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第21章_潮枯れ極点

 午の刻を過ぎた空は、色を選ぶのをやめたみたいに白かった。王都の南門――大潮門――は、干いた石の足を露わにして座り直し、門前の広場は避難の列で静かに満たされている。南と東の灯は細く高い。戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れない。だが海は、遠くでじっと息を止めている。

  こはるは大潮門の石段に片膝をつき、掌を置いた。石はぬくい。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ。喉が道を覚え、視線が人の肩に落ち着く。

  海人が広場を一巡し、旗の若者たちに目で合図を送って戻ってくる。「北の橋、港の大橋、港北の倉――全部、歩幅は揃ってる。ここを“方舟”の始点にする。……大潮門が鳴ったら、城の中庭へまっすぐ通す」

  ディランは門内外の角で兵を入れ替え、旗の角度を示す。「半度落とす。曲がる前に一度止まる。角笛は二短。走らない」

  タイは門扉の蝶番と礎の継ぎ目を親指でなぞり、“楽な道”を先に潰すように木柄で押していく。刃は抜かない。木は音を立てない。

  ダルセは門楼の影に竪琴を置き、弦には触れず、空に浅い谷を吊るした。

  ケイトリンは薬包と温石を門の左右に二つずつ配し、「甘いのは列の前、苦いのは後ろ。喉を通す。返事はしない」と短く釘を刺す。

  王太子が軽装のまま馬で現れ、城側の綱を取った。「鐘は変えない。長い谷、二度。——大潮門の“拍”は君たちへ合わせる」

  海人が頷く。「門が鳴ったら、舟の胸骨みたいに人を受ける。方舟はすでに橋下へ。城中庭の舟も索を解いた」

  王太子は余計を言わない。綱を一度引き、視線で“任せる”を渡した。

  風が変わった。

  広場の旗の端が同じ角度で震え、空気が半歩だけ冷える。遠い沖で、灰の帯が背骨を曲げるのがわかった。

  こはるは胸で浅い谷を二つ続けて置く。白が道を、紅が温度を。手に煤の手触り――灯台でつけた“帰り印”が、結び目の形を確かに思い出させる。

  最初の“鳴り”は耳ではなく足に来た。

  石が低く鳴り、門扉の蝶番が、閉じているのにわずかに喉を鳴らす。

  海人が短く言う。「方舟、位置そのまま。列は二列から一列へ。角で止まる」

  ディランが旗を落とし、角笛の二短が広場を横切る。人の肩が一度落ち、歩幅が揃う。

  タイは蝶番の根を木柄で押し、石の継ぎ目の“楽な道”に先に蓋をかける。

  大潮門が息を吸う。

  広場の端の水路で、干いた底石の目が一瞬だけ色を取り戻した。濡れない。けれど、戻ってくる水の形を体で思い出している。

  ダルセの浅い谷が二つ、同じ間で落ち、こはるの胸で紅が灯を受け、白が列を導く。

  そこへ、呼びが来た。

  音ではなく、懐かしさの形をした冷えが喉の裏に乗り、視界の端で古い名前が影を作ろうとする。

  ケイトリンが列の前に香草布を配り、「返事はしない」と繰り返す。

  海人が欄干代わりの縄を二度、同じ間で叩き、歩みの拍を渡す。

  こはるは胸で谷を一つ増やし、その“名の形”の上へ薄い布を被せるみたいに息を通した。

  門扉の向こうで、遠い波が一枚、石畳に額を当てた。

  黒でも白でもない輪郭が、門柱の影でうすく結ばれる。

 「押す」海人。

  タイの木柄が横から輪の腹を押し、ディランが門の角で進路を外へ滑らせる。

  輪は空を噛んで崩れ、門前の影に粉のように散った。列は乱れない。

  鐘が鳴る。深い谷、二度。

  王都の腹がその拍を飲み込み、広場の息が一段落ちる。

  第二の“鳴り”は空から落ちた。

  雲が高く揺れ、光が一瞬だけ色を落とす。広場の石が乾いた音で軋み、門扉が閉じているまま、外側で何かに押された形でわずかに撓む。

  海人が短く言う。「方舟、半身出す。——門が割れても、道を切らない」

  方舟が城側の口から肩を出し、索が低く鳴った。

  ディランは兵の隊列を一段浅く組み直し、旗の角度を半度落とす。

  ダルセの浅い谷が切れず、こはるの胸の棚で紅が灯を囲い、白が通路を示した。

  門扉が、呼吸した。

  木の繊維が一度だけ中と外を行き来し、蝶番が低くうなった。

  石の足が、海のほうへ半歩ぶん滑る。

  タイが木柄で蝶番の根を押し、ケイトリンが「止まらないで」と低く言い、老いも若きも歩幅で返事をした。

  輪は来ない。呼びだけが薄く流れ、香草布の匂いで形を失う。

  第三の“鳴り”。

  今度は底から。

  広場の下にある古い水路が、塞がれたはずの喉の奥でうっすら息を吐いた。

  こはるは膝を折り、石へ掌を密着させる。胸の棚を一段深くし、浅い谷を三つ。白が道を、紅が温度を。

  海人が縄を二度叩き、同じ間で“止まる”を通す。

  ディランは角を曲がる列の肩を手で押して、曲線を直線に戻した。

  タイは石の継ぎ目の“楽な道”を先に潰し、門柱の根へ木肌を当てて押し返す。

  底の鳴りは引いた。

  こはるの掌に、石の温度が戻る。

  ダルセが短く頷き、浅い谷を二つ、続けて落とす。

  その一息の安堵を、黒い影が奪いに来た。

  門外、干いていたはずの石畳の上に、一本の“筋”が走った。灰ではない。夜でもない。無色の腹を持ち、光を拒まないのに熱を奪う筋。

  筋は門扉の継ぎに寄り、舌になろうとして形を変える。

 「押す」海人。

  タイの木柄が横から噛み、ディランが門の角で進路を落とす。

  こはるは胸で浅い谷を増やし、喉に上がりかけた“昔の名”に布を被せる。

  呼びがほどけ、筋は粉に崩れた。

  王太子の声が綱の上から落ちる。「鐘、変えず。長い谷、二度」

  鐘楼が応え、拍が城の腹を揺らす。

  列の前に幼い子を抱いた女がいて、布を口に当てたまま目で“どうすれば”を尋ねてきた。

  こはるは女の視線と同じ高さに腰を落とし、布の折り目を一度だけ整えてやる。「ここで止まる。次で渡す」

  女は頷き、布の香りを吸った。子の泣きは形を保ったまま細くなり、喉が通る。

  大潮門が、ほんとうに鳴った。

  内側へではない。外へ。

  門扉がわずかに押し出され、蝶番が音を立てずに限界を思い出す。

  海人が短く息を吸い、「方舟、受けろ」

  方舟が門口へ半身差し込まれ、城中庭の舟と同じ“胸骨”を作る。

  ディランが兵の列を二段に割り、角度を半度落とした。

  ダルセの浅い谷が切れず、ケイトリンが香草布を配り、タイが木柄で門柱の根を押し返す。

  こはるは胸で浅い谷を三つ連ね、白と紅のあいだに薄い棚を挟んだ。

  波――いや、波になろうとした“鳴り”が、門の外で崩れた。

  石は濡れない。けれど、濡れたはずの形で光った。

  人の肩が揃い、列は方舟の胸骨に沿って城内へ吸い込まれる。

  そのとき、門楼の上で角笛が短く二度。

  城壁沿いの小路で荷車の軸が折れ、列の一部が逃げ道に見えた狭い通りへ流れかける。

  海人が走らないままそこへ向かい、縄を欄干のように張って二度叩く。

  こはるも歩いて追い、先頭の男の腕に掌を置いた。冷たい。けれど、指の節は道を覚えている。

 「ここは引かない。次で渡す」

  男は頷き、角で止まる。

  ディランが旗を半度落とす。

  タイが狭い通りの“楽な道”を木柄で潰し、表の拍へ人を戻す。

  ダルセの浅い谷が二つ、空に落ち、ケイトリンの甘い滴が喉を通す。

  列は戻った。

  大潮門の前に、短い静けさ。

  こはるは石段に掌を置き、胸の棚で白と紅を並べ直した。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  空が低くなった。

  南東の外輪が、今度ははっきりと身じろぎをする。港の糸が揺れ、王都の屋根の影が一枚濃くなる。

  王太子が綱を引き、鐘が深い谷を落とす。二度の音が石壁を震わせる。

  海人が門口で叫ばずに言う。「最後の一群、方舟へ。——兵は門前に半月」

  ディランが陣を敷き、角度を切る。

  タイは木柄を肩に担ぎ直し、門扉の蝶番の根をもう一度押す。

  ケイトリンは甘い滴をこはるの舌へ落とし、「喉を通す」とだけ言う。

  ダルセは竪琴に掌を伏せ、浅い谷を切らさない。

  黒でも白でもない“輪郭”が、門外で二つ、同時に結ばれた。

  呼び名は来ない。けれど、昔の名の形が喉の裏で同じ間で揺れる。

  こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅のあいだにもう一枚、薄い棚を挟む。

  海人が縄を二度叩く。

  タイの木柄が輪の腹を押し、ディランが門の角で進路を外へ返す。

  輪は空を噛んで崩れ、粉に散る。

  方舟が最後の群れを呑み、城の腹へ送り込んだ。

  大潮門の前に、人影はほとんど残らない。

  門扉が内から外へ、外から内へ――呼吸をやめない。

  王太子が綱を離し、馬から降りて門前に立った。

 「ここまで、保った」

  海人が頷く。「次は門そのものが“鳴る”。……受けるものを、受ける準備」

  王太子は笑わずに笑い、剣の柄へ手を触れもしないまま、一歩だけ前に出た。「鳴らせ」

  鐘が深い谷を落とし、二度の音が大潮門の石へ吸い込まれる。

  こはるは袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りで指を落ち着かせた。灯台の夜、港の橋、舟の胸骨――全部が胸の棚に並び、浅い谷でひとつに重なる。

 (返しに行く。奪われた二つを。——この門を渡って、私が)

  空がさらに低くなる。

  海は、息を止める。

 空はさらに低くなり、色という約束を忘れた。城壁の影が広場を半月に切り取り、大潮門は内から外へ、外から内へ、音もなく息を続けた。南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は深い谷、二度――間は乱れない。けれど、海は確かに、次の一息を溜めている。

  こはるは石段の下段に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷を二つ。喉が道を覚え、膝の筋が静かな角度を保つ。灯台の火、港の橋、方舟の胸骨――全部が小さく背で支えてくれる。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  海人が門柱の継ぎ目を一瞥し、声を落とした。「門が“呼ばれる”。扉で受けず、石で受ける。——刃は使わない」

  ディランは兵の半月陣を一歩後ろへ引き、旗の角度を半度落とす。「曲がる前に止まる。二短は変えない」

  タイは木柄の布を締め直し、蝶番の根を親指で探る。木が石に触れると、音は出ないが“返し”の硬さが掌に返る。

  ダルセは門楼の陰で竪琴を胸に抱え、弦に触れず空へ浅い谷を吊るした。谷は切れない。夜の底で拾ってきた一定を、昼の白い沈黙の中に据え直す。

  ケイトリンは甘い滴をこはるの舌へ落とし、「喉を通す」とだけ告げる。こはるは小さく頷き、白と紅のあいだに薄い棚を挟んだ。

  第一の押しが来た。

  門扉ではなく、礎石の横腹。巨大な獣が視界の外で体勢を変え、鼻息だけが壁の下を探るような圧。石は濡れない。けれど、濡れたはずの形で重さを思い出す。

  海人が縄を二度、同じ間で叩く。

  ディランは半月陣の左肩を半歩落とし、角度を広げる。

  タイが蝶番の根を木柄で押し、返しの硬さを“こちら側”の形に保つ。

  ダルセの浅い谷が二つ、同じ間で降り、こはるの胸で紅が灯を受け、白が通路を示す。

  押しは引いた。残ったのは、呼び。

  昔の名の形が喉の裏で薄く揺れ、視界の端に色のない輪が生まれかける。

  ケイトリンが香草布を兵の口元へ押し当て、「返事はしない」と目で渡す。

  こはるは胸で浅い谷をもう一つ置き、“名の形”の上に薄布をかけるように息を通す。

  第二の押し。

  今度は門扉そのものが、外へ向かって微かに膨らんだ。木の繊維が中と外を往復し、蝶番が声にならない低音で喉を鳴らす。

  海人が短く言う。「方舟、胸骨」

  城側の口から舟首が半身差し込まれ、扉の内側で“受け”の形を作る。索が低く鳴り、舟腹が石の呼吸に肩を合わせる。

  ディランが兵の右肩を半歩だけ押し出し、半月の曲面を扉へ寄せ直した。

  タイは蝶番の根に木肌を当て、押すでも引くでもない“戻す”の圧を与える。

  こはるは階段の一段上に膝を移し、白と紅の間の棚を深める。谷は浅い。だが切れない。

  扉は戻った。蝶番の喉は沈黙を飲み込み、石の足がわずかに落ち着く。

  鐘が深い谷を落とし、二度の音が城の腹を撫でた。

  広場の端で、列の一部が揺れた。狭い裏路地が逃げ道に見え、肩がそちらへ傾く。

  ダルセが両手を上げ、空に浅い谷を三つ置く。

  こはるはその谷の底に自分の息を滑らせ、先頭の男の袖を指で軽く弾いた。「ここで止まる。次で渡す」

  男は目で頷き、足を戻した。

  ディランが旗を半度落とし、角笛の二短が路地の口を“止まる”に変える。

  タイは路地の敷石の“楽な道”を木柄で潰し、表の通路へ視線を戻す。

  第三の押しは、門の下から来た。

  塞いだはずの古い水路が、石の喉の奥で息を吸い、吐こうとしている。

  ケイトリンが合図を待たずに、工兵に砂袋の列を作らせた。「継ぎ目の上だけ。口は塞がない。息を迷わせない」

  海人が縄を二度叩き、通路の幅を半歩だけ狭める。

  こはるは膝を折り、石へ掌を密着させた。白が道を狭め、紅が温度を守る。浅い谷を三つ、同じ間で連ねる。

  底の鳴りは長くは続かなかった。息は谷の底で一度止まり、布の下で形を失って石へ戻る。

  その小さな安堵を裂くように、門外の白い地面に“線”が入った。

  黒でも灰でもない。無色の腹を持ち、光を拒まないのに熱を奪う線。

  線は門柱の根へ寄り、舌に形を変えようとする。

 「押す」海人。

  タイの木柄が横から噛み、ディランが門柱の角で進路を外へ送る。

  ダルセの浅い谷が切れず、ケイトリンの布が“名の形”を覆う。

  こはるは胸で棚を一段深くし、白と紅のあいだにさらに薄い棚を挟んだ。(渡さない)

  線は粉に崩れた。

  空がいよいよ低くなる。遠い沖の灰が背骨を折り曲げ、そのまま王都の方角へ静かに体重を移す。

  王太子が綱を握り直し、鐘楼へ目だけを投げた。

 「鐘、変えず。長い谷、二度」

  鐘が応じ、広場の肩がいっせいに落ちる。

  方舟の舳先に老人の小舟が横付けした。

 「腹の鳴りは、長くは続かない。——だが、最後は深い」

  海人が短く笑わない笑いを返す。「その深さを、舟で噛む」

  老人は結び目を軽く叩き、舳先を引いた。「短く、強く。間は長く」

  最後の“鳴り”が来た。

  音ではなく、形でもなく、重さだけが空から降り、地から上がり、門の左右から内へ寄ってくる。

  門扉が膨らむ。蝶番が声にならない声で喉を張り、礎石の横腹が一枚、外へ滑る。

  海人が縄を二度叩き、「舟、胸骨」と短く言う。

  方舟が門口いっぱいに肩を差し入れ、索が高く鳴った。

  ディランが半月陣の曲面を扉に寄せ、左肩で角度を受ける。

  タイは蝶番の根を木肌で押し、右肩で礎の滑りを“戻す”。

  ケイトリンが兵の喉へ布を当て、「返事はしない」を繰り返す。

  ダルセの浅い谷が四つ、切れずに続く。

  こはるは胸で白と紅を並べ、薄い棚をもう一枚挟んだ。谷は浅い。だが底がある。

  呼びが喉の裏で“名”になろうとして、ならない。

  扉の膨らみが“割れ”になろうとして、割れない。

  礎石の滑りが“崩れ”になろうとして、崩れない。

  門は――保った。

  重さがほどけ、空がひとつ息を吐く。

  鐘が深い谷を落とし、二度の音が城の腹と広場の石を優しく叩いた。

  半月陣の肩が揃い、方舟は索を一度だけ緩める。

  石段の端で、幼い子が母の肩越しに門を見ていた。目は濡れていない。喉の道が通っている。

  こはるは膝を折り、布の折り目を指でそっと整えた。「ここで止まる。次で渡す」

  子は真似をして布を折り、うなずいた。

  王太子が門前へ降り、手袋越しに石へ触れた。「よく受けた」

  海人は息を吐く。「灯は二つ。道は太い。——ここから先は、“返し”に出る準備を始めたい」

  王太子は顔を上げ、こはるへ視線を置く。「奪われた二つを、返しに行くのだな」

  こはるは頷き、袋の結び目を二度確かめた。煤の手触り。灯台の夜、港の橋、方舟の胸骨。全部が、胸の棚で静かな重さになっている。

 「返します。私の“間”で」

  広場の端から、港の方角へ薄い湿り気が届いた。石段の二段目の縁を、透明な線がかすめる。

  海が、息を再開した。

  王都の影は短くならないまま、薄金を帯びた。

  人の足は走らない。旗は半度落ち、角を曲がる前に一度止まる。鐘は深い谷、二度。

  ――そして、大潮門の前で一日が結ばれた。

  夕刻、作戦室。地図の上に白線が一本増え、大潮門から城中庭の舟へ、そして港の橋へと、太い“道”が繋がった。

  老参謀が潮の札をめくる。「明けと夕の間、柔い。夜半、巣は身じろぎ。——だが今夜の“押し”は、さきほどで極」

  海人が頷く。「なら、明けの二刻で外へ。沖の筋を太らせ、奪われた二つへ道を戻す」

  ディランは旗の図に“外”の印を足し、角笛の合図に一つ新しい間を加えた。

  タイは地図の影を親指で押し、“楽な道”を先に潰す赤印を海側へ移す。

  ケイトリンは配布所に“舟の外”を増やし、温石の数をもう一段上げる。

  ダルセは鐘楼係に目だけで合図し、谷の太さを半目盛り保つ。

  王太子は最後にこはるへ言葉を落とした。「名は君のものだ。——渡すな」

 「渡しません」こはるは静かに答え、胸の棚で白と紅を並べ直した。

  窓外。南と東の灯は細いまま高い。港の上で舟の板が夕の光を返し、大潮門は呼吸を穏やかに続ける。

  走らない街が、戻る鐘の間に呼吸を合わせる。

 (返しに行く。奪われた二つを。私の“間”で。——次は、外へ)



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