座のあいだに立ってな」

  海人が頷く。「だからこそ、今は“拍”で立て直す」

  翠海の灯台跡は、海藻の光を薄く纏い、崩れた螺旋段が水面から斜めにのびていた。石は濡れていないのに湿りを含み、踏めば古い作法を思い出そうとする。

  こはるは胸の棚に白と紅、灰。浅い谷をひとつ。(渡さない。渡すのは、私が選ぶ“間”だけ)

  上陸の列は二つ。

  前列――こはる、海人、ディラン。後列――タイ、ケイトリン、ダルセ。舟は第六の座に“歩く座”として留まる。

  最初の段で、石が“楽な道”の顔をする。

  タイが杖の布先で目を撫で、眠らせる。

  ディランが旗を半歩遅らせ、肩が同じ高さで落ちる。

  こはるは白で短い橋、紅で灯を守り、灰で“空”を一枚挟んだ。

  螺旋の踊り場に出ると、崩れた欄干の内側に古い燭台の骨が残っていた。芯はない。油もない。だが“置き場”だけは確かに在る。

  海人が低く言う。「ここに“拍の芯”を据える。灯は火じゃない。――返りを明るくする座だ」

  こはるは帆布を折り、三日月に置く。白で三日月の内に橋、紅で胸へ灯、灰で“空”を薄く。

  ダルセが長い浅い谷をひとつ、続けて短い浅い谷を二つ。踊り場の空気がわずかに深くなる。

  ケイトリンは温石を燭台の下に滑らせ、樹脂を髪の毛ほどの線で縁に引いた。「通すだけ」

  “拍の芯”は火ではない。

  だが、灯らない光が、音にならない音を抱く。

  崩れた石壁が紙一枚ぶん温く、海藻の青がわずかに濃く見えた。

  その瞬間、灯台の基底で古い“呼び”が身を起こした。

  名ではない。灯が灯った夜の手順――「先に油」「次に芯」「最後に火」。

  今は油も火もないのに、手が勝手に昔の順をなぞろうとする。

  こはるは布を鼻口に当て、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  タイの杖が石の目を眠らせ、ディランの旗が半歩遅れて落ちる。

  ダルセの長い谷が切れず、ケイトリンの“通すだけ”が喉の奥で道を空ける。

  呼びは粉になり、“拍の芯”だけが残った。

  上層へ。

  途中の踊り場で、避難していた漁師たちが肩を寄せ合っていた。長旅の疲れで足が震え、膝が笑う。

  ケイトリンが短く指示する。「甘い滴、少し。包帯は踝。布は折り目を二つ」

  こはるは子の目線に合わせてしゃがみ、折り目を示すだけで布を渡す。「ここで止まる。次で渡す」

  母は息でうなずき、子の肩が一段落ちて戻る。

  ダルセが低い歌を置く。言葉を持たない旋律が、踊り場の空気を一つに束ねた。

  頂部の台座に着く。

  砕けた硝子の枠が風に鳴らず、海の色を四方から切り取っている。

  海人が視線で合図し、こはるは袋の結び目を二度確かめた。

 (“二つ”の拍は、ここでも胸に置く。――名は渡さない。灯は胸に)

  こはるは“二つ”を取り出さず、胸の棚の上で向かい合わせ、薄い棚を挟む。

  白は前を、紅は内を。互いの影を温める“だけ”。

  台座の中央に、帆布の座を円に敷く。

  白で円の縁に橋、紅で内の灯、灰で“空”を極薄に。

  ダルセの“長・短・短”。

  ディランの旗は半歩遅れて落ち、タイの杖が縁の“楽な道”を先に眠らせた。

  ケイトリンは温石を三つに割り、円の下へ均等に滑り込ませる。

  ――灯らない光が、ひとつ立った。

  海が明るくなったのではない。返りが明るくなった。

  港の腹と座と縫い目と、ここ。四つの間に“呼吸の道”が通い、翠海の色が一段深くなった。

  その刹那、黒でも白でもない輪郭が遠い底で三つ、同時に結ばれた。

  合わせの“ふり”が台座の下で手順を思い出し、昔の灯を真似しようとする。

  海人が低く短く言う。「押さない。噛むな。――離れる」

  タイの杖は置かない。布先で“目”だけを眠らせ、すぐ離す。

  ディランの舵印が半歩外へ滑り、ダルセの“長”が一分だけ深い。

  こはるは白で橋を短く、紅で灯を深く、灰で“空”を挟んだ。(渡さない)

  輪郭は形を作り切らず、底の影へ崩れた。

  “拍の芯”は揺れない。

  代わりに、台座の周りに立つ人の肩が同じ高さで落ち、呼吸が一段深くなる。

  避難の列の顔から、焦りが少しずつ剥がれていく。

  ケイトリンが見上げ、「通ってる」とだけ言った。

  帰路。

  下りの螺旋で、崩れた段に子の靴が引っかかった。

  こはるは背を向け、手を後ろに差し出す。目は前。足は止めて、置く。

  子の手が掌に触れ、次の拍で足が抜けた。

  母の息が一度深く落ち、すぐ戻る。

  ダルセの低い歌が踊り場で輪を作り、隊の肩が整う。

  灯台を離れると、海は変わらず静かに見えた。

  けれど、座は軽い。縫い目の返りは太い。骨のわき腹は、昨日より紙一枚ぶん硬さを思い出していた。

  老人の小舟が舳先で結び目を叩き、短く言う。「灯は火じゃない、ってのは、ほんとだな」

  海人が頷く。「港で確かめよう」

  桟橋。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でる。

  伝令が走らずに来る。「泉、低さを保つ。大橋、走らず。井戸、静か。……南外輪の寝返り、浅いまま」

  王太子は付け根で一度うなずき、余計を言わない。

  海人が報告する。「翠海灯台跡に“拍の芯”。港の腹と座と縫い目とで呼吸を束ねた。――灯は返りの明るさとして立った」

  老船大工が結び目を叩く。「灯の座が入れば、橋は夜でも迷わない」

  ディランは旗の角度に“灯”の印を加え、ケイトリンは温石を数え、消耗を見積もる。

  ダルセは鐘楼の綱に視線を送り、“長”の谷を半目盛りだけ深くした。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、灰を並べ直す。(灯は胸と道の両方にある。次は――港の“腹”をもう一段、深く)

 日暮れの港は、昼間よりも静かな呼吸をしていた。

  船底が水を押す音が短くなり、櫓の拍は間を多く取る。波止場の影は長く伸び、倉庫の壁を舐めて引き返す。

  こはるは桟橋を渡りながら、足裏で板の軋みを一つずつ拾った。港の“腹”に届く音が、朝より深くなっている。

 (拍の芯が、港の底にも届いている……)

  白と紅と灰の感触を胸で確かめ、次の“置き場”を思い描く。

  船大工の老人が、古い図面を広げて見せた。

 「港の腹は三つの層がある。上は桟橋と市場。中は倉庫と波止。下は“網の間”だ」

  海人が地図を指でなぞる。「灯台で返りが明るくなった今なら、下の層も息を合わせやすい」

  “網の間”――それは港底に張られた石造りの通路群で、古くは潮の流れと漁網を管理するために作られた場所だった。

  今では人がほとんど入らず、潮鳴りと古い木枠のきしみだけが響く。

  だが、港全体の呼吸を整えるには、この層の“詰まり”をほどく必要がある。

  作戦は短い言葉でまとめられた。

 「灯台で通した道を、“網の間”まで下ろす」

  ディランが旗の動きに新しい印を加える。狭い通路でも合図が届くよう、手首の角度を変えた。

  タイは杖の布先をさらに柔らかい布に替える。「石が古い。強く触れたら崩れる」

  ケイトリンは湿気に強い包帯と、火を使わない温石を選んだ。

  ダルセは短い谷を連続で重ねられる調弦に変える。足場の悪い場所で“呼吸の輪”を作るためだ。

  出発は潮の引き際。

  市場の裏から倉庫の階段を降りると、湿った空気が肌にまとわりつく。

  壁の石は苔で滑り、踏み板は潮で膨らんでいる。

  海人が先頭に立ち、足の置き場を一歩ごとに確かめる。

  こはるはその背を追いながら、胸の棚で白と紅と灰を動かす準備をする。

  “網の間”に入ると、音が変わった。

  外の波音が遠ざかり、代わりに潮が石の隙間を抜ける低いざわめきが耳に残る。

  左右には網の枠が古びて立ち並び、その間を水が細い糸のように流れている。

  枠の下には黒い影――古い網の残骸が沈んでいた。

  第一の詰まりは、北側の排出口。

  石のアーチが半分崩れ、潮がそこで渦を巻いている。

  タイが杖でアーチの目を軽く叩き、眠らせる。

  こはるは白で短い橋を置き、紅で内の流れを守り、灰で空を挟む。

  ダルセの短い谷が三つ続き、渦の拍が整っていく。

  次は中央の“合わせ枠”。

  網を吊っていた大きな木枠が傾き、片側で水の道を塞いでいた。

  ディランが旗で合図し、全員でゆっくりと枠を押し起こす。

  海人が低く指示する。「押し切るな。半歩で止める」

  枠が元の位置に近づくと、潮の音が軽くなった。

  最も深い層の南端では、古い木箱が通路を塞いでいた。

  蓋は半分朽ち、中からは石灰の粉と錆びた金具がこぼれている。

  ケイトリンが手を止め、「触らない方がいい」と短く言った。

  こはるは白と紅を胸で合わせ、箱の向こう側だけに“拍”を置く。

  直接動かさず、周囲の水路を整えることで流れが自然に箱を押し出すようにする。

  やがて、箱は音もなく横倒しになり、ゆっくりと潮に運ばれていった。

  “網の間”を一巡する頃には、潮の拍が全体に揃い始めていた。

  海人が確認するように言う。「港の腹、深さが一段増したな」

  ディランが旗を下ろし、ダルセの短い谷が最後の拍を刻む。

  出口に戻ると、市場の床越しに港のざわめきが聞こえた。

  朝よりも低く、深く、そして穏やかな音だった。

 “網の間”の階を上り切ると、夕雲が低く、港の灯が糸のように滲んでいた。倉庫の軒に吊るした網からは水が二度、同じ間で落ち、石畳を細く濡らすだけで広がらない。底のざわめきは低く、息は長い。

  こはるは桟橋の端に掌を置き、胸の棚に白と紅、極薄の灰を重ねた。浅い谷をひとつ。(腹は息を思い出した。……もう一段、深く)

  海人が地図の端を押さえ、指で港の断面を描く。「上層の“呼び笛”を止め、代わりに“呼吸井こきゅうい”を三つ。市場の床下、波止の脇、そして鐘楼の根元」

  ディランは旗の角度に新しい印を作り、「井の口で止まる。二短は変えない。半歩の“待ち”を井の中へ落とす」

  タイは杖の布先をさらに柔らかく巻き替え、「井の縁は“楽な道”が生まれやすい。先に眠らせる」

  ケイトリンは細い樹脂を三つの壺に分け、香草布は畳んだまま懐へ。「匂いは使わない。通すだけ。——喉はもう通ってる」

  ダルセは弦を二本足し、“長・短・短”のあいだに極小の“間”を三度重ねる調弦に変えた。

  市場の床下。

  梁と梁の間に井の口を切り、帆布を丸く敷いて座を据える。

  こはるは白で輪郭へ橋、紅で内へ灯、灰で“空”をひと筋。

  ダルセの“長”が床板を撫で、短い二つが井の口へ落ちる。

  底のざわめきがひとつ深くなり、屋台の脚が同じ高さで落ち着いた。

  ケイトリンが壺の樹脂を髪の毛ほどの線で縁に引き、「通すだけ」。

  タイが井の縁の“目”を布先で眠らせ、ディランの旗が半歩遅れて落ちる。

  井は水を上げない。呼吸だけを上げ、返す。

  波止の脇。

  崩れた杭の根元に、石の膝のような窪みがある。

  ここにも井の口を切り、帆布の座を置く。

  老人の小舟が舳先で結び目を叩き、短く言う。「ここは昔、網を洗う“ため息”の場所だった」

  海人が頷き、「今は“返す息”の場所にする」

  こはるは白で橋、紅で灯、灰で“空”。

  ダルセの“長”が細く深く、短い二つがそのあとを追う。

  水は上がらず、波止の影が紙一枚ぶん濃くなった。

  鐘楼の根元。

  石の足は太く、内部の空洞が薄く鳴る。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅、灰を置いた。(名は渡さない。灯は胸に)

  帆布の座を円に敷き、温石を三つに割って均等に置く。

  ディランが階段の影で人の流れを半歩ずつ止め、タイが“楽な道”を先に潰す。

  ダルセの“長・短・短”が鐘の青銅へ触れずに触れ、ケイトリンの樹脂が髪の毛ほどの線で縁に残る。

  井の口が静かに開き、鐘楼の足元の空気が一段深くなった。

  ——その刹那。

  黒でも白でもない輪郭が港口の外で四つ、同時に結ばれた。

  合わせの“ふり”が灯台で覚えた昔の手順を真似し、今度は港の腹の井を“名”で呼ぼうとする。

  海人の声は低い。「押さない。噛むな。離れる」

  タイは杖の布先で水の横腹に“いる”だけを置き、すぐ離す。

  ディランの旗は半歩の“待ち”を長くし、合図を遅らせて早める。

  こはるは胸で浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  ダルセの“長”が一分だけ深く、短い二つが港の腹に落ちる。

  ケイトリンの「通すだけ」が喉の奥に道を空け、輪郭は形を作り切らず粉に崩れた。

  港の腹は揺れない。

  代わりに、桟橋の脚が同じ高さで息をし、市場の呼吸がひとつの輪になった。

  こはるは井の縁に指を置き、胸の棚に極薄の白をもう一枚足す。

 (“在る”が残る。——なら、渡せる)

  王太子は波止の付け根に立ち、余計を言わず頷いた。目は海の外輪の方角へ向いている。

  伝令が走らずに来る。「南外輪、寝返り薄いまま。井戸、静か。大橋、走らず。市場の泣き、減る」

  老船大工が井の縁を叩き、「腹が鳴る時は、生きてる時だ」と短く笑う。

  日が暮れる。

  灯台の“拍の芯”からの返りが、呼吸井を経て港の底へ降り、座と縫い目と骨の肩とわき腹を通って城の泉へ戻る。

  泉の面はさらに紙一枚ぶん低くなり、“二つ”の拍は互いの影を温め合ったまま、深さだけをひとつ増した。

  その夜、こはるは回廊の風の中、泉の縁に膝を折った。

  袋の結び目を二度確かめ、掌を水面の上に浮かせる。

  白は前を、紅は内を。極薄の灰がそのあいだに“空”を作り、浅い谷が静かに落ちる。

 (灯は胸と道に立った。腹は息を思い出した。——次は、城の“脈”。港と城を一本で通す)

  背後で、海人が小さく息を吐いた。

 「明け、脈を取る。港から城へ。座と縫い目と骨と井で、一本」

  ディランは階の陰で旗を巻き、印に細い点を加える。

  タイは杖の布を解いて洗い、また巻き直す。

  ケイトリンは樹脂の蓋を閉じ、温石の残りを数え、「足りる」とだけ言う。

 ダルセは鐘楼の綱を見上げ、“長”の谷を半分だけ深くした。

  港の空は、灯らない光で薄く明るい。

  波は低く、拍は長い。

  こはるは胸の棚を整え、静かに立ち上がる。

 (名は渡さない。灯は胸に。——脈を取る)


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