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第20章_絆の方舟

 王都の港は広い。水が薄く、底石の目がところどころ陽を返す。大橋は市壁の影から海へ半月のように伸び、橋脚の根元は頼りなく息を潜めていた。南と東の灯は糸のまま高い。戻る鐘は、深い谷のあと二度――間は乱れない。

  こはるは大橋の手前で立ち止まり、欄干に掌を置いた。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ置く。川と違って、ここには潮の呼吸が残っている。息を伸ばせば、遠くの薄金が喉の奥でかすかに鳴る。

 「ここに“舟”を置く」海人が橋の全景を一度だけ見渡し、短く決めた。「橋脚が座り直すまで、渡す道を切らさない。走らせない」

  ディランが橋の両端と中央に“舟係”の位置を打ち、旗の角度を兵に見せる。「半度落とす。曲がる前に止まる。舟へ乗る時は一列、降りる時は二列」

  タイは木柄を肩に担ぎ、橋板の節と石の継ぎ目を親指で撫でていく。“楽な道”になりそうな隙を先に潰し、角を丸める。

  ダルセは竪琴を背に、鐘楼へ視線を送った。指で空へ浅い谷を吊るす。「戻る鐘は変えない。長い谷のあと二度。ここでは“舟の息”と合わせる」

  ケイトリンは薬包と温石の置き場を橋詰と舟着きに分け、「甘いのは陸、苦いのは舟」と手短に決めた。喉を通す道具は手前、恐れを鎮める滴は舟の中央。

  方舟は中庭から二艘運ばれ、港の大橋下と東側の舟着きに据えられた。索は二重、結び目は小さく、解けにくい。

  老人の小舟が横につき、縄の結びを手際よく改める。

 「潮の声はここで折れる。結びは短く、間は長く」

  海人が頷き、結び目を同じ形に揃えた。「借りる」

 「返さなくていい。こういう結びは、見て覚えてくれりゃ残る」老人は笑わずに笑い、舳先を灯の方角へ向けた。

  人の列が動き始める。荷車は港内側で待たせ、歩きの列を先に通す。旗は半度落ち、角を曲がる前で一度止まる。

  こはるは舟着きに立ち、子を抱えた女へ香草布を渡した。「乗る前に吸って、降りるまで返事はしない」

  女は強く頷き、布の折り目を真似て畳む。足は速くならない。舟の板に乗るときだけ、少し深く息を落とす。

  最初の往復は静かだった。舟の腹が水を押し、索が短く鳴り、降りる足と乗る足がぶつからない。

  二度目の往復で、外海から灰が紙一枚ぶん太り、橋脚の影が濃くなる。輪はまだ形にならない。代わりに、“呼び”が浅く混ざる。

  ダルセの浅い谷が舟の動きと合い、鐘の二度が港の腹へ落ちる。

  タイは舟着き脇の石の継ぎ目を木柄で撫で、“楽な道”を先に潰していく。

  ディランは旗の角度を半度落とし、渡り口の列を二歩だけ短く進ませる。

  そのとき、東の防波の角で板が一枚、湿った音を立てて浮いた。潮が浅い背で弱く押す。

  海人が短く言う。「押さえる。走らせない」

  ディランが兵二名をそこへ立たせ、角を曲がる前に合図を強めた。

  こはるは胸の棚で浅い谷を一つ増やし、舟着きの人々の喉へ道を置く。呼び名は来ない。けれど、懐かしさの形をした冷えが布の上で薄まる。

  三度目の往復。舟が戻る直前、橋脚の陰で黒でも白でもない輪郭がひとつ、細く結ばれた。

 「押す」海人の声に、タイの木柄が横から滑り込み、輪の腹をやわらかく押し、ディランが石の角で進路を外へ送る。

  輪は空を噛んで崩れ、水に溶けた。舟は止まらず、戻る鐘の二度へ歩幅を合わせて着いた。

  舟が人を降ろす間、こはるの耳に、誰かの呼吸の乱れが乗った。舟べりで片膝をついた若い荷運びだ。喉が固く、目が速い。

  ケイトリンが一歩で寄り、甘い滴を舌へ落とす。「飲み込んで、目を閉じる」

  こはるは舟の縁に掌を置き、胸で浅い谷を示した。若者は目を閉じ、布の匂いをひとつ吸う。肩が少し落ちる。

 「行けます」

  返事は小さい。けれど、舌の位置は迷っていない。海人が舟べりを支え、若者は列へ戻った。

  午下がり、薄金の帯が港の外に長く伸びた。南東の外輪が身じろぎし、橋脚の影がまた濃くなる。

  その瞬間、防波の裏手で“抜け”が開いた。乾いた石の継ぎ目が呼吸し、細い指が港の内へ伸びる。

  こはるは走らない。自分の膝で止まり、胸の棚に浅い谷を二つ続けて置く。白が道を、紅が温度を。

  タイは木柄で継ぎ目を撫で、“楽な道”を先に潰す。

  ディランが旗を半度落とし、列の角を一度だけ変えて“抜け”から視線を外す。

  ダルセが舟の上で三つ、浅い谷を同じ間で連ねる。

  海人は「舟、寄せ」と短く言い、方舟を抜け口の前に半身重ねた。木肌が冷えを呑み、抜けは輪にならずに沈んだ。

  小さな勝ち。

  列は戻り、舟は息を保つ。鐘が深い谷を落とし、二度の音が港の腹へ届く。

  老人が舳先で眺め、鼻で短く笑った。「楽な道が減った」

 「減らし続ける」海人は答え、結び目を一つ締め直した。

  夕刻、橋の中央で荷車の車軸がふたたび沈んだ。今度は片側でなく、前脚。荷台の上から樽が転げかける。

  ダルセの長い谷が落ち、人の足が一度だけ止まる。

  ディランが駆け、肩で荷台を支え、海人が樽の転がりを手で止める。

  タイは軸の下へ木柄を差し、体重をかけて押し上げる。

  こはるは樽の結び目を歯で噛んで小さく結び直し、香草布を樽の口へ押し当てる。匂いが甘く、喉の道を思い出させる。

  樽は落ちない。車体は戻る。列は乱れない。

  その直後だ。

  港外で灰が一筋、はっきり太った。灯の糸が風に揺れ、方舟の索が高く鳴る。

  橋脚の陰で輪が二つ、同時に結ばれた。舌のような細さではない。角度が確かで、喉の裏へ“昔の名”を持ってくる力が強い。

  ケイトリンが舟の中央で人々の口元に香草布を配り、「返事はしない」と短く繰り返す。

  ダルセは竪琴を胸に抱き、弦に触れずに三拍、浅い谷を同じ間で落とす。

  海人が「舟、半身出す」と言い、方舟が橋脚から肩を出す。

  タイの木柄が片方の輪の腹を押し、ディランが欄干の角で進路を外へ送る。

  こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅の間に薄い棚を挟んだ。呼び名が喉に上がりかけ、布の下で形を失う。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  輪は舟の木肌に触れて痩せ、もう一つは橋板の節に押されてほどけた。

  夕陽が水面で欠け、港の影が長く伸びる。人の列は短くなり、最後尾が橋詰にかかる。

  海人が息を吐き、欄干を二度、同じ間で叩く。「最後まで、同じ間で」

  ディランが旗を半度落とし、兵の肩が揃う。

  タイは木柄を肩に担ぎ直し、継ぎ目を最後にもう一度撫でた。

  ケイトリンは甘い滴を数える。夜に残すぶんを決める。

  ダルセは舟の上から、浅い谷を二つ、落とす。

  こはるは胸の棚で白と紅を並べ、浅い谷を置いた。

  港の一日が、戻る鐘の二度の音で閉じた。

  灯は二本、南と東に高い。港の大橋は渡り切られ、方舟は索を緩めて浅い息を保つ。

  夜の手前、老人が舳先で言った。

 「腹は、少し満ちたな」

  海人は頷いた。「こっちの話だ」

  こはるは微笑まず、息を少しだけ長くした。胸の紅が小さく灯り、白がその灯を囲う。

 (道は太る。舟は絆で進む。——明けにも、渡す)

 夜の入口で風が一段冷え、港の大橋の影が水面に長く敷かれた。方舟は索を緩め、舟腹が浅く息をした。南と東の灯は糸のまま高く、戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れない。

  こはるは舟着きの縁に立ち、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷をひとつ置く。舟の動きと人の歩幅が同じ間で合うように、喉の道を薄く広げる。

  海人が橋の中央で足を止め、港外の薄金を一度吸い込んだ。「夜は“呼び”が混ざる。舟は列を崩さない。——走らせない」

  ディランは交代の兵へ旗の角度をもう一度示し、曲がる前の“止まる”を二短で揃えた。「半度落とす。舟へ乗る前に一呼吸」

  タイは木柄の布を締め直し、舟着き脇の石の継ぎ目を親指で押し、“楽な道”を先に潰す。

  ダルセは舟の鼻に腰をかけ、弦に触れずに浅い谷を連ねた。夜は深い谷へ落ちやすい。浅く、切らさず、続ける。

  ケイトリンは薬包を並べ替え、甘い滴を火の手前、苦い舌薬を舟の中央へ寄せる。「喉を通す。返事はしない。息で返す」

  最初の渡り。舟は音を立てずに岸を離れ、板の上で人の足が揺れない。戻る鐘の二度が港の腹へ落ち、列はその音を拾って進む。

  こはるは舟べりに掌を置き、胸の棚で浅い谷を二つつづけて置いた。白が道を、紅が温度を保つ。

  二度目の渡り。港外の灰が紙一枚ぶん太り、橋脚の陰に濃い影が生まれる。呼び名は来ない。舌の形だけが、喉の裏でうすく揺れる。

  ダルセの浅い谷が切れず、兵の足が同じ間で地を踏む。

  タイの木柄が影の根を柔らかく押し、ディランが欄干の角で進路を外へ滑らせる。

  輪は結ばれず、粉のように散った。舟は止まらない。

  三度目。舟が戻る直前、舟着き脇で板が湿った音を立てた。石の下の空洞が一瞬だけ息を吸い、板の沈みが半歩ぶん深くなる。

  海人が短く言う。「押さえる。走らせない」

  ディランが旗の角度を半度落とし、列を二歩止める。

  ケイトリンが子のいる家族へ香草布を手渡し、鼻口へ押し当てさせる。

  こはるは胸で浅い谷を増やし、舟着き全体に“息を落とす場所”を広げた。

  タイは木柄で板の継ぎ目を撫で、“楽な道”の腰を先に落とす。沈みは止まり、板は元の高さを思い出した。

  小さな勝ち。舟は再び岸を離れ、港の腹を行き来する。索は鳴らず、灯はゆれるだけ。

  そのころ、倉庫群から伝令が来た。額に汗、声は走らない。

 「北の倉で縄がほどけ、樽が転がりかけ。輪はない。——人が詰まる前に“舟”を貸してほしい」

  海人は迷わなかった。「東の舟を半刻、貸す。橋の列は歩きに切り替え。荷は止める」

  ディランが兵二名を連れて倉庫へ走り、旗の角度と二短を“倉の間”へ合わせる。

  ダルセは舟の浅い谷を二つだけ残して、もう一艘に乗り換えた。「谷は持っていく」

  タイは木柄を肩に担ぎ、倉の床の節を押しに向かう。

  こはるは舟着きの列を見渡し、浅い谷を一つ深くした。(抜くのではなく、渡す。——今は息の道を守る)

  半刻後、樽は転がらず、倉の“間”は崩れなかったと伝令が戻る。舟は所定に返り、港の拍は再び一本で通りはじめる。

  老人が小舟の上から結び目を指で叩き、短く言った。「返すものは覚えたとおりに返せばいい」

  海人が頷く。「覚えた。——返す」

  夜半。外海の灰が遠くで寝返り、港内の影が一枚だけ濃くなる。

  橋脚の陰で輪がひとつ、確かな角度で結ばれた。呼び名は来ない。ただ、懐かしさの形が喉の裏をたしかに通る。

  海人が欄干を二度、同じ間で叩く。

  ダルセが浅い谷を三つ、同じ間で落とす。

  ケイトリンは舟の中央で香草布を配り、目を閉じさせる。

  タイの木柄が輪の腹を押し、ディランが石の角で進路を外へ送る。

  こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅の間に薄い棚を挟んだ。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  輪は舟の木肌に触れて痩せ、流れへ溶けた。

  静けさが戻る。灯は糸のまま。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が港の腹を撫でた。

  短い休息に、こはるは舟着きの影で膝を折り、袋の結び目を二度確かめた。煤の手触りが掌へ薄く移る。

  海人が隣に座り、結びの端を歯でわずかに締める。「外で覚えた結びでも、ここで役に立つ」

 「役に立つのが、嬉しい?」

 「嬉しい」

  それ以上の言葉は要らなかった。息が同じ間で落ちる。胸の棚で紅が灯り、白が道を囲う。

  明けに近い刻、港外の灰が細くほどけた。潮の匂いは薄いが、風の端がわずかに湿る。

  老人が小舟で寄ってきて、舳先で言う。

 「腹の“鳴り”が小さくなった。——灯の側の話だ」

  海人は短く笑った。「こっちも少し、満ちた」

  こはるは微笑まず、息を長くした。(道は太る。舟は絆で進む)

  最後の渡り。方舟は橋脚の影から半身出て、列の終わりを受け取る。

  ディランが旗を半度落とし、角を曲がる前に一度止める。

 タイは木柄で継ぎ目を最後に撫で、楽な道を置かない。

  ケイトリンは甘い滴を一つ、こはるの舌へ落とした。「夜は終わる。喉を通す」

  ダルセが舟の鼻で浅い谷を二つ、同じ間で落とす。

  こはるは胸の棚で白と紅を並べ、浅い谷を置いた。

  渡り切った。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が城壁へ返る。

  港の大橋は夜を越え、方舟は索を緩めた。

  朝の金が水面に差し、王都の塔の影が短くなる。

  王宮作戦室。地図の港の上に白線が一本増え、南と東の灯を結ぶ線が太くなった。

  王太子が短く頷き、指を地図から離す。「港は渡った。倉は保った。——“道”は通る」

  海人が息をひとつ吐く。「次は、沖の“筋”を太らせたい。……灯の間を繋ぐ“細工”が要る」

  老参謀が潮の札を捲り、明けと夕の柔い刻を示した。

  ディランは旗の印に“舟の息”を加え、角を曲がる印を一つ増やす。

  タイは地図の影を親指で押し、楽な道を先に潰す印を赤で置いた。

  ケイトリンは配布所の位置を二カ所増やし、温石を倍に。

  ダルセは鐘楼係に指で“谷の太さ”を半目盛り上げる仕草を見せる。

  こはるは地図の端で、胸の棚に浅い谷を置いた。(ここまで来た。——返しに行く道は、もう見えている)

  窓外。南と東の灯は細いまま高く、港の上では、舟の板が朝の光を返す。

  王都は眠らない夜を越え、走らない朝を迎えた。



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