第22章_外海への門
夕が沈みきる前の薄金が石壁の上を渡り、王都の影は動かないまま深さだけを増した。大潮門は息を整え、戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れない。作戦室では白線が海側へ延び、南と東の灯は細いまま高い。
こはるは窓辺で袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りを掌に移した。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ置く。息は細く遠くへ伸び、喉が“外”に続く道を思い出す。
「明けの二刻で出る」海人が地図の端を押さえ、港口から外海へ薄い筋を引いた。「沖の“筋”を太らせる。奪われた二つへ道を返す」
ディランは旗の図に外回りの角度を記し、角笛の合図に新しい間を一つ足す。「曲がる前に止まる。沖は影が大きい。旗は低く、角は丸く」
タイは木柄を肩に担ぎ、指で地図の影を押した。「“楽な道”は沖にもある。浅瀬の肩、崩れた礁、沈んだ杭。先に潰す」
ケイトリンは配布所の札を外へ移し、甘い滴と苦い舌薬、温石を舟の箱へ詰めていく。「喉を通す。返事はしない。寒さが来たら温石を腹に」
ダルセは鐘楼の綱へ視線を送り、指で空へ浅い谷を吊った。「戻る鐘は変えない。長い谷、二度。沖では“舟の息”に合わせて増やす」
王太子は短く頷き、城の陰から海へ向けて人の流れを細く整えた。「道は通す。――返しに行け」
夜。方舟は城中庭から港へ下り、索を二重にとった。老人の小舟が横に並び、縄の結びを叩いて確かめる。
「外海の鳴りは、腹で来る。耳じゃない」
「腹で受ける」海人が結び目を同じ形に揃え、舳先を東へ向けた。
こはるは舟べりに掌を置き、胸の棚に浅い谷を二つ続けて置いた。白が道を、紅が温度を。
明けの二刻。空はまだ色を持たず、南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が港の腹を撫でた。
舟は岸を離れ、港口の影をくぐる。水は浅いが、外は開く。
ディランが旗を低くし、角度を半度ずつ切って曲がり角を丸くする。
タイは木柄で舷の下を撫で、舟底の“楽な道”になりそうな渦の腰を先に潰す。
ケイトリンは箱の蓋を半ば開き、香草布を一枚ずつ指先で整える。
ダルセは竪琴に触れず、空へ浅い谷を三つ、同じ間で連ねた。舟の息と合うように。
港口を出ると、灰の帯が遠くで体を横たえていた。背骨は曲がらない。けれど、寝息のひとつが残っている。
最初の押しは、海ではなく風から来た。音はないのに、舳先の前で空気が半歩ぶん遅れる。
海人が短く言う。「押さない。ずらす」
ディランが旗を低く滑らせ、舵の角度を半度だけ外へ落とす。
タイの木柄が舟縁の内側に軽く当たり、舳先の“楽な道”を先に丸めた。
こはるは胸で浅い谷を置き、白と紅の間に薄い棚を挟む。呼び名は来ない。寒さが喉の裏で躊躇い、退く。
沖の“筋”は、光のない川のようにそこにあった。細く、頼りなく、けれど確かに“向き”を持っている。
「これを太らせる」海人が櫂を押し、舟の身を筋へ重ねる。
こはるは胸の棚で白を前へ、紅を内へ置き換えた。浅い谷が筋の上で底を持ち、舟の息がそこへ落ちる。
ダルセの浅い谷が一拍ぶんだけ長くなり、舟の速度が同じ間で滑った。
外の影が一枚、濃くなる。
灰の帯からほどけた“指”が水面の下で伸び、筋の横腹を撫でる。輪にはまだならない。けれど、“楽な道”を嗅ぐ癖がはっきりしている。
タイが木柄で水を横から押し、舳先の前に小さな“押し返し”を作る。
ディランは旗を半度起こしてから落とし、舟の角度をひと呼吸ぶん外へ逃がした。
こはるは浅い谷をもうひとつ増やし、白の拍で筋の上に薄い橋を置く。紅がそれを包む。
指は橋に触れて痩せ、筋の外へ溶けた。
小さな勝ち。舟は止まらない。
老人の小舟が後ろから寄り、舳先で短く笑う。「それが“噛む”だ」
海人が頷く。「覚える」
東へ二里。灰の帯は少し痩せ、筋は一本ぶん太る。
そのとき、海は音でなく“記憶”で呼んだ。
喉の裏に古い名前の形がひとつ、確かな角度で上がりかける。
ケイトリンが香草布をこはるの口元へ押し当て、「返事はしない」と目で渡した。
こはるは頷き、胸で浅い谷を長くひとつ。名の形に薄い布を被せる。
ダルセの浅い谷が三つ、同じ間で落ち、舟の板がたわまない。
タイは木柄で舷の内側を二度叩き、舟の身を筋の真ん中へ戻した。
ディランは旗を低く保ち、角を丸く取る。
呼びは退いた。
海人が舳先をわずかに東へ傾ける。「もう一本、筋がある」
遠く、翡翠の薄金が海の底から上がってきて、真横に細い道を見せた。
そこは、こはるが欠片を胸に当てた夜の色と似ている。
彼女は胸の棚で紅を灯し、白を指にして筋へ触れた。(ここが“返す”道の片方)
舟を二度、三度と乗せ換え、筋は合流して一本ぶん太った。
その瞬間、灰の帯の端で小さな輪が二つ、同時に結ばれる。
「押す」海人が短く言い、タイの木柄が横腹を噛む。
ディランが舵の角度を半分だけ外へ落とし、輪の進路を筋の外側へ滑らせる。
こはるは浅い谷を連ね、白で筋を太らせ、紅で舷の温度を保つ。
輪は空を噛んで崩れ、粉に溶けた。
小さな勝ちが続く。
方舟は港の方角へ索を引いたまま、沖との往復を繰り返し、筋の上に“行って帰る拍”を置く。
戻る鐘の二度が遠くから届き、港の腹がそれに応えて膨らむ。
やがて、薄金の底に固い影。
海面下に崩れた礁が横たわり、昔の航路の杭が二本、半分だけ露出していた。
老人が舳先で指した。「ここで折れた。潮が高い日も、戻らない日も、ここで」
海人が櫂を止め、舳先を杭の手前で半身だけ外へ振った。「“返す”印にする。結びを覚えたとおりに」
タイが木柄で杭の苔を落とし、ディランが細い索で結び目を作る。
こはるは胸の棚に浅い谷を置き、白と紅の間に薄い棚を挟んだ。(ここに灯はない。けれど、印は置ける)
ダルセが空へ浅い谷をひとつだけ長く吊り、風の間に刻む。
結びが締まると、筋がわずかに音を持った。音にならない音。
それは夜の灯台で火が立ち上がる時の、まだ光に名前がない拍に似ていた。
こはるは掌を舟べりに置き、喉に通す息の道を細く広げた。「返す」
誰にも聞こえない声で。けれど、舟の板が軽く答えた。
西を見ると、王都の影が低く、長く、細い。南と東の灯は糸のまま高い。
海人が舳先を王都へ向け直す。「一度、戻る。——印はここにある。明けと夕で筋を太らせる」
ディランが旗を低く掲げ、角を丸く、曲がる前に止める。
タイは木柄で舟底を軽く叩き、“楽な道”に先に蓋をする。
ケイトリンは甘い滴を海人の舌へ落とし、香草布をこはるへ渡す。「喉を通す。返事はしない」
ダルセは浅い谷を二つ、同じ間で落とし、港の鐘の間と重ねた。
帰路。灰の帯は薄い。だが、最後の“呼び”が港口の影で待っていた。
港の外縁、石の根のところで、名の形が喉の裏にふっと生まれる。聞いたことのない名前。けれど、懐かしさの匂いを纏っている。
こはるは胸の棚で浅い谷を長くひとつ置き、名の形に布を被せた。
海人が櫂を押し、舳先を半度だけ外へ落とす。
タイの木柄が横腹を噛み、ディランが欄干の角で進路を外へ返す。
ダルセの浅い谷が切れず、ケイトリンの布が兵の口元を通った。
名は形にならず、粉に散った。
港へ戻ると、戻る鐘の谷が深く落ち、二度の音が城壁を撫でた。
王太子が桟橋で待っていた。砂塵の色の外套、手には何も持たない。
海人が短く報告する。「沖の筋を一本、太らせた。礁と杭に印。——道は、返る」
王太子は頷き、余計を言わない。「次も、同じ間で」
こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に白と紅を並べた。(一度目。――次も)
夕。方舟の索が緩み、舟腹が浅く息をした。
老人が舳先で言う。「明けと夕の間は、筋がやわらかい。寝返りの前に“返し”を置くんだ」
海人が笑わずに笑う。「置く。何度でも」
こはるは頷き、港の灯の糸を見上げた。高く、細い。
夜。港の腹は乱れない。
城の回廊で、ケイトリンが温石を数え、ダルセが鐘楼の綱を指で撫でる。
ディランは旗を巻き、角笛の間を紙片に留める。
タイは木柄の布を締め、刃に触れない。
海人が欄干を二度叩き、こはるは胸の棚へ浅い谷を置いた。
(返す。奪われた二つを。筋を太らせ、印を置いて。——明けにも)
明けの前、港の石は薄い金を吸い込み、方舟の索が短く鳴った。南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷のあと二度——間は乱れない。
こはるは舳先の木肌に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷をひとつ。息は遠くへ伸び、喉が“外”の筋を思い出す。袋の結び目を二度確かめると、煤の手触りが指に移った。夜の灯台、橋、方舟の胸骨——全部が、ここへ向かう足に重みを与える。
「出る」海人が短く言って櫂を押す。
ディランは旗を低くし、角度の印を舷べりに爪で刻んだ。「曲がる前に止まる。沖は影が早い」
タイは木柄の布を締め直し、舟底の節を親指で探った。「“楽な道”の腰を先に落とす。舳先は噛ませる」
ケイトリンは香草布を一枚ずつ指で折り、箱の甘い滴と苦い舌薬の位置を入れ替える。「喉を通す。返事はしない。寒さは腹で止める」
ダルセは竪琴に掌を伏せ、空へ浅い谷を三つ吊るした。舟の息がそこへ落ちる。
港口を抜けると、灰の帯は昨夜より薄いが、形は長い。海は音を出さず、重さだけでこちらを測っている。
最初の押しは風のかえしだった。舳先の前で空気が半歩ぶん遅れ、帆布を使わない舟なのに、見えない帆がたわむ気配。
「押さない。ずらす」海人。
ディランが旗を低く滑らせ、舵の角度を半度外へ落とす。
タイの木柄が舷の内側に軽く当たり、舳先の“楽な道”を丸めた。
こはるは浅い谷を二つ続け、白で道を、紅で温度を保つ。
沖の“筋”に乗ると、昨夜付けた印——崩れた礁と半分露出した杭——が背で舟を守る位置にあるのがわかった。索で結んだ短い結びが潮の下で息をし、舟の動きを同じ間へ誘い込む。
老人の小舟が斜め後ろに寄る。「筋は二枚になりかける。片方は古い航路の名残だ。——名で追うな、間で噛め」
海人が頷き、舳先をわずかに東へ傾けた。「噛む」
薄金の下で、海がひとつ呼んだ。名ではない。昔の作業歌の“癖”のような拍。油断すると口が勝手に合わせそうな甘さ。
ケイトリンがこはるの口元へ布を押し当て、「返事はしない」と目だけで渡す。
こはるは胸の棚で浅い谷を長くひとつ。拍の甘さに薄布を被せ、舳先の前へ橋を置いた。
ダルセの浅い谷が三つ、同じ間で落ち、舟の板はたわまない。
タイは木柄で水を横から押し、筋の横腹に小さな“押し返し”を先に置く。
ディランは旗を半度上げてすぐ落とし、舵に同じ癖を移した。
甘さは粉に散り、筋が太さを取り戻す。
二里先。灰の向こうに、杭の影がもう一本、海面下に眠っていた。かつての標。今は名を持たない骨。
海人が舳先をほんのわずか西へ振る。「印を増やす。——結びは短く、間は長く」
タイが木柄で杭の苔を落とし、ディランが細い索を回して結び目を作る。
ダルセが浅い谷をひとつだけ長く吊り、風の間に合わせて刻む。
こはるは紅を灯に、白を指に。棚の上で二つを入れ替え、杭と礁のあいだに“見えない橋”を渡した。(ここも道になる)
印が増えるたび、筋は音にならない音を持った。舟底が軽く答え、舳先の前に“噛める場所”が増える。
老人が舳先で短く笑う。「忘れられた名のかわりに、間を置く。——残るのはそっちだ」
海人は返事を短く。「残す」
そのとき、海が懐かしさの形で呼んだ。
喉の裏に、こはるの知らないはずの地名の形が浮かび上がる。子守歌の最後の一行のような柔い角度。
こはるは布を強く押し当て、胸で浅い谷を三つ続けた。白が前へ、紅が内へ。
ダルセの指が空を滑り、浅い谷がずれない。
タイが木柄で舷を二度叩き、舟の身を筋の真ん中へ戻す。
ディランは旗を低いまま、舵だけ半度外へ。
呼びは形にならず、粉に崩れた。
小さな勝ちをいくつか重ねたところで、筋の先に新しい影が見えた。
水面すれすれの黒い背——沈んだ樽か、折れた横木か。流れに逆らいながら同じ場所で身を捩っている。
海人が舳先を落としながら言う。「“楽な道”の核になる。——先に潰す」
ディランが旗で合図を送り、こはるは浅い谷を二つ置いて舟の速度を落とす。
タイは木柄の布をもう一周締め、舳先の横へ身を取った。「押す。噛ませて、返す」
ダルセの浅い谷が一拍ぶんだけ伸び、舟の腹が同じ間で進む。
タイの木柄が黒い背の横腹に噛み、海人の舵が半度外へ滑る。黒い背は空を噛んで崩れ、筋は痩せずに通った。
港の影は遠のき、南と東の灯は糸のまま背中で高い。
ケイトリンが箱から温石を取り、こはるの腹へ押し当てた。「寒さは腹で止める」
こはるは頷き、浅い谷をひとつ長くした。息が温石の熱を拾い、紅が灯を受ける。
灰の帯の端で、二つの輪が同時に結ばれた。今までよりも角度が正確で、喉の裏で昔の名の形が企みのように揺れる。
海人が言うより先に、タイの木柄がひとつへ横から噛み、ディランの舵がもうひとつを外へ滑らせる。
ダルセの浅い谷が三つ、切れずに落ちる。
こはるは棚を一段深くし、白と紅の間に薄い棚をもう一枚挟んだ。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
輪は二つとも空を噛んで崩れ、粉になった。
その静まりの中で、タイがふいに舳先から視線を外へ投げた。
「……この筋、誰かが昔、置いた。俺が……いや、俺の前にいた“誰か”が」
こはるは問わない。布の上から息で返す。
海人が櫂を押し、舳先をひと呼吸ぶんだけ上げた。「なら、今は俺たちが置き直す」
タイは短く頷き、木柄の握りを確かめた。
午近く。空はうすく青さを思い出し、筋は一本ぶん太った。
海人が舳先を返し、王都へ向けて同じ間で舟を滑らせる。「戻る。印は三つ——礁、杭、横木の跡。次は“返す”ほうに人を連ねる」
ディランが旗を巻きながら、角度の印に小さく点を打つ。「東へ避ける癖、兵に映す」
ケイトリンは甘い滴を海人の舌へ落とし、苦い舌薬を自分の頬の裏に転がす。「喉を通す。眠気は舌で留める」
ダルセは舟の鼻で浅い谷を二つ、港の鐘に合わせて落とした。
帰路の港口。昨夜より弱いが、最後の“呼び”が待っていた。
名の形はこはるの耳ではなく、舟の板で鳴る。かすかな震え。
こはるは掌を舟べりに広げ、胸の棚で浅い谷を長く一つ置いた。白が前へ、紅が内へ。
海人が櫂を押し、舳先の角度を半度外へ落とす。
タイが木柄で横腹を噛み、ディランが欄干の角で進路を外へ返す。
ダルセの浅い谷が切れず、ケイトリンの布が兵の口元を通る。
震えはほどけ、港の影の中で粉に散った。
桟橋。戻る鐘の谷が深く落ち、二度の音が城壁を撫でた。
王太子が待っていた。砂塵色の外套のまま、手には何も持たない。
海人が短く報告する。「印を三つ増やした。筋は一本ぶん太い。——“返す”道に人を連ねられる」
王太子は頷き、余計を言わない。「同じ間で続けろ」
短い休息ののち、こはるは港の石に掌を置いた。温石の熱は薄れ、代わりに日差しが石の冷えを追い払う。
老人が小舟の舳先で結び目を叩き、言った。「間は残る。名は変わる。道は太れば、潮が戻る日を忘れない」
こはるは布の折り目を指でなぞり、胸の棚で白と紅を並べ直した。
(返す。奪われた二つを。間で、噛んで、置き直して)
夕。再び出る前、作戦室の地図に白線が一本、沖へ伸びた。印の位置に小さな丸。
ディランが旗の図に“外”の合図を写し、兵の手に渡す。
タイは地図の影を親指で押し、先に潰す“楽な道”に赤を置いた。
ケイトリンは配布所を港の外縁にもう一つ増やし、温石を籠に移す。
ダルセは鐘楼の綱を見上げ、指で“谷の太さ”を半目盛り上げる仕草を見せた。
海人はこはるへ視線を送り、欄干を二度叩く。間は同じ。
こはるは頷き、袋の結び目を二度確かめた。煤の手触り。(次も)
夕の色が石の上に薄く伸び、港の腹が静かに息を吸う。
方舟は索を張り直し、舳先を沖へ向けた。
南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷、二度。間は乱れない。
舟は再び、外海への門をくぐる。
筋はそこにあり、印はそこに残り、人の息はその上を同じ間で往復する。
こはるの胸で、白と紅が確かに並んだ。




