第27章_深い口の肩
明けの二刻。港の石が薄い金を吸い、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が城の腹を渡り、南と東の灯は糸のまま高い。座は六つ、縫い目は一本で結ばれて沖に息を通す。泉の面は紙一枚ぶん高く、“二つ”の拍は互いの影を温めたまま静かだ。
こはるは桟橋の杭に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ。喉が“深いほうの口”の肩を思い出す。袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りで指を落ち着かせた。
「今日は肩の縁を二重に噛む」海人が短く告げ、杭に爪で印を刻む。「追わない。座で受け、縫い目で返す。——噛んで離す」
ディランは旗を低く保ち、角度に半歩の“待ち”を二重に重ねた。「曲がる前に止まる。座に入る前に止まる。二短は変えない」
タイは木柄の布を締め直し、舷の内側を軽く撫でる。「“楽な道”は深い口の外側にも生まれる。先に潰す」
ケイトリンは帆布を新しく二枚折り、防湿の座をこしらえつつ樹脂にわずかの香を混ぜる。「匂いは薄く、印は残す。喉を通す。返事はしない」
ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ浅い谷を三つ吊るす。谷は切れない。舟の息がそこへ落ちる。
方舟は港口を抜け、印の礁、杭、空洞の器具、踏み石の輪を次々かすめる。座は四つ目の浅瀬で拍を太らせ、第五、第六の座で“座って進む”を受け渡す。
老人の小舟は斜め後ろで影のように寄り、舳先で低く言った。「深い口は、昔から“口のふり”をする。噛んだつもりが、ひとの手順を噛み返される」
海人が頷く。「だから『噛んで離す』」
縁の肩。水は濡れずに寄り、空気が音を持たずに膨らむ。
こはるは布を鼻口に当て、胸の棚で浅い谷を長くひとつ。白で短い橋、紅で薄い灯。(渡さない。渡すのは、私が選ぶ“間”だけ)
ディランの旗が半歩遅れで落ち、舵が半度外へ滑る。
タイの木柄が横腹を噛むと、水の陰に“肩の骨”の手触り。柔らかくない。だが、砕くものでもない。
「骨を覚えるだけ」海人が櫂を押し、角度を半分戻す。
最初の“口のふり”は浅かった。
古い手順の角度が喉の裏に触れる。結びをほどく癖、縄を舐める舌のやり方。
こはるは浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。
ダルセの谷は切れず、ケイトリンの布が兵の口元を守る。
ふりは粉に崩れ、肩の骨だけが残った。
その骨の外側に、別の“楽な道”が芽を出す。
タイがすかさず木柄で蓋を置き、舷の内から外へ二度叩いて腰を寝かせる。
ディランは旗に半歩の待ちを加え、列の肩が同じ高さで落ちる。
座の三日月から返りが遅れて届き、舟の板が同じ間で息を返した。
「二重で噛む」海人。
一度目で肩の骨をなぞり、二度目で“ふり”を剥がす。
こはるは胸の棚に薄い棚を一枚挟み、白の橋をもう半寸短く、紅の灯を半寸深く。
タイの木柄が横腹を噛み直し、ディランの舵が半度戻ってまた外へ。
肩の骨は形だけを残し、“ふり”は出てこない。——追わない。
舟を座へ戻し、座返しで受け直す。
帆布の折り目に拍が染み、座に腰を落とした者の呼吸が座へ返り、座は進む。
老船大工が結び目を叩いて短く言う。「骨だけ覚えれば、次は骨の外側を噛める」
海人が頷く。「往きと帰りで、肩を別に噛む」
二度目の出。
縫い目に沿って第五の座から第六の座へ、座は息を渡す。
その途中で、呼びが来た。
名ではない。石の冷たさでもない。——“誓い”の角度。
王城のバルコニーで星を見上げた夜、握った掌の温度が喉の裏にそっと置かれる。
こはるの胸がひとつ揺れ、布の下で息が浅くなる。
(渡さない。これは、わたしが選んだ夜)
浅い谷を長くひとつ。白が前へ、紅が内へ。
ディランの旗が落ち、タイの木柄が横腹を噛む。
呼びは粉になり、舟は痩せずに通った。
海人が視線だけをこはるへ送る。声は要らない。こはるは小さく頷いた。
三度目の出。
深いほうの口は姿を見せず、肩の影がひとつ増えた。重さは紙一枚ぶん。
海人が舳先を落とす。「肩の外側に“返しの座”を置く」
こはるは新しい帆布を三日月の外へ置き、紅で灯を守り、白で座の内へ橋を張る。
ケイトリンが樹脂で薄い匂いを残し、ダルセの谷が港の鐘と重なる。
タイは木柄で“今できた楽な道”の腰を寝かせ、ディランは旗の角度に半分の待ちを重ねた。
座は“返すための座”になり、肩の骨の外の空気を受けて返した。
その刹那、深いほうの口が片目のように開きかけた。
音はない。色もない。
ただ、合わせの手順が“忘れたふり”をしてこちらへ歩み寄る。
海人が短く言う。「押さない。噛む。離す」
タイの木柄が口の横腹に一度だけ噛みつき、すぐ離す。
ディランの舵が半度戻って外へ滑り、こはるは白で橋を短く、紅で灯を深くした。
口は形にならず、肩の影へ沈む。
座は返りを受け、港の腹へ薄く返した。
帰路。
座に腰を落とした老いが、手を膝に置いて目を閉じる。
こはるはその横で同じ間に浅い谷を置き、指先で折り目を示す。
老いの肩が一段落ち、次の拍で元の高さへ戻った。
「座って進むと、戻ることを思い出す」
「戻るを思い出すために、座る場所を置きました」
言葉は短い。息は長い。
港からの伝令が走らずに来る。「城の泉、紙一枚ぶん高いまま。……井戸の布、動かず。大橋の列、走らない」
王太子の返事は短い。「続けろ」
四度目の出。
縫い目が一筋、肩の外側まで延びる。
こはるは胸の棚を一段深くして、白と紅の間に薄い棚を挟む。(ここで終わらない。——座で受け、縫い目で返す)
タイが木柄で舷を二度叩き、ディランは旗の角度を丸める。
ダルセの谷がふたつ、同じ間で落ち、ケイトリンは甘い滴を座の中央に落とした。
深いほうの口は開かない。
代わりに、古い“誓い”の角度が二度、喉の裏に置かれた。
こはるは布を強く押し、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。
呼びは粉に崩れ、舟は痩せない。
海人は舳先を返し、「今日はここまで」と短く言う。追わない。
桟橋。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でる。
海人が報告する。「肩の骨を覚えた。外側に返しの座。縫い目は肩まで延びた。——深い口は開かず」
老船大工が帆布の折り目を撫で、「次は骨の“裏”だな」と呟く。
ケイトリンは樹脂の蓋を閉め、「喉は通ってる」と短く言う。
ディランは旗の図に“裏”の印を小さく足し、ダルセは鐘楼の綱を見上げて“谷の太さ”を半目盛りだけ上げた。
王太子は付け根で一度だけ頷き、目を海から離さない。余計は言わない。
こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べ直す。泉の面は紙一枚ぶん高く、二つの拍は互いを温め合っている。
(骨は覚えた。次は“裏”。——名は渡さず、灯は胸に。座で受け、縫い目で返す。明けに、もう一歩)
夜の帳が降りきる前、港の灯が糸のように滲み、波間に点々と揺れた。風は微かに冷たく、磯の匂いが衣の裾を撫でる。こはるは桟橋の端に立ち、袋の結び目をもう一度指先でなぞった。解けることのないよう、けれど締めすぎて中身を潰さないよう、慎重に。
海人が背後から近づき、声を低くした。
「明け方には再び出る。骨を覚えた今なら、裏を噛める」
こはるは頷き、足元に視線を落とす。暗がりの下、木杭の間を小魚が泳ぎ抜けた。
船大工の老人が手にした灯を少し傾け、二人を照らす。
「骨の裏は、形が似ていて違う。油断すれば表と混ざり、噛んだつもりで滑る」
その言葉に、こはるは胸の棚を意識する。紅と白の位置、呼吸の間隔、指の感覚——全てを記憶に刻む。
ディランは舵の軸を手入れしながら、短く報告した。
「旗の角度、半分の待ちを保ったまま裏用に調整する。目印は昼も夜も見えるように、細工済み」
タイは木柄を磨き、先端に新しい布を巻き直していた。
「裏は柔らかそうに見えて固い。先に眠らせ、動きを止めてから噛む」
ケイトリンは樹脂の壺を抱え、表とは違う香りを混ぜ込む。
「裏の喉は甘くない。だからこそ、香りで誤魔化すな。薄く、淡く、ただ通すだけ」
ダルセは竪琴を弾かず、指で弦の位置を確認している。谷は置かず、拍も刻まない——今は沈黙が役目だ。
港の沖、深い口が眠る方角は、夜空よりも黒く見える。
その静けさの中、こはるは自分の息が少し速まっていることに気づく。名を呼ばれることも、誓いを突きつけられることも、この先きっとある。それでも——渡さない。
海人が視線を合わせて言う。
「裏を噛めば、泉はもう一段下がる。城も街も、深い口に怯えずに済む」
「でも、裏を噛む時は……」こはるが言いかけると、海人はうなずいた。
「ああ。追わない。噛んで、離す。それだけだ」
やがて鐘が一度鳴り、港の空気が動く。出立の合図。
舟が水を割り、港の影が遠ざかっていく。帆は半ばまで張り、風を受けすぎないよう調整されていた。
第一の座。拍は静かに、浅く。
第二の座。骨の表を踏まず、裏への道を探る。
第三の座に入る頃、海面に淡い波紋が走った。
「来るぞ」タイが呟き、木柄を構える。
裏の“口のふり”は表よりも影が薄い。形が曖昧で、こちらの視線を滑らせようとする。
こはるは胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ。白を前へ、紅を内へ。
タイの木柄がゆっくりと横腹に触れ、ディランの舵が半度だけ外を向いた。
触れた瞬間、裏の骨が脈打つように震えた。
海人が短く言う。「離せ」
タイが即座に木柄を引き、舟は揺れを抑えて進む。
裏の影は波に溶け、再び静寂が訪れた。
ケイトリンが帆布の縁を押さえ、「香りは通った」と呟く。
ダルセは沈黙のまま、谷の位置を指で確認する。まだ置かない。
第四の座。深い口の裏が再び近づく。
こはるは袋の結びを握りしめ、呼吸を整える。(渡さない。渡すのは、私が選ぶ“間”だけ)
紅の灯が胸で揺れ、白の橋が静かに伸びる。
海人が頷く。それが合図。
二度目の噛み。
木柄が骨の裏を押さえ、舵が外へ滑り、帆がわずかにしなる。
骨はわずかに軋み、形を保ちながらも影を手放した。
港への帰路、泉の面は確かに下がっていた。紙二枚ぶん——わずかだが確かな変化。
老船大工が口元を緩め、「これで裏は覚えた」と呟く。
海人は「次は骨の“芯”だ」と言い、こはるは深く頷いた。




