第29章_骨を歩く
夜露がまだ石に残る明けの刻、戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が王都の腹を撫でた。南と東の灯は糸のまま高い。泉の面は昨夜より紙二枚ぶん低く、二つの拍は互いの影を静かに温め合っている。六つの座は沖に息を保ち、縫い目は肩の外まで延びて“返り”を運ぶ。
こはるは桟橋の端で舟板に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べ、その上に極薄の灰を一枚重ねた。浅い谷をひとつ置く。喉は“骨を歩く”道を探り、腹の奥で温石の名残がうすく灯る。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指の腹へ戻った。
「今日は、骨を歩く」海人が杭に爪で印を刻む。「舟で噛まず、座で押さえず。骨の上を、人の足で渡る。——走らない。曲がる前に止まる」
ディランは旗を低く保ち、角度の印へ半歩の“待ち”を重ねた。「列は二つ。前列は骨の肩、後列は縫い目。二短は変えない。半歩の遅れで息を渡す」
タイは木柄を杖に変え、先端の布を厚く巻き直す。「足の下の“楽な道”を先に潰す。骨の目は滑る。噛まない、押さない。——先に眠らせる」
ケイトリンは樹脂の蓋を閉め、香草布を束ねた。「香りで誤魔化さない。喉を通すだけ。膝が笑う前に、ひと口」
ダルセは竪琴を背へ回し、空へ長い浅い谷を一本、続けて短い浅い谷を二つ吊るす。戻る鐘の二度に重ねた「長・短・短」の型が、列の肩に静かに落ちた。
港を離れ、第一の座で呼吸を揃え、第二、第三へ。第四の浅瀬の三角で列は分かれ、前列が帆布の座から骨の肩へ降り、後列が座と縫い目の上に残る。
骨は見えない。けれど、ある。水の向こうで筋を支える背骨が、薄い硬さで足裏へ言葉のないことばを返してくる。
最初の一歩。
こはるは白を前へ、紅を内へ。浅い谷をひとつ。踵は置かない。指を先に、骨の目を撫でる。
足の下で石でも木でもない密度が、こちらの呼吸を品定めするように沈黙する。
海人が後ろで言う。「止めて、置く」
こはるは半歩、止めてから置く。骨は崩れず、筋は痩せない。
二歩目。
前列の隊士が一人、骨の目の“楽な道”へ足を乗せかけ、靴底がわずかに滑った。
タイが杖の布先で音にならない音を置き、目を先に眠らせる。
ディランが旗を半歩遅らせ、肩の高さを戻した。
ケイトリンが香草布を隊士の鼻口へ当て、「喉を通す」。隊士の膝が笑いそうになる前に、呼吸が深くなる。
骨を歩く列は、息だけが頼りだ。
ダルセの「長・短・短」が空の極薄を撫で、その返りが足の裏へ戻る。
こはるは胸の棚へ極薄の灰をもう一枚挟み、白と紅のあいだに“空の座”を作る。(触れずに触る。置かずに置く)
三歩、四歩。骨は動かない。こちらが“ある”を丁寧に続けるのに合わせ、ただ在り続ける。
縫い目の列では、海人が舳先のない舟のように隊を導き、座から座へ返りを渡す。
「前列に触れるな。——返りだけを送れ」
ディランが旗で“見えない欄干”を示し、後列の肩が同じ間で落ちる。
座は進み、縫い目は返る。前列は歩き、後列は歩かせる。
骨の肩がわずかに狭くなる場所に来た。
水の色は変わらない。音もない。けれど、骨の目の密度がほんの少し細く、深くなる。
こはるは歩を止め、浅い谷をひとつ長くした。白が前へ、紅が内へ。
(ここは、わたしが選ぶ)
先に指を置き、踵は置かない。半歩、止めてから移す。
前列が一人ずつ同じ手順で越え、骨は痩せずに列を受けた。
その時、呼びが来た。
名ではない。骨の中から古い“手順”が指先へ逆流してくる。結びを解く癖、橋板の軋み、祠の礎石。
こはるは布を強く押し、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。
ダルセの「長・短・短」は切れず、タイの杖が骨の目を先に眠らせ、ディランの旗が半歩遅れて落ちる。
呼びは粉になり、骨は静かに在るへ戻った。
骨の肩を渡り切る地点で、こはるは膝を折り、掌で水の気配を撫でた。
そこに、座を置かない座を置く。
紅で灯を守り、白で極小の橋を置き、灰で“空”を薄く挟む。
目にも耳にもならないが、返りを忘れない“記憶の置き石”。
海人が後列から低く言う。「戻る時の肩に、いま『在った』を残す」
こはるは頷いた。
前へ。
骨は一度、浅く身じろぎした。
押していない。噛んでもいない。けれど、こちらの“在る”が芯の記憶を撫でたからだ。
ケイトリンが低く囁く。「いま、甘い滴はいらない。——通ってる」
隊士たちの肩が同じ高さで落ち、息は整う。
骨の上の風が少し変わった。
黒でも白でもない輪郭が遠い底で結ばれ、こちらを見上げるように角度を寄せて来る。合わせの“ふり”だ。
海人の声が届く。「追わない。噛まない。——歩く」
タイの杖は眠らせるだけ。ディランの旗は半歩の“待ち”を保つだけ。
こはるは白で前に、紅で内に、灰で“空”を挟むだけ。(渡さない)
輪郭は形を作り切らずに崩れ、骨は痩せない。
昼に入る手前、骨の幅がまたわずかに狭くなった。
ここで前列の一人が古い癖で足を早め、半歩の“待ち”を飛ばしかける。
ダルセの「長」を一分だけ深く、こはるの浅い谷をそこへ落とす。
隊士は息を取り戻し、足を止めてから置いた。
タイが横で杖を静かに立てる。「止めて、置く」
短い言葉が骨の目の中へ沈み、目は眠る。
骨を歩く途中、こはるの喉の裏に、別の“懐かしさ”がさざ波のように寄ってきた。
紅海の露店街の藍色の天幕、白海の湯屋の蒸気、黒海の廃教会に射した光。
それらが交互に顔を出し、足を“楽な道”へ誘う。
こはるは布を押し、浅い谷を三つ。(選ぶ。楽は後でいい)
白が前へ、紅が内へ。灰は“空”を薄く受け止める。
列は乱れない。拍は切れない。
骨の肩を渡り切った先に、低い鞍部のような窪みがあった。
水は濡れず、音は吸われ、風は弱い。けれど、返りはある。
ここに、座を置く。だが、座り込むためではない。
海人が短く言う。「歩く座」
こはるは帆布を三つ、三日月に置き、紅で灯を守り、白で三日月の内へ橋を張り、灰で“空”を軽く挟む。
座は進む。座ったまま歩くための座。
後列の縫い目から返りが届き、前列の足の裏に“止めて、置く”がもう一度覚え直される。
その刹那、深いほうの“口”が遠くで片目を開いた。
誰にも触れず、何も押さず、ただこちらの呼吸の間を量る。
海人が言う。「噛まない。離れて、歩く」
ディランが旗で半歩の“待ち”をさらに薄く延ばし、タイが杖を立てただけで倒さない。
こはるは白で橋を、ごく短く。紅で灯を、胸の奥へ。灰で“空”を、足の裏に。
口は形を作らず、影へ沈んだ。
帰路。
前列は同じ肩を逆向きに歩き、後列は座と縫い目で返りを厚くする。
こはるは往きで置いた“記憶の置き石”に指先を触れ、浅い谷をひとつ乗せた。
(ここに在った。——だから、戻れる)
骨は静かにそれを覚え、舟のない橋のような手応えを列へ返した。
港が近づくと、泉の面が紙一枚ぶんだけまた低くなった。
伝令は走らずに来る。「大橋、走らず。井戸、静か。市壁の継ぎ目、乾いたまま」
王太子は付け根で頷き、余計を言わない。目は海に向いたまま。
桟橋へ乗り移る最後の段。
子が一人、骨から板に渡る瞬間に足を踏み外しそうになり、母の手が空を掴む。
こはるはすぐそばへ膝をつき、折り目を示すだけで布を渡す。「ここで止まる。次で渡す」
子は真似をし、呼吸が一度深く落ち、次の拍で板に乗れた。
母は短く礼を言い、息で返す。
方舟の索が低く鳴り、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が城壁を撫で、骨の肩に置いた“在った”の石まで薄く届く。
海人が短く報告する。「骨を歩いた。——噛まず、押さず。止めて、置いた。座は“歩く座”に。縫い目は肩に返りを渡す」
老船大工が結び目を叩き、「これで橋は身体の中にできた」と呟く。
ケイトリンは樹脂の蓋を閉め、「喉は通ってる」とだけ言った。
ディランは旗の角度に“骨道”の印をひとつ増やし、ダルセは鐘楼の綱を見上げて“長”の谷を一分だけ深くした。
こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅と灰を並べ直す。(骨は歩ける。次は、骨の“わき腹”。——名は渡さず、灯は胸に。止めて、置く)
翌朝、港の空気は前日よりもわずかに重かった。潮の匂いに、土の乾いた粉のような匂いが混じっている。こはるは胸の棚に白と紅、そして灰を置き直し、昨日渡った骨の肩の感触を指先でなぞった。
海人はすでに桟橋の端で待っていた。彼の靴底には薄く乾いた泥がついている。それは骨の肩ではなく、岸寄りの縫い目を渡るときについたものだ。
「今日は、骨の“わき腹”だ」
その一言で、こはるの背筋がぴんと伸びた。骨のわき腹は肩よりも柔らかく、踏み込みすぎると沈むと聞いている。
ディランが旗を持って進み出る。「わき腹は息を深く。浅い谷を二つ、長めに」
タイは杖の先に新しい布を巻き、結び目を二度確かめる。「柔らかい分、眠らせる間も短い。立て続けに触れず、間を空けろ」
ケイトリンは樹脂瓶を小さく振り、香草布を胸の内側にしまい込んだ。「香りは最後まで取っておく。わき腹は匂いに弱いが、それを頼れば逆に沈む」
列は昨日と同じように二つに分かれ、前列が骨のわき腹へ、後列が縫い目を進む。
こはるが一歩踏み出すと、肩とは違う弾力が足裏を押し返してきた。まるで薄い膜の下に空洞があるような感触だ。
(止めて、置く。……それでも、肩よりも揺れる)
白を前へ、紅を内へ、灰を挟む。浅い谷を二つ重ね、半歩待ってから次の足を置く。
二歩目で、骨のわき腹がわずかに沈んだ。列の後ろで隊士が短く息を呑む。
タイが杖を静かに立て、布先でわき腹の“目”を撫でるように眠らせる。
ダルセの「長・短・短」が空を渡り、列の呼吸をつなぐ。
途中、わき腹が湾曲し、列の進路が自然と内側へ寄ってしまう場所があった。
「寄りすぎるな。内側は骨の“肋”が浅い」海人の声が低く響く。
こはるは白をさらに前に置き、紅で灯を守り、灰で肋の境界をなぞる。足の下でわき腹が少しずつ硬さを取り戻していく。
しかし、三歩先でわき腹が突然呼吸を始めた。足裏に伝わる微かな上下動。それは、骨そのものが眠りから覚めようとしているようだった。
ケイトリンが囁く。「いま、灰を増やせ」
こはるは即座に灰を二枚重ね、浅い谷を三つにする。息が深く落ち、骨の呼吸は再び静まった。
わき腹の中央部に差し掛かると、昨日置いた“記憶の置き石”の返りが微かに届く。肩からわき腹へと流れる見えない橋が、列の足元に薄く感じられる。
ディランが旗を半歩遅らせ、海人が後列から返りを送り込む。前列はその力を借りて揺れを抑え、さらに進む。
やがて、わき腹の終わりに近づく。ここは幅が広いが、中央がわずかに凹んでいる。
こはるは白と紅の間に厚めの灰を挟み、浅い谷を長くひとつ置く。半歩止まり、次の足を置くと、わき腹は音もなく列を受け止めた。
全員が渡り切ったとき、港の方から戻る鐘が二度鳴った。
骨の肩とわき腹、その両方に“在った”が残ったことを、こはるは確かに感じた。
(次は——骨の“背”かもしれない)




