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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第24章_奪われた二つ

 明けと夕を二度繰り返し、道は太った。印は目になり、耳は返りを持ち、港の腹は拍で息をする。王都の壁は白く、南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷、二度――間は乱れない。

  作戦室。地図の沖に白線がもう一本伸び、印の丸に小さな輪が増えた。老参謀が札を伏せ、王太子が視線を海へ落とす。

 「“二つ”は、黒の縁で繋がっている。奪った眷属は、夜の底で輪を合わせる癖だ。……そこへ“拍”を持ち込め」

  海人が頷く。「港口から“耳”を辿り、踏み石の輪を越え、礁と杭の印を経由して黒の縁へ。——戻る拍は置きっぱなしにする」

  ディランは旗の図に“外”の合図をもう一つ加え、角度の印へ小さな点を打った。「曲がる前に止まる。黒の縁では斜めに立つ」

  タイは木柄を肩に担ぎ、地図の影を親指で押す。「“楽な道”がわざと作ってある。誘いを先に潰す」

  ケイトリンは香草布を束ね、薄い樹脂を瓶に移す。「喉を通す。返事はしない。怖さは布で薄める」

  ダルセは窓の外へ指で浅い谷を吊り、鐘楼の綱に視線を渡した。「戻る鐘は変えない。長い谷、二度。——向こうでも、同じ間で」

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りを掌に移した。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ置く。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  方舟は港を離れ、印の列へ入った。礁、杭、空洞の器具、踏み石の輪。風は弱いが、海の重みは低く横たわる。

  老人の小舟が斜め後ろを守り、舳先で囁く。「黒の縁は、音が吸われる。お前さんの胸で“返り”を厚くしな」

  こはるは頷き、紅を灯に、白を指に。浅い谷を二つ連ね、耳を印ごとに置き直していく。舟の板が軽く答え、舳先の前に噛める場所が増える。

  薄金の底が翡翠を帯び、やがて色をやめた。

  海の向こうへ、墨を溶かしたような縁。真っ黒ではない。暗さの居場所だけが揃っている。

  海人が櫂を止め、舳先を半度落とす。「ここから歩く。舟は目と耳の末端に残す」

  方舟は印の杭へ短く結ばれ、索が低く鳴いた。

  潜るのではない。歩くのだ。

  干いた海の底は石畳に似た面をところどころ見せ、陰と陰のあいだに薄い湿り気が漂っている。

  ダルセが竪琴を背へ回し、指を空に上げて浅い谷を吊った。音は出さない。足の間をそろえる“拍”だけを、胸の奥へ置く。

  ディランが旗を巻き、角笛を腰へ。剣は抜かない。肩で角度だけを示す。

  タイは木柄を杖に変え、足の下の“楽な道”を先に潰す。石の目に沿う近道は誘いの筋だ。

  ケイトリンは香草布をこはるの口元に押し当て、「返事はしない」と目で渡す。

  海人が最後尾で列の“返り”を受け、方舟の耳と繋ぎっぱなしに保つ。

  こはるは先頭の半歩横で、胸の棚に白と紅を並べ直した。(黒の縁に、私の“拍”を持っていく)

  縁の手前で、呼びが来た。

  名ではない。低い懐かしさの形。幼いころの庭の光の温度と似た角度が喉の裏へそっと差し出される。

  こはるは浅い谷を長くひとつ。布の下で名の形を薄くして、白で前へ橋を置いた。

  タイが木柄で横腹を噛み、ディランが足の角度で進路を半歩だけ外へ滑らせる。

  呼びは粉に崩れ、黒の縁は黙ったまま道を許す。

  縁の中は静かだった。

  音は吸われ、影は濃くならず、寒さも熱も薄い。

  ただ、拍だけがこちら側にある。戻る鐘の二度が遠くで微かに響き、その返りが足の裏に戻ってくる。

  こはるは胸で浅い谷を二つ置き、紅を灯に、白を指に。足は走らない。曲がる前に止まる。

  やがて、黒の縁の底に白い輪。

  石が円を作り、中央に薄い台座。そこに、“二つ”の影が置かれている。

  眷属の姿はない。けれど、匂いがある。金属でも塩でもない、乾いた“合わせ”の匂い。

  ケイトリンが樹脂の瓶をわずかに傾け、匂いを確かめる。「溶かさない。——外から合わせにくる」

  海人が周囲に目を走らせ、短く言う。「輪の外で受ける。輪の中では触らない」

  ディランが半月に人を配し、タイが“楽な道”に見える細い溝を先に木柄で潰した。

  ダルセは空に浅い谷を二つ、同じ間で吊るし、戻る鐘と呼吸を合わせる。

  こはるは台座の手前で膝を折り、掌を石に置いた。冷たくない。

  白と紅を胸の棚に並べ、浅い谷をひとつ。

  “二つ”は光らない。

  けれど、鼓動の形を忘れていなかった。

  耳を石に当てると、薄い脈が二つ、同じ拍を探している。

  欠片たちは重さを持たず、名も呼ばず、ただ“間”だけを欲しがっていた。

 (渡す。けれど、名は渡さない)

  こはるは息をひとつ置き、紅で灯を小さく、白で橋を短く。谷は浅く。

  その瞬間、黒の縁の外輪が身じろいだ。

  視界の端で影がひとつ立ち上がり、輪の外から台座へ伸びる。眷属の手だ。指の節が“合わせ”の角度を覚えている。

  海人が声を張らずに言う。「押す」

  タイの木柄が指の根を横から噛み、ディランが肩で角度を外へ滑らせる。

  呼びは来ない。名は置かれない。

  こはるは胸で浅い谷を二つ連ね、白で台座の縁へ橋を置き、紅で灯を守る。

  眷属の手は粉に崩れ、黒の縁は静かに戻る。

  “二つ”の脈がわずかに太った。

  ケイトリンが樹脂を薄く伸ばし、台座の縁と石の間に“戻る拍”を塗り込む。

 「呼ばれたとき、ここで返す道」

  ダルセの浅い谷がもう一段太り、遠い鐘の二度が黒の縁の底で小さく響いた。

  こはるは指先で二つの影の気配をなぞった。

  片方は、深い水の底で白い花が開ききらずに止まっているよう。

  もう片方は、熱の記憶だけ抱えて色を忘れた紅。

  白は前を、紅は内を、覚えている。

 「帰ろう」

  音にせず、喉で言う。

  台座の縁に短い結びを二つ置き、白と紅の“耳”を結んだ。灯は入れない。名も入れない。

  戻る拍だけを置く。

  石は濡れず、黒の縁は黙っている。

  海人が短く頷く。「受ける」

  そのとき、底から“呼び”が来た。

  名ではない。けれど、形は確かだ。

  こはるの喉の裏に、旅の最初の日の潮の匂いと同じ角度が立ち上がり、台座の“合わせ”がその角度を欲しがった。

  こはるは布を強く押し当て、胸で浅い谷を三つ続ける。白が前へ、紅が内へ。

  タイの木柄が横腹を噛み、ディランの角度が外へ流れ、ダルセの谷が切れない。

  呼びは形を失い、粉になった。

  “二つ”が、台座から軽く浮いた。

  浮くというより、重さの置き場所が変わった。

  白は自分の足で立つ場所を探し、紅は胸の奥の灯へ寄りたがる。

  こはるは掌を胸に当て、浅い谷で受け皿を作った。(まだ、ここではない。——戻る道に乗せる)

  帰路。黒の縁は無口のまま、足の裏の返りだけが確かだ。

  印の輪に出ると、海の重さが紙一枚ぶん軽くなった。

  老人の小舟が寄り、舳先で短く言う。「“合わせ”は逃げた。……今のうちだ」

  海人が頷き、「走らない」と付け加えた。

  踏み石の輪、器具、杭、礁。

  耳は返り、目は見える。

  “二つ”の影は胸の棚の浅い谷で静かに揺れ、白は道を、紅は温度を、忘れていない。

  ケイトリンが甘い滴をこはるの舌へ落とし、「喉を通す」

  こはるは頷き、布の折り目を指で正した。

  港口の影で、最後の呼びが待っていた。

  名ではなく、昔の手順。

  縄の結び目をほどく手の記憶が、指先で勝手に動こうとする。

  こはるは両手を膝に置き、浅い谷をひとつ長くした。

 「ほどかない」

  海人が舵を半度外へ、タイが木柄で横腹を噛み、ディランが欄干の角で進路を滑らせる。

  ダルセの谷が切れず、ケイトリンの布が兵の口元を通った。

  記憶の手順は粉に崩れた。

  桟橋。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でる。

  王太子が待っていた。外套の砂塵色、手は空のまま。

  海人が短く報告する。「黒の縁の台座から“二つ”を受けた。灯は入れていない。名も渡していない。——戻る拍だけ置いた」

  王太子は頷き、余計を言わない。「次は“結び”。——君の胸のほうで、だ」

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べ直した。

 (まだ“私のもの”じゃない。——誰のでもない拍で、結ぶ)

  夜。作戦室の地図に、黒の縁の輪が小さく記された。印と印を結ぶ白線は太り、港の腹の上で耳の印がいくつも灯らない光を持つ。

  老参謀が札をめくる。「明けと夕、柔い。夜半、巣は身じろぎ。——結ぶのは明け」

  ディランが旗の角度を磨き、ダルセが鐘楼の綱を指で撫で、タイが木柄の布を締める。

  ケイトリンは樹脂を温め、布を整え、温石を籠に移した。

  海人が欄干を二度叩き、こはるは胸の棚へ浅い谷を置いた。

 (結ぶ。灯を入れず、名を渡さず。私の“間”で。——明けに)

 明けの手前、王都の石が薄い金を吸い、戻る鐘が深い谷を落とした。二度の音が城の腹を渡る。南と東の灯は糸のまま高い。

  こはるは中庭の泉の縁に膝をつき、掌を石に置いた。水は低い。けれど、昨夜より息が通る。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ置く。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指に戻った。

  王太子が短い言葉だけ落とす。「ここで“結ぶ”。——灯は入れない。名は渡さない」

  海人が頷く。「戻る拍だけを骨にする。受け皿は城。返りは港。筋は外へ開く」

  ディランは中庭の四隅に兵を立て、旗の角度を半度落とした。「曲がる前に止まる。二短は変えない」

  タイは泉の縁と敷石の継ぎ目を親指で探り、“楽な道”になりそうな細い割れ目を木柄で先に潰す。

  ケイトリンは温めた樹脂を薄く延ばし、布を折り、甘い滴を箱の手前へ。

  ダルセは回廊の柱にもたれ、弦に触れず空へ浅い谷を三つ吊るした。

  泉の水面に、黒でも白でもない影が二つ、静かに揺れる。

  こはるは袋から“二つ”を取り出した。光らない。重くもない。だが、指の間でわずかに拍を探す。

  白は前へ。紅は内へ。二つとも、忘れていない。

 「順を踏む」海人が泉の縁に掌を置く。「城の“骨”に戻る拍を置き、港の“耳”へ繋ぎ、外海の“目”へ渡す。……最後に、胸で結ぶ」

  こはるは頷く。返事を小さく。息で。

  第一の置き場は北の縁。

  ディランが旗で合図し、角笛は吹かない。足の位置だけが半歩ずつ揃う。

  タイが石の継ぎ目を撫で、“楽な道”になりかけた細い逃げを木柄で寝かせた。

  ケイトリンが樹脂を点にして落とし、匂いは薄く、形は残らない。

  ダルセの浅い谷がひとつ長くなり、城の腹がそれを飲む。

  こはるは白の拍で泉の北端へ短い橋を置いた。紅は内で灯を保つ。

  第二の置き場は東の縁。

  港へ続く路の方角。

  海人が欄干の代わりの縄を二度、同じ間で叩く。

  こはるは紅の拍で“耳”を置き、白で道を細く重ねた。

  泉の水がわずかに息を吸い、戻る鐘の二度を薄く返す。

  第三の置き場は南の縁。

  外海の筋の方向。礁、杭、器具、踏み石。

  ダルセの浅い谷が港の鐘と合い、タイの木柄が“今できた楽な道”の腰を先に潰す。

  ケイトリンが布で縁を拭い、樹脂を薄く曇らせて残す。

  こはるは白で筋へ触れ、紅でその触れを包む。

  最後に、西。

  王城の内へ返る方向。

  ディランが旗を半度上げてから落とし、人の肩が同じ間で落ちる。

  こはるは紅で灯を守り、白で橋を短く置いた。

  四つが揃うと、水面が紙一枚ぶん高くなった。光ではない。温度の差。

  泉の底の石が、呼吸を思い出す。

  そのとき、呼びが来た。

  名ではない。結び目の手順。指の節が勝手に動きたがる、古い癖。

  こはるは布を鼻口に当て、胸で浅い谷を三つ続けた。白が前へ、紅が内へ。

  海人が縄を二度叩き、ダルセの谷が切れない。

  タイの木柄が敷石の逃げを押さえ、ディランが角度を半歩だけ外へ滑らせる。

  ケイトリンの甘い滴が喉を通る。

  手順は粉に崩れた。

 「結ぶ」

  王太子の声は短く、薄い。けれど、綱の芯を真っ直ぐに通った。

  こはるは“二つ”を両の掌へ分け、泉の面の上で向かい合わせた。

  白は前へ歩きたがる。

  紅は胸の内へ戻りたがる。

  彼女は浅い谷をひとつ長くし、二つの拍の間に薄い棚を挟む。

  合わせない。

  重ねない。

  “触れさせ、離す”。

  白が先に一歩、紅が半歩遅れて追う。

  紅が先に息を吸い、白が半歩遅れて吐く。

  浅い谷の上で、その繰り返しだけを十度。

  泉がひとつ、低く鳴った。

  音ではない。重さの返り。

  中庭の空気が半歩だけ温くなり、石の目が濡れないまま光った。

  眷属は来ない。

  代わりに、城壁の向こう――港の腹で返りが太り、外海の筋の“耳”が順に答えた。

  礁、杭、器具、踏み石、そして新しい浮標。

  目と耳の列が、王都の腹とひとつの間で繋がる。

  こはるは最後の一度、浅い谷を置いた。

  白が紅の内に、半呼吸だけ身を伏せ、次の呼吸で入れ替わる。

 (ここに灯は入れない。名は渡さない。——拍だけ)

  結びが、落ちた。

  “二つ”は光らないまま、泉の面で同じ高さを保ち、互いの影の内側を薄く温めた。

  白は前を。紅は内を。互いへ渡し合い、戻し合う。

  王太子が泉の縁へ歩み寄り、手袋越しに水面へ指を置いた。

 「……潮が、紙一枚ぶん、戻った」

  海人が息で笑う。「戻したのは、ここです」

  タイは木柄の布を締め、刃へ手をやらない。

  ディランは旗を巻いた手で欄干を一度叩き、二短を心に写す。

  ケイトリンは樹脂の蓋を閉め、「喉は通ってる」とだけ言った。

  ダルセは弦に触れず、空に浅い谷をふたつ。

  泉の面に、翡翠の筋が短く走った。

  “二つ”はまだ名を持たない。だが、拍を共有した。

  こはるは掌を胸に戻し、白と紅の間に薄い棚をもう一枚挟む。(これで、奪われたあいだは閉じた。——ここから先は、渡す側)

  城門の影から伝令が駆け、膝をついて報告する。声は走らない。

 「南東の外輪、寝返りは浅いまま。港の大橋、列は走らず。……井戸の布、動かず」

  王太子は短く頷く。「結びは保った。次は“返す道”の太りを見極める」

  海人が地図を開き、印の列を指でなぞる。「明けと夕で外へ。拍は置きっぱなしにして、往きを軽く、帰りを深く」

  こはるは泉の面から“二つ”をすくい上げ、袋へ戻した。

  重くない。だが、落とすわけにはいかない重さ。

  袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りで指を落ち着かせる。

  中庭を出る前、老人の小舟の櫂が門内に立てかけられているのが目に入った。

  老人は来ていない。櫂だけが、結びと同じ角度で立っている。

  海人がそれを手に取り、舳先の高さに合わせて空へ軽く振った。「返る拍で、行く」

  こはるは頷き、胸の棚に浅い谷を置いた。

  回廊へ風が入り、煤の匂いが薄い。

  南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷、二度。

  王都の腹は、その間で呼吸を続ける。

 (次は、“返し”の本隊。——拍を太く、道を広く。名は渡さず、灯は胸に。……行こう)



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