第23章_返しの灯
夕の色が海の背に沈むころ、港の腹は静かに息を吸った。方舟の索が短く鳴り、舳先は印の並ぶ沖へ向いている。南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れない。
こはるは舟べりに掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷をひとつ置く。喉が道を思い出し、腹の奥で温石の名残がやわらかく光る。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指先に薄く移った。
「出る」海人が短く言い、櫂を押した。
ディランは旗を低く保ち、舵の角度を半度ずつ切って曲がり角を丸くする。「曲がる前に止まる。沖は影が早い」
タイは木柄の布を締め直し、舟底の節を親指で探った。「“楽な道”の腰を先に落とす。舳先は噛ませる」
ケイトリンは香草布を折り、甘い滴を箱の手前へ、苦い舌薬を奥へ。「喉を通す。返事はしない」
ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ浅い谷を三つ吊るした。谷は切れない。舟の息がそこへ落ちる。
港口を抜けると、海は昨夜よりも静かに見えた。けれど静けさは嘘をつく。灰の帯は細くなり、かわりに“向き”のない重みが低く横たわっている。
最初の押しは、光のない方から来た。舳先の前で空気が半歩遅れ、舟板が音にならない音で軋む。
「押さない。ずらす」海人。
ディランが旗を低く滑らせ、舵を半度外へ落とす。
タイが舷の内側を木柄で撫で、舳先の“楽な道”を丸める。
こはるは胸で浅い谷を二つ続け、白で筋を、紅で温度を保った。
印の礁と杭が背で舟を守る位置に来ると、筋は一本ぶん太くなった。昨夜結んだ結びが潮の下で息をし、舟の間と合う。
老人の小舟が斜め後ろに寄って舳先で短く笑う。「骨は増えた。次は“目”が要る。お前さんの胸だ」
こはるは頷き、紅を灯に、白を指に。胸の棚で二つを入れ替え、前へ軽く触れた。(ここに、目を置く)
東へ二里。薄金の底で、眠っていたはずの名が喉の裏で指を伸ばした。子守歌の最後に差し出される甘い皿のような角度。
ケイトリンが布を押し当てる。「返事はしない」
こはるは浅い谷をひとつ長くし、その甘さに薄布を被せる。
ダルセの浅い谷が三つ、同じ間で落ち、舟はたわまない。
タイは木柄で水を横から押し、筋の外腹に小さな“押し返し”を先に置く。
ディランは旗を半度上げてから落とし、舵へ同じ癖を移した。
甘さは粉に崩れ、名は名にならない。
印の列の先に、新しい黒い背が横たわっていた。流木ではない。楕円の胴に縄の古い痕。かつて灯を載せた器具のなれの果て。
海人が舳先を落としながら言う。「“目”に使える。……拾う」
ディランが旗で合図を送り、舟の速度を浅い谷で落とす。
タイが木柄の布をもう一周締め、黒い背の横腹を噛ませてから持ち上げた。
こはるは膝で舟板を押さえ、器具の縁に掌を当てた。冷えて、軽く、空洞の声がする。
「ここに灯は入れない。……でも、印は置ける」
ケイトリンが端に薄い樹脂を塗り、縄で短い結びを作る。
ダルセが浅い谷をひとつだけ長く吊り、風の間に刻んだ。
黒い背――空洞の器具――を礁と杭の間に浮かべ、索で印の列に結ぶ。
遠くない場所で筋がひとつ息を吐き、舟底が軽く答えた。音にはならない音。
老人が舳先で言う。「それが“目”だ。灯がなくても、道は見える」
海人が櫂を押し、舳先をわずかに東へ傾ける。「目を増やす」
その時、海が“名”で呼んだ。
聞いたことのないはずの地名が、喉の裏に正確な角度をとって立ち上がる。器具の空洞がその名の音を欲しがる。
こはるは胸の棚で浅い谷を三つ続け、白と紅の間に薄い棚を挟んだ。
(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
ケイトリンが兵の口元に布を当て、ダルセの谷がずれない。
タイの木柄が舷を二度叩き、ディランの舵が外へ滑る。
名は形を失い、粉になった。器具は空洞のまま、ただ“目”として水に浮く。
小さな勝ちが重なり、“返す”道はさらに太くなった。
こはるは胸で呼吸を落とし、紅を灯に保ちながら白で指を伸ばす。印と印のあいだに、見えない橋がいくつも架かる。(戻れる。行ける。返しに)
さらに東。薄金の底が翡翠を帯び、筋が二枚、重なって見えた。
「分かれる」海人が短く言い、舳先を低くする。
ディランは旗を低く保ち、曲がる前に止める印を一つ増やす。
タイは舷の内から外へ木柄で撫で、“楽な道”が勝手に太らぬよう腰を落とす。
ダルセの浅い谷が、ここだけ一拍ぶん長くなった。
こはるは二つの筋のうち“冷たくないほう”へ白を置き、紅で包む。
舟がそっとそちらへ乗ると、灰の帯の端で輪がひとつ、角度を間違えた。
「押す」海人。
タイの木柄が横腹を噛み、ディランの舵が半度外へ。
輪は空を噛んで崩れ、筋は痩せずに通った。
そこから先は、海が低く鳴った。鳴り、といっても音ではない。腹の奥に置かれた重さが、一息ごとに薄く軽くなる。潮が、ほんの紙一枚ぶんだけ戻る。
こはるは胸の棚で浅い谷を置き、紅を灯に、白を指にした。
海人が櫂を押す。
ダルセの浅い谷が港の鐘の間と重なる。
ディランの旗が半度落ち、タイの木柄が“今できた楽な道”の腰を先に押し潰す。
ケイトリンは舟の中央で甘い滴を配り、喉の道を保つ。
やがて、海の表情が変わった。
遠くに見える影――低い円弧。沈んだ祠の屋根か、積まれた石の残骸か。周囲の水は薄く温い。
老人が目を細める。「そこは昔、“乙女の踏み石”って呼ばれた。潮が高い年だけ顔を出す。……今は出てはいないが、骨はある」
海人は舳先を落とし、「印にする」と言った。
舟を寄せると、確かに水面の下で石が輪を作っていた。欠け、割れ、名を失っているのに、踏み方だけが残っている。
こはるは舷から身を乗り出し、掌を水に浸した。冷たくない。浅い谷をひとつ置くと、紅が小さく応え、白が輪の肩を示した。
「ここに“返す”灯は要らない。……でも、戻る足を覚えさせられる」
タイが木柄の先で石の間を探り、ディランが細い索で輪の二点を結ぶ。
ダルセの浅い谷が水面に薄く映え、ケイトリンが樹脂を少しだけ落として印の“匂い”を残した。
踏み石の輪が“目”になった瞬間、胸の棚で紅がふっと大きくなった。
こはるは息を吸い、喉で静かに言う。「返す」
海は名で呼ばない。ただ、紙一枚ぶんだけ、潮の背を高くした。
西を見ると、王都の影が低く、長く、細い。南と東の灯は糸のまま高い。
海人が舳先を返す。「戻る。……“返す”道は、明けと夕でさらに太らせる」
ディランは旗を巻き、角笛の間を紙片に移した。
タイは木柄の布を締め、刃に触れない。
ケイトリンは甘い滴をこはるに一つ、「喉を通す」とだけ言う。
ダルセは浅い谷を二つ、港の鐘の間に合わせて落とした。
帰路。港口の影で最後の“呼び”が待っていた。
器具の空洞が、さっき拾ったはずの名の形で鳴りかける。
こはるは布を強く押し当て、浅い谷を三つ連ねた。白が前へ、紅が内へ。
海人の舵が半度外へ落ち、タイの木柄が横腹を噛む。
ディランの旗が低く滑り、ダルセの谷が切れない。
呼びは崩れ、粉になって港の腹へ散った。
桟橋。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でる。
王太子が待っていた。目は海の方へ、手は空のまま。
海人が短く報告する。「“目”を増やした。乙女の踏み石の輪に印。――道は戻る」
王太子は頷き、余計を言わない。「次も同じ間で」
こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べ直した。(返す。奪われた二つを。私の“間”で)
夜半。王都の回廊で、ダルセが鐘楼の綱を指で撫で、ケイトリンが温石を数え、ディランが旗の角度を磨く。
タイは木柄の布を締め直し、海人は欄干を二度叩いて間を渡す。
こはるは窓辺に立ち、南と東の灯の糸を見上げた。高く、細い。
胸の紅が小さく灯り、白がその灯を囲う。
(道は太る。目は増える。踏み石は“返す”。――次は、名を渡さずに、さらに沖へ)
明けの手前、港の石が薄い金を吸い込み、方舟の索が短く鳴った。南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れない。
こはるは舳先の木肌に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷をひとつ。息が遠くへ伸び、喉が“返しの道”を思い出す。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指の腹に薄く移った。
「出る」海人が短く言い、櫂を押す。
ディランは旗を低く保ち、舵の角度を半度ずつ切って曲がり角を丸くする。「曲がる前に止まる。沖は影が早い」
タイは木柄の布を締め直し、舟底の節を親指で探った。「“楽な道”を先に落とす。噛むのは横腹」
ケイトリンは香草布を折り、甘い滴を箱の手前へ、苦い舌薬を奥へ移す。「喉を通す。返事はしない」
ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ浅い谷を三つ吊るした。舟の息がそこへ落ちる。
港口を抜けると、昨夜据えた“目”が静かに浮き、潮の下で印の結びが息をしているのが背でわかった。礁、杭、空洞の器具、乙女の踏み石の輪――見えない橋が細く連なり、筋は一本ぶん太い。
老人の小舟が斜め後ろに寄り、舳先で短く笑った。「目は増えた。今日は“耳”も置ける」
「耳?」こはるが首を傾ける。
「風の向こうへ届く薄い“返し”。音じゃない。間の返り。——お前さんの胸でできる」
海人が頷く。「置こう。戻る鐘と合う“耳”だ」
最初の押しは風のかえし。舳先の前で空気が半歩遅れ、舟板が音にならない音で軋む。
ディランが旗を低く滑らせ、舵の角度を半度外へ落とす。
タイが舷の内側を木柄で撫で、舳先の“楽な道”を丸めた。
こはるは胸で浅い谷を二つ続け、白で筋を、紅で温度を保つ。
印の礁に差しかかる。潮の浅い背で、結びがかすかに響く。
こはるは胸の棚で白を指に、紅を灯に置き換え、浅い谷をひとつ長くした。
(ここに“耳”)
息の底で薄い返りを作り、戻る鐘の二度に合わせて浮かべる。見えないが、触れられる。
ダルセの浅い谷が一拍ぶんだけ伸び、舟の板が同じ間で息を返す。
老人が舳先で頷いた。「それだ」
杭。器具。踏み石の輪――ひと区画ごとに“耳”を置いていく。筋はぶれない。返りが返りを呼び、道に“戻るはず”の手応えが溜まる。
海人が櫂を押す力を少し抜き、舟は自分の重さで前へ滑った。
「戻りの拍を、先に置ける」
ディランが旗を低く打ち、舵に同じ癖を宿らせる。
タイは横腹を噛ませる角度を覚えさせるように、木柄で舷を二度叩いた。
ケイトリンは箱の蓋を半ばだけ開け、香草布の折り目を指で正す。
東へ二里。薄金の底が翡翠を帯び、筋が二枚に分かれた。冷たくないほうへ白を置き、紅で包む。
その刹那、海が“名”で呼んだ。
喉の裏に、こはるの知らないはずの岬の名が正確な角度で立ち上がる。甘い皿が差し出されるような気配。
こはるは布を口元に強く押し当て、胸で浅い谷を三つ続ける。白が前へ、紅が内へ。
ダルセの谷がずれず、ディランの舵が半度外へ落ちる。
タイの木柄が横腹を噛み、海人の櫂が名の形に触れる前に筋を外へ滑らせた。
名は名にならず、粉になって海へ散る。
印の列を過ぎるころ、南東の外輪が薄く寝返った。灰は太らない。だが、“向き”のない重みが紙一枚ぶんだけ増す。
「目をもう一つ」海人が舳先を落とす。
遠く、水面すれすれに丸い影。半分沈んだ浮標の残骸だ。縄の痕が古く、金具は欠けている。
タイが木柄で苔を落とし、ディランが索で短い結びを作る。
こはるは浅い谷をひとつ長くし、紅の灯で“耳”をそこへ置いた。
ダルセが一拍ぶんだけ間を太らせ、風が返りを覚える。
浮標は灯を持たない。けれど、戻る道の“耳”になった。
小さな勝ちのあと、海が腹で鳴った。
音ではない。重さだけがひとつ乗ってきて、舟底が一瞬、固くなる。
海人が短く言う。「押さない。噛む」
タイの木柄が舳先の横腹へ当たり、ディランが旗の角度を半度落とす。
こはるは棚を一段深くし、白と紅の間に薄い棚を挟む。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
重さははがれ、舟は筋に乗り続けた。
その時だ。
乙女の踏み石の輪の近くで、水が一息だけ高くなった。紙一枚ぶん。だが確かに。
老人が舳先で目を細める。「返りが来た。……そこだ」
こはるは掌を水へ浸し、浅い谷をひとつ置く。紅が応え、白が輪の肩を示す。
「“返す”」
声は小さい。けれど、輪の石と胸の棚のあいだで、拍が同じになった。
舟が輪をかすめて進むと、筋の上に薄い光がひと呼吸ぶん走った。光というより、温度の差。
ダルセの浅い谷が港の鐘の間と重なり、ディランの旗が半度上がってから落ちる。
タイの木柄が“今できた楽な道”の腰を先に潰し、海人の舵が外へ微かに逃がした。
筋は痩せず、むしろ太った。
さらに外。空の底が青を取り戻しはじめ、南と東の灯は背中で細く高い。
海人が櫂を止め、舳先をわずかに東へ向ける。「もう一つ“耳”。——そこが今日の端」
こはるは胸で浅い谷を長く置き、紅の灯で空気の返りを薄く残した。
ケイトリンが薄い樹脂で印の匂いを足し、タイが木柄で舷を二度叩く。
ディランは舵の角度に同じ癖を刻み、ダルセの浅い谷が風へ吸い込まれる。
帰路。灰は薄く、呼びは短い。
港口の影で最後の名が喉の裏に立ち上がったが、こはるの布は先にそこへあり、浅い谷は切れずに続いた。
名は名にならず、粉になって光のないところへ落ちる。
桟橋。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁を撫でた。
王太子が待っていた。外套は砂塵の色、手は空のまま。
海人が短く報告する。「“目”に加えて“耳”を置いた。返りが港口まで続く。——道は往き来に耐える」
王太子は頷き、余計を言わない。「次も同じ間で」
短い休息。作戦室の地図に白線が一本、沖へ太く伸び、印の丸のいくつかに小さな輪――“耳”の印が加えられた。
老参謀が潮の札をめくる。「明けと夕、柔い。夜半、巣は身じろぎ。だが返りは続く」
ディランが旗の図に“耳”の合図を写し、兵の手に渡す。
タイは地図の影を親指で押し、先に潰す“楽な道”を赤で増やした。
ケイトリンは配布所を港の外縁にもう一つ増やし、温石を籠に移す。
ダルセは鐘楼の綱を見上げ、指で“谷の太さ”を半目盛り保つ仕草を見せた。
こはるは地図の端で浅い谷を置き、白と紅の間の薄い棚を指でなぞる。(返す。奪われた二つを。往きと帰りを、同じ間で)
夕。再び出る刻、港の腹が静かに息を吸った。
方舟は索を張り、舳先を印の列へ向ける。
南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷、二度。
こはるは袋の結び目を二度確かめ、掌に煤の夜を少し残した。
(道は太った。目は見える。耳は返る。——次は、奪われた“二つ”へ、拍そのものを届けに行く)




