第28章_骨の芯
明けの一刻、王都の石は薄い金を吸い、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が城の腹を渡り、泉の面は昨夜より紙二枚ぶん低い。南と東の灯は糸のまま高い。六つの座は沖で拍を保ち、縫い目は肩の外側まで伸び、戻る息を座から座へ渡している。
こはるは桟橋の杭に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷をひとつ。喉が“芯”のほうへと細く伸び、腹の奥で温石の名残が静かに灯る。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指の腹へ移り、心が同じ間へ落ちた。
「今日は“芯”を触る。――砕かない、折らない、ずらさない。触って、覚えて、離す」海人が杭に爪で小さな印を刻む。
ディランは旗を低く保ち、角度の印に“待ち”を三重に重ねた。「曲がる前に止まる。座へ入る前に止まる。——芯の前では、息も半拍、置く」
タイは木柄の布を一段厚く巻き替え、先端の固さを指で確かめる。「当てるだけ。噛まない。当てて、呼吸で外す」
ケイトリンは樹脂にさらに薄い香を一滴だけ落とし、帆布を細く折って“芯の座”を二枚こしらえた。「通すだけ。香りで触らない。——喉を通す、だけ」
ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ長い浅い谷を一本。続いて短い浅い谷を二つ。戻る鐘の二度と重ねた「長・短・短」の型が、舟の板へ静かに落ちる。
方舟は港口を抜け、礁、杭、器具、踏み石、浅瀬の三角をかすめ、第五、第六の座で“座って進む”を受け渡す。
老人の小舟は斜め後ろに寄り添い、舳先で低く言った。「芯は声を持たない。けれど、触られたことだけは忘れない」
海人が頷く。「だから、触った責任を“返り”で最後まで運ぶ」
縁の肩を過ぎると、水は濡れずに寄り、空気は音を持たずに膨らむ。昨日覚えた“骨の裏”の影が薄く、さらに内側で何かが静かに立っている。
こはるは布を鼻口に当て、胸の棚で浅い谷を長くひとつ。白を前に、紅を内に、薄い棚を一枚挟む。(渡さない。渡すのは、私が選ぶ“間”だけ)
ディランの旗が半歩遅れて落ち、舵は半度だけ外へ滑る。
タイは木柄の先を水の横腹にそっと当て、噛まずに息で押す。
――触れた。
“芯”は硬くない。柔らかくもない。形のない堅牢さが、こちらの呼吸を測っている。押せば押し返さず、引けば追って来ない。ただ「そこにある」を続ける。
海人が短く言う。「離す」
タイが息を吐きながら木柄を外し、舟は痩せずに進む。
こはるの喉の裏に、古い“誓い”の角度がひときわ鮮明に差し出された。星の下で握った掌の温度。泉の面に落ちた最初の“結び”。
胸の棚がふるえかける。(これは、私の夜。私が選んだ)
浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。
ダルセの「長・短・短」が切れず、ケイトリンの香草布が兵の口元を守る。
呼びは粉になり、芯はただ「そこにある」を続けた。
二度目の接触。
“芯の座”を三日月の外に置き、座りながら進む者の呼吸を座から舟へ返す。
タイは木柄をさらに斜めに寝かせ、ディランは旗に四分の一拍の“待ち”を加える。
こはるは白で極小の橋を、紅で極薄の灯を。触点は一点だけ。(当てるだけ。噛まない)
触れた瞬間、舟底の板が紙一枚ぶんだけ軽くなった。
老人が舳先で呟く。「それだ。——“芯は動かない。代わりに、周りが覚える”」
返りが座へ戻り、港の腹へ細く届く。
王城の泉が一瞬だけ呼吸し、紙の端ほど波を立てた。
その時、海は“名”で呼びかけた。
聞いたことのない地名が、祠の礎石よりも冷たい角度で喉の裏に置かれる。そこへ“芯”が弱いふりをして手を伸ばす。
こはるは布を強く押し、浅い谷を連ねた。白が前へ、紅が内へ。
海人の舵が半度外へ、タイの木柄が横腹にわずか“一拍”だけ触れ、ディランの旗が低く落ちる。
名は名にならず、粉に砕けた。芯は触れられたことだけを、静かに覚え続ける。
三度目――“芯の裏呼吸”。
こはるは胸の棚に薄い棚をもう一枚挟み、白と紅の間に“空の座”を作った。(触れずに触る)
ダルセの「長・短・短」の“長”をさらに細く、深く。
ケイトリンが樹脂の蓋を半分だけ開け、匂いを出さずに“通り道”だけを残す。
タイは木柄を水面すれすれに滑らせ、当てずに「いる」を示す。
こはるの浅い谷がその“空”に落ちたとき、芯は確かに「ある」をこちらへ少しだけ近づけた。
触れていないのに、舟底がまた紙一枚ぶん軽い。
海人が静かに息を吐く。「それでいい」
帰路。
座で受け、縫い目で返す。
帆布の折り目に拍が染み、座ったままの肩が同じ高さで落ち続ける。
港の手前、海の底から“懐かしさ”が最後に一度だけ差し出された。
潮騒の匂い、春の夜明け、祠の礎石。
こはるは布を鼻口に強く当て、浅い谷を三つ。(戻らない。選ぶ)
ダルセの型は切れず、ディランの旗が半歩遅れて落ち、タイの木柄が横腹に触れずに通る。
懐かしさは粉に崩れ、港の腹は拍を保った。
桟橋。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でる。
伝令が走らずに来る。「泉、さらに紙一枚ぶん下がる。大橋の列、走らず。……井戸は静か」
王太子は付け根で頷き、余計を言わない。
海人が報告する。「芯に三度触れた。噛まず、砕かず、ずらさず。触って、覚えて、離した。返りは座と縫い目で港へ届く」
老船大工が結び目を叩く。「芯に触った手は、次に『束ねる手』になる」
ケイトリンは樹脂の蓋を閉め、「喉は通っている」と短く言う。
ディランは旗の図に“束”の印を小さく足し、ダルセは鐘楼の綱を見上げて“長”の谷を一分だけ深くした。
こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べ直した。泉の面は静かに、低い。(次は“束”。芯に触れた手で、拍を束ねる。――名は渡さず、灯は胸に)
束ねる手――それは芯に触れた後にしか生まれない。港の朝は、その予感で湿っていた。
城の高台から見下ろすと、桟橋に並んだ舟の影が一本の黒い縄のように続いている。縫い目と縫い目の間に立つ者たちは、皆、前夜よりも肩の高さが揃っていた。
海人は舵の前に立ち、視線を六つの座と港口の間に滑らせる。そこに散らばっていた拍は、今朝は細い糸のようにまとまり、港全体をゆっくりと巡っている。
「今日は“束”だ」
海人の声は高くないが、舟の板を通して全員に届いた。
「芯の記憶を結び、港に置く。束ねるのは拍と呼吸と……選んだ灯だ」
こはるは胸の棚に昨夜の白と紅をそのまま置き、その上に極薄の“灰”を一枚重ねた。灰は、触れた芯が残した温度を吸い取るための座だ。
ディランは旗に新しい結びを作り、上下を半拍ずらす。束を結ぶ時、全てが同時に動くことはない。必ず少しの遅れと先行を作り、その間に息を渡す。
タイは木柄の先端に細い縄を巻き付け、触れずに束を示す準備をする。ケイトリンは樹脂の蓋を完全に閉じ、香りではなく“静けさ”で束を守る。ダルセは竪琴の弦を一本増やし、長・短・短に極小の“間”を忍ばせた。
港を出ると、風は昨夜よりも柔らかく、潮は低く寄って来た。礁を越え、浅瀬を回り、第六の座で舟は止まらずに座った。
海人が短く指示する。「束の輪、外へ」
こはるは白で外輪を、紅で内輪を描き、その間に灰を薄く差し込む。灰が芯の温度を受け、拍と呼吸がゆるやかに集まり始める。
ディランの旗が上下に揺れ、タイの木柄が水面をなぞるたび、束は港口へ向かって少しずつ締まっていった。
ケイトリンの静けさは、束の内側に漂う余計な香りや声を吸い込み、ダルセの弦は長・短・短の間に“束ねる呼吸”を置いた。
芯は遠く、声もなく、ただ「そこにある」を続けている。しかし束の中では、その存在感がまるで背骨のように感じられた。
こはるは胸の棚にもう一枚、極薄の白を置き、灰と紅を挟み込む。束はそれに応じ、拍を一拍だけ深くした。
帰路、束は港全体を包み込むように広がり、桟橋に着く頃には泉の面がさらに紙一枚ぶん下がっていた。
伝令が静かに報告する。「大橋の列、動かず。井戸の水、減らず」
港の空気は、束ねられた拍と呼吸で満ちていた。
海人は最後に一言だけ告げた。「束は解ける。解けた時に残るのが、港の骨だ」
こはるは袋の結び目を確かめ、胸の棚の白と紅と灰を整えた。(次は、骨を歩く)




