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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第26章_縁を越える座

 明けの二刻、港の石は薄い金を吸い、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が城の腹を渡り、南と東の灯は糸のまま高い。方舟の索が短く鳴り、昨日据えた四つの座は気配を保って沖に浮く。踏み石の輪、器具の影、礁と杭の間、広い浅瀬の三角――どれも灯は持たないが、目と耳として返りを受け続けている。

  こはるは桟橋の端で舟板に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ。喉が“座の先”を思い出す。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指先に戻った。

 「縁の手前で、さらに二つ」海人が杭に指で印を刻む。「座を繋いで渡す。……その先で“合わせ”の口を噛む」

  ディランは旗を低く保ち、角度の印に小さな点を打つ。「曲がる前に止まる。座へ入る前に止まる。二短は変えない」

  タイは木柄の布を締め直し、舟底の節を親指で探る。「“楽な道”は座にも生まれる。腰を先に落としておく」

  ケイトリンは帆布を四つ折りにし、端へ薄い樹脂を引いて防湿の“座”を二枚こしらえた。甘い滴は前、苦い舌薬は奥。「喉を通す。返事はしない」

  ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ浅い谷を三つ吊るす。谷は切れない。舟の息がそこへ落ちる。

  先頭の舟が港口を抜けると、灰の帯は細く、代わりに“向き”のない重みが低く横たわっていた。昨日より近い。

  第一の押しは風の返り。舳先の前で空気が半歩遅れ、板が音にならない音で軋む。

 「押さない。ずらす」海人。

  ディランが旗を低く滑らせ、舵の角度を半度外へ落とす。

  タイは舷の内側を木柄で撫で、舳先の“楽な道”を丸めた。

  こはるは胸で浅い谷を二つ続け、白で筋を、紅で温度を保つ。

  踏み石の輪を過ぎ、空洞の器具の影を風下で外し、礁と杭の間を抜け、広い浅瀬の三角に乗る。

  座は息を保ち、返りを座から座へ渡している。ここで舟の拍が座の返りに重なると、人の肩が自然に同じ高さへ落ちる。

 「ここで“縫い目”を置く」海人が浅瀬の三角の外縁を指さす。

  縫い目――座と座を細く縫い合わせる見えない線。

  こはるは紅で灯を守り、白で座布の間に細い橋を置いた。

  ケイトリンが樹脂を髪の毛ほどの線にして水面へ引き、匂いを薄く残す。

  タイが木柄で線の腰を撫で、“楽な道”の芽を先に潰す。

  ディランは旗で隊列の角度を丸め、ダルセの浅い谷が切れない。

  縫い目は音にならないまま、座と座の返りをひとつに束ねた。

  さらに先へ。黒の縁の手前、低い窪みが横一文字に走る。吸われるが、引き裂かない。

  ここに第五の座を置く。

  こはるは帆布を舟の鼻からそっと滑らせ、紅で温度を厚くし、白で“座って進む道”を短く据えた。

  老船大工が殿の舟から乗り移り、座へ腰を落とすと結び目を指で叩く。「ここなら軸が折れても『座の上で直す』ができる」

  海人が頷く。「本隊が息を続ける工程を、外で覚えさせたい」

  黒でも白でもない輪郭が、窪みの外縁で二つ、同時に結ばれた。

  呼びは来ない。代わりに、古い“手順”の角度が喉の裏へそっと差し出される。

  こはるは布を押し当て、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。(渡さない)

  タイの木柄が輪の横腹を噛み、ディランの舵が半度外へ。

  ダルセの谷は切れず、ケイトリンの布が口元を守る。

  輪は空を噛んで崩れ、第五の座は拍を保った。

  少し間を置いて、第六の座。

  黒の縁の内側ではない。縁の肩、返りが届くいちばん遠い地点。

  座布を三つ、三日月に置く。中央は空ける。

  こはるは紅で灯を守り、白で三日月の内側へ橋を張る。

  ディランが旗の角度に“待ち”を半呼吸ぶん足し、タイが舷の内側を二度叩いて“楽な道”の腰を先に寝かせる。

  ダルセの浅い谷が戻る鐘の二度と合い、ケイトリンの甘い滴が座の中央へ落ちる。

  三日月は座ったまま進み、返りを受けた。

  その刹那、海が“名”で呼んだ。

  聞いたことがない岬の名。けれど、指がほどけそうなやさしい癖を持つ音の形。

  こはるは布を強く押し当て、胸の棚で浅い谷を連ねる。白が前へ、紅が内へ。

  海人の舵が半度外へ滑り、タイの木柄が横腹を噛み、ディランの旗が低く落ちた。

  名は名にならず、粉に散る。三日月の座は拍を保った。

  黒の縁が近い。

  音は吸われ、色は薄い。それでも返りはある。

  海人が舳先を落とす。「ここで“口”を探る。合わせは息を潜める。……噛めるところだけ噛む」

  ディランが半月陣の小型を舟の周りに作り、舵と旗で曲面を保つ。

  タイは木柄で水の横腹に小さな“押し返し”を置き、ケイトリンは布の折り目を整えて短い合図の言葉を準備する。

  ダルセは空へ浅い谷を三つ、間を詰めずに吊った。

  こはるは胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  黒の縁の肩で、見えない“口”がひとつ、開きかけた。

  水が濡れずに寄り、空気が音を持たずに膨らむ。合わせの角度はあからさまではない。ただ、指の節が勝手に手順を思い出す種類の“誘い”だ。

  海人が言う。「押さない。噛む。ずらす」

  タイの木柄が口の横腹に触れ、ディランの舵が半度外へ滑る。

  ダルセの浅い谷が二つ、同じ間で落ちる。

  こはるは白で前に短い橋、紅で内に薄い灯を。

  口は形にならず、縁の肩の影へ崩れていった。

  息を揃えるため、三日月の座へ一度戻る。

  座ったまま進む人々の肩は同じ高さで落ち、戻る鐘の二度に合わせて呼吸が深くなる。

  老船大工が座で結びを叩き、「外で覚えた“間”は、陸に戻ってもほどけにくい」と呟いた。

  海人は頷く。「戻ったら、橋の列が自分で拍に乗れるように」

  ケイトリンは甘い滴を子に落とし、「喉を通す」。子は布を自分で折り、口元に当ててうなずいた。

  その帰り際、縁の底から懐かしさの形がもう一度立ち上がった。

  今度は家の土間ではなく、海沿いの祠の白い礎石の冷たさ。初めて目を覚ました朝の匂い。

  こはるの喉がわずかに震える。

 (そこへ戻りたいか、と問うている? ——違う。ここで、私が選ぶ)

  彼女は布を強く押し当て、浅い谷を長くひとつ。白が前へ、紅が内へ。

  海人の舵が外へ、タイの木柄が横腹を噛み、ディランの旗が低く滑る。

  匂いは粉に崩れ、座の拍は切れなかった。

  午後。

  港からの伝令は走らずに来る。「二陣、三陣、座で渡った。泣きは減り、布の折り目は揃う。……戻る拍が深くなった」

  王太子の返事は短い。「続けろ」

  こはるたちは縫い目をもう一筋延ばし、第五と第六の座と浅瀬の三角を一本で繋いだ。

  返りは座から座へ、座から舟へ、舟から列へ、列から城の腹へ戻る。

  縁は息を潜め、口は開かず、名は呼ばれない。けれど、静けさは油断を呼ぶ。

  日が傾くころ、黒の縁の肩で“輪”が三つ、同時に結ばれた。

  角度は正確。合わせの手順が喉の裏へ走る。

  海人が短く言う。「押す」

  タイの木柄がひとつ目の横腹を噛み、ディランの舵がふたつ目を外へ滑らせる。

  こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅の間に薄い棚を挟む。(渡さない)

  ダルセの浅い谷が切れず、ケイトリンの布が兵の口元を守る。

  三つ目は崩れず、深く潜った。

  海人が舳先を落とし、声を張らずに言う。「追わない。座へ戻る」

  “追わない”が全員の肩を通り、舟は座に滑り戻る。

  輪は深く潜ったまま、口に変わらず、音にもならず、重さだけを少し残して消えた。

  桟橋へ帰ると、方舟の索が一度深く鳴り、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が城壁を撫で、座の三日月にまで薄く届く。

  王太子が付け根で短く頷く。「座は座であり、道は道のままだ」

  海人が息を吐く。「明けは“口”の肩をもう一列噛む。……追わず、噛むだけ」

  ディランが旗の図に半歩の“待ち”をもう一つ足し、タイは地図の影に赤い×を増やした。

  ケイトリンは帆布の座を干し、樹脂の蓋を閉め、甘い滴の瓶を振って残りを確かめる。

  ダルセは鐘楼の綱を見上げ、指で“谷の太さ”を半目盛りだけ上げる仕草をした。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べ直す。

 (座は進む。縫い目は返る。口は噛む。——名は渡さず、灯は胸に。次で、もう一歩)

 夜の入口、海は色を持たぬまま重さだけで体勢を変えた。四つの座と新しい二つの座は、目にも耳にもならぬ拍を受け、薄い返りを座から座へ送っている。縫い目はほどけない。港の腹は戻る鐘の二度を飲み込み、南と東の灯は糸のまま高い。

  こはるは三日月の座の端に膝をつき、帆布の折り目を指でなぞった。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ。喉は“縁の肩”へ伸び、腹の奥で温石の名残がうすく灯る。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指へ移り、心が同じ間へ落ち着いた。

 「肩の“口”は、今日のより深い位置に移った」海人が舳先から斜め前を見据える。「追わない。——噛めるだけ噛んで、座で受け直す」

  ディランは旗を低く、角度に半歩ぶんの“待ち”を足す。「曲がる前に止まる。座へ入る前に止まる。二短は変えない」

  タイは木柄の布を締め直し、舷の内側を軽く叩いて“今できた楽な道”の腰を先に寝かせる。

  ケイトリンは薄い樹脂で縫い目に匂いを足し、香草布を束ねて舟の中央に置いた。「喉を通す。返事はしない」

  ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ浅い谷を三つ吊るす。谷は切れず、舟の息がそこへ落ちていく。

  先頭の舟が三日月の座を離れ、第五の座をかすめ、窪みの肩へ。

  黒でも白でもない影が、水の下でうすく口の形を試す。合わせの角度は、手順の記憶だけで成り立つ“誘い”だ。

  海人が短く言う。「押さない。噛む。——ずらす」

  タイの木柄が横腹を噛み、ディランの舵が半度だけ外へ逃げる。

  こはるは胸で白を前に短く、紅を内に薄く置き、浅い谷をつなげた。

  口の形はほどけ、影は肩の陰へ沈む。舟は痩せずに通る。

  縁の肩を離れかけたとき、呼びが来た。

  名ではない。祠の礎石の冷たさと、港の橋の欄干の素朴な木目。——此岸の束ね方の癖。指の節が勝手に結び目をほどきたがる。

  こはるは布を強く押し当て、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  ダルセの谷は切れない。

  タイの木柄が舷を二度叩き、ディランの旗が低く滑る。

  海人の舵は名の形に触れる前に角度を外へ落とす。

  呼びは粉になって散り、舟は座へ戻った。

 「今の“呼び”、陸の結び目を使ってきた」ケイトリンが樹脂瓶の口を拭きながら言う。「港にいる者の手順が、ここで盗まれる前に——座で返す癖を増やす」

  海人が頷き、帆布の座の端を指で叩く。「座の『返し』を一段深くする。——座って進みながら、返す」

  老船大工が座に腰を落とし、結び目をひとつ短く締め直す。「座の上で直す、を身体に入れ込むってわけだ」

  ディランは旗の図に“座返し”の印を加え、角度に半分の待ちを刻む。

  座返しの稽古は、音を持たない。

  こはるは帆布の上で紅を灯に、白を指に。それから浅い谷をひとつ長くし、舟の拍を座へ流し込む。座に腰を下ろした者の呼吸が、その拍を座へ返し、座は力を抜かずに前へ進む。

  ダルセの谷が薄く長く、二度に一度だけ深い。

  タイは“今できる楽な道”に先に蓋を置くよう、木柄で舷を撫でる。

  ケイトリンは甘い滴を座の中央に落とし、「喉を通す」と短く言う。

  息の往復が座の布目に染み、縫い目が返りを覚える。

  稽古を三巡したとき、黒の縁の肩で“口”が二つ、ほぼ同じ間で開きかけた。

  片方は浅い。もう片方は、深い。

  浅い口は先に噛める。深い口は、噛んだ拍の“戻り”を狙う。

  海人の声が低く短く落ちる。「浅いほうを噛む。深いほうは追わない」

  タイの木柄が浅い口の横腹を噛む。

  ディランの舵が半度外へ滑り、こはるは白で短い橋、紅で灯を守る。

  浅い口は崩れ、深い口は影の下で待った。

  舟は座へ戻り、返しの拍を座にもう一度置き直す。

  夕に寄ると、海の重さがわずかに軽くなった。紙一枚ぶん。

  港からの伝令は走らずに来る。「座、四つとも保つ。三日月の“耳”が港の腹と同じ間で返る。泣きは少ない」

  王太子の返事はやはり短い。「続けろ」

  縁の肩を最後にもう一度だけ噛む。

  海人が舳先を落とす。「小さく、強く。間は長く」

  こはるは胸の棚に白と紅を並べ直し、浅い谷を長く置く。

  ダルセの谷が港の鐘と重なり、ディランの旗が半歩だけ遅れて落ちる。

  タイの木柄が横腹を噛むと、口は形を作り切らないまま粉に崩れた。深いほうは潜ったきり出てこない。——追わない。

  帰路。

  座は進み、座の上で直す者は、直しながら進むことを身体で覚える。

  帆布の折り目は整い、樹脂の薄い匂いが“ここも道”だと静かに示す。

  こはるは座の中央で子の手を取り、折り目を一度だけ示した。「ここで止まる。次で渡す」

  子は真似をして折り、鼻と口へ当ててうなずく。肩が少し落ち、すぐ元の高さに戻る。

  港へ入る前、海の底で懐かしさの形が最後に一度だけ差し出された。

  今度は“春の夜明け”の湿り気。最初の日の空気の角度。

  こはるの喉が反応しそうになる。(戻らない。——ここで選ぶ)

  布を強く押し、浅い谷を三つ。白が前へ、紅が内へ。

  海人の舵が外へ、タイの木柄が横腹を噛み、ディランの旗が低く滑る。

  呼びは粉に崩れ、港の腹は拍を保った。

  桟橋。

  戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でる。座の三日月までその返りが届く。

  王太子が付け根で短く頷き、目だけを海へ留めた。

  海人が報告する。「肩の口は二つ。浅いほうは噛めた。深いほうは潜った。座返しは身体に入りつつある」

  老船大工が帆布を撫でて付け足す。「座の上で直す、もだ」

  ケイトリンは樹脂の蓋を閉め、「喉は通っている」と短く言う。

  ダルセは鐘楼の綱に視線を送り、指で“谷の太さ”を半目盛りだけ上げる仕草をする。

  ディランは旗の角度に“夜の待ち”を小さく印した。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べ直した。(名は渡さない。灯は胸に。——明けに、深いほうの口の“肩”だけをもう一度噛む)

  夜。

  王都の回廊は風を通し、煤の匂いが薄く漂う。

  泉は紙一枚ぶん高く、二つの拍は互いの影を温め合う。

  こはるは水面に手をかざし、浅い谷をひとつ置いた。

  白は前を、紅は内を——結びはほどけず、座は沖で息を続ける。

 (縁は待つ。座は進む。縫い目は返る。私は選ぶ。……明け、もう一歩)



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