第19章_剣と歌の橋
朝の一番淡い金が城壁の縁を撫で、王都大橋の石が白く息を吐いた。川はまだ浅く、橋脚の根元が露わになっている。方舟は橋の下で索に繋がれ、舟腹にうっすらと夜露をまとっていた。
こはるは欄干に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷をひとつ置く。息は遠くへ伸び、喉が道を覚える。昨夜塞いだ井戸の布は静かだ。南と東の灯は細く高い。戻る鐘は、深い谷のあと二度――間は乱れない。
海人が橋の中央で足を止め、川の匂いを一度吸い込んだ。「今日、ここを“道”にする。人と物の行き来を戻す。輪が嗅ぎつけても、通さない」
ディランは橋の両端に兵を立て、旗の角度を示した。「半度落とす。曲がる前に一度止まる。角笛は二短。走らない」
タイは木柄の布を締め、刃へは触れない。橋板のつなぎ目を親指で撫で、“楽な道”を探して先に潰していく。
ダルセは橋のほぼ中央、欄干に腰を預け、竪琴を膝に置いた。弦には触れない。指で空へ浅い谷を吊るし、風の間と揃える。
ケイトリンは薬包を箱ごと橋詰に並べ、甘いものを手前、苦いものを奥に置く。「喉は通す。返事はしない。息で返す」
朝の列が動き出す。荷車は二の列、歩きは三の列。橋の手前で一度止まり、旗の角度が落ちたら、一歩、二歩と渡す。
こはるは列の横に立ち、赤子を抱いた女に香草布を差し出した。女は布を鼻へ当て、肩の力が少し落ちる。赤子の泣きは形を保ったまま細くなり、喉の道が通る音が聞こえた。
最初の一刻は静かだった。方舟は橋下で浅い息を保ち、橋脚の影には黒でも白でもない気配が寄らない。
二刻目、南東の外輪が遠くで身じろぎをし、風が半歩だけ冷える。橋板の節がきしみ、欄干の石が低く鳴った。
タイが木柄で橋板の節を押し、“楽な道”になりそうな隙を先に潰す。「ここ、噛みやすい。押す」
ディランが角度を切り、列の歩幅を半分だけ崩してから、再び揃えた。乱さず、止めすぎず。
こはるは胸で浅い谷を二つ続けて置く。白が道を指し、紅が温度を保つ。
その時だ。
橋の中央、石と石の継ぎ目に、舌のような細い影がにじんだ。名は呼ばない。拍の“間”だけを探す指先。
ダルセが弦へ触れずに空の谷を一つだけ深くし、音のない歌で人の足を止めずに間を合わせる。
タイの木柄が横から滑り込み、影の根を押し潰す。
ディランは刃を抜かず、肩で角度を外へ落とす。
こはるは欄干に掌を置き、浅い谷をもう一つ増やした。呼び名は来ない。寒さが喉の裏で躊躇って、退く。
輪は生まれない。影はほどけ、粉のように石の目へ散った。列は乱れない。
海人が短く言う。「方舟、位置そのまま。——次が来る」
三刻目。太陽は高いが、川はまだ浅い。橋の下で水の筋が細く重なり、影が一枚、濃くなる。
黒でも白でもない輪郭が橋脚の陰で結ばれ、今度は輪になろうとする。
ダルセの指が空へ長い谷を一つ。
こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅の間に浅い棚を置いた。
タイが木柄で輪の横腹を押し、ディランが橋脚の角で進路を外へ滑らせる。
輪は空を噛んで崩れ、橋の下の流れへ溶けた。
こはるの耳に、列の端で息の詰まった音。幼い声が布の下でうなり、母親の目が焦点を探して揺れる。
ケイトリンがすぐに歩み寄り、甘い滴を舌に落とす。「喉は通る。返事はしない」
ダルセがその足元へ浅い谷を置き、母親の歩幅が戻る。
こはるは短く息を合わせ、列の横を歩いた。
昼時、橋詰に干し肉と固い饅が届いた。兵も市人もそこへ群れない。旗の角度が落ちた時だけ、少しずつ手が伸びる。
海人はわずかな休みも地図の上で使い、南と東の灯の線を頭の中で王都の通りと繋いだ。「ここは太る。ここは痩せる。——太らせる」
ディランは交代の合図を一段早め、角笛の二短で“止まる”を通す。
タイは橋板の節をもう一巡り撫で、木目の向きと足の流れを合わせていく。
ダルセは竪琴の胴を掌で軽く叩き、音にしない拍を橋全体に薄く回した。
ケイトリンは薬包の列の向きを半歩だけ変え、列の影に“座る場所”を増やす。座ることは止まることではない。息を通すための場所。
午後、風が南から西へまわる。外海で灰が一筋太り、巣が寝返りを打つ。
橋の上で、兵の若者が旗を握る手をほんの少しだけ高く上げた。合図は乱れない。
その瞬間、橋脚の陰から輪が細く現れ、欄干の影を這って中央へ。
海人が短く言う。「押す」
タイの木柄が横から噛み、ディランが足の角度で輪を外へ送る。
こはるは胸で浅い谷を置き、白の拍を棚の上へ、紅を棚の内へ座らせる。
輪はほどけ、橋下へ落ちる。
夕刻に入る。戻る鐘の谷が、城壁から川面へ落ちる。二度の音で足が揃う。
老人が舟べりにつかまり、顔だけ出して橋の上を見上げた。
「灯は見えてる。——拍は揃ってる」
海人が頷く。「揃え続ける」
老人は笑わずに笑い、舟べりから手を離した。
そのとき、橋の東端で荷車の車輪が軸から外れ、片側が膝をついたように沈んだ。列が波打ち、声が上ずる。
ダルセの長い谷。空気がひとつ、腰を下ろす。
ディランが駆け、車輪の根を肩で持ち上げ、角度を元の線へ戻す。
タイが木柄で下から押し、軸の穴に棒を通して体重をかける。
海人は旗の若者の背を軽く叩き、合図を二短で通させる。
こはるは荷台の上の布を押さえていた少女と目を合わせ、香草布を差し出した。「息で返す」
少女は頷き、布の折り目を真似して畳み、母親の鼻へ当てる。母親の肩が落ちる。
日が沈む。橋の石が冷え、川風が半歩だけ鋭い。
最後の列が渡り終える直前、橋脚の陰で輪が一度だけ結ばれた。
呼び名はない。けれど、ひどく正確な角度。
ダルセが浅い谷を三つ、短く連ねる。
こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅の間にもう一つ棚を挟む。
タイの木柄が輪の腹を押し、ディランは欄干の角で進路を外へ送る。
海人が「方舟、上げろ」と短く言い、舟が橋脚の影から半身を出す。
輪は舟腹の木肌に触れて痩せ、流れの中でほどけた。
橋は保たれた。
戻る鐘の谷がふたたび深く落ち、二度の音が川面へ揺れる。
人の足が止まり、次の一歩が揃う。
こはるは欄干に掌を置き、胸の棚で白と紅を並べ直した。
(ここは、歌と剣の橋。押す手と止める息で渡る橋)
目を上げると、ダルセが竪琴を抱えたままこちらを見ていた。
「歌は音にならなくても、橋を渡す」
こはるは頷く。「剣は切らなくても、角度を戻す」
ダルセは笑い、弦の上に掌をそっと伏せた。
夜が来る。南と東の灯は糸のまま。
王都の空は薄い雲を抱き、潮の匂いは少しだけ濃い。
海人が欄干を二度叩き、間を示した。「明けの前に、もう一度ここを通す。……その次は港の大橋だ」
ディランが頷く。旗の角度は頭に入っている。
タイは木柄の布を締め、橋板の節を最後にもう一度撫でた。
ケイトリンは甘い薬を少しだけ残し、苦い舌薬の瓶を夜番に渡す。
こはるは胸の棚を一段深くし、浅い谷を置いた。(道は太る。橋は、渡れる)
夜の始まりに、川風が一段冷えた。王都大橋の石は白く、方舟の索がきしみを一度だけ鳴らして黙る。南と東の灯は糸のまま高く、戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れない。
こはるは欄干に掌を置き、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷を一つ置く。息は遠くへ伸び、喉が道を覚える。昼の列は渡り切った。これからは夜番の橋を守る番だ。
海人が橋の中央で足を止め、川面を見下ろした。「夜は“呼ぶ”が混ざる。……音のない呼びだ。走らせない」
ディランは交代の兵へ旗の角度をもう一度示し、角笛の二短を同じ間で吹かせて確かめる。「半度落とす。曲がる前に一度止まる」
タイは木柄の布を締め直し、橋板の節を親指で押さえて“楽な道”になりそうな隙を先に潰す。
ダルセは竪琴の弦に触れず、空へ浅い谷を吊った。夜は深い谷に人の足が落ちやすい。浅く、切らさず、連ねる。
ケイトリンは薬包の箱の並びを夜向けに入れ替え、苦い舌薬を一段手前へ、甘い滴を火のそばへ寄せる。「喉を通すのが先。返事はしないで、息で返す」
最初の変化は目に見えないところから来た。川の音が半拍遅れ、欄干の影が紙一枚ぶんだけ濃くなる。橋脚の根元で、黒でも白でもない輪郭が細い指のように撓んだ。
こはるは胸で浅い谷を二つ続けて置き、白の拍で道を示し、紅の拍で橋の“温度”を守る。呼び名はない。けれど、喉の裏にわずかな冷え。
「押す」海人の声に合わせ、タイの木柄が影の根を横から柔らかく叩く。
ディランは刃を抜かず、肩で角度を切って欄干の角に当て、輪の進路を外へ送った。
ダルセの浅い谷が切れずに続き、兵の足が同じ間で地を踏む。影はほどけ、橋脚の陰で粉のように散った。
静けさが戻る。だが、短い。
川下の方舟の索が二度、低く鳴った。舟腹が流れに押されて半身を見せ、橋脚の影が揺れる。
「舟はそのまま」海人が短く言い、索の結びを目で確かめる。「緩めない、強めない」
こはるは舟の位置に胸の拍を合わせるように、棚を一段深くして呼吸を沈めた。浅い谷の底で、紅が灯を保ち、白が線を引く。
そのとき、呼びがきた。
音ではない。吊られた灯の炎が一度だけ内側へ吸われ、人の記憶のどこかにある名前が喉の手前で形になりかける。
ダルセは指を高く上げ、空へ浅い谷を三つ連ねた。
ケイトリンが兵の口元へ香草布を押し当て、「返事はしない」と低く告げる。
ディランは角笛を腰から抜かせず、旗の角度だけで“止まる”を通した。
タイが橋板の節を二度、一定で叩く。
こはるは胸で谷を一つ増やし、喉へ上がりかけた“名前”の形に薄い布を被せて通した。(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
橋の中央で、影が輪になりかけた。
海人が欄干を二度、同じ間で叩く。
タイの木柄が輪の横腹を押し、ディランが橋脚の角で進路を外へ戻す。
輪は空を噛んで崩れ、川の筋に溶けた。
短い安堵。すぐに次。
橋東のたもと、飾り柱の根元に小さな“抜け”が開いた。乾いた石の継ぎ目が呼吸をする。
こはるが走りそうな足を自分の手で止め、柱の影に膝をついた。胸の棚で浅い谷を二つ、続ける。白が道を、紅が温度を。
タイは木柄の先で継ぎ目を撫で、“楽な道”を先に潰し、ディランが柱の前で人の列の角度を一度だけ曲げる。
ダルセの浅い谷が間を保ち、海人が「止めない」と短く言う。
抜けは輪にならず、息だけを残して閉じた。
夜は深くならない。深くなる前に、鐘が長い谷を落とす。二度の音が王都の腹を渡り、橋の石が低く応える。
こはるは欄干にもたれず、掌だけを置いて立ち続けた。白と紅を並べ、浅い谷を切らさない。
半ば過ぎ、橋西の影で荷車の軸がまた沈みかけた。昼ほどの混乱はない。旗の角度が落ち、二短が通る。
ケイトリンが軸へ肩を入れ、タイが木柄で下から押す。ディランは車輪の位置を足の甲で角度どおりに示し、海人は列の始点で「息で返す」を繰り返した。
こはるは荷台の布を押さえていた少年の手の震えを見て、布の折り目を一度だけ整えてやる。少年は頷き、母の肘へ布を差し出した。
静けさ。
川面に薄い雲が映り、灯は二本、遠くで揺れる。
ダルセが竪琴の胴を軽く叩いた。音にはしない。拍だけが橋全体に薄く回る。
「歌は、音にならなくても渡る」
こはるは頷き、欄干を二度、同じ間で指で叩いた。「剣は、切らなくても角度を戻す」
ディランが小さく笑みを浮かべ、木靴の先で橋板の節を軽く押した。
明け方が近い。空の底が薄く緩む。
その前に、もう一度、強い“呼び”が来た。
橋の中央。方舟の索がぴんと張り、舟腹がきしむ。橋脚の影が一枚、濃くなる。
呼び名はない。けれど、まっすぐだ。
海人が短く言う。「方舟、半身出す」
方舟が橋脚の影から肩を出し、木肌が夜気を吸う。
タイの木柄が輪の腹を押し、ディランが欄干の角で進路を外へ。
ダルセの浅い谷が三つ、同じ間で落ちる。
こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅の間にさらに薄い棚を挟んだ。
輪は舟の木肌に触れて痩せ、空を噛んで崩れた。
呼びは去る。
戻る鐘の谷が深く落ち、二度の音が川面へ広がる。
人の息が揃い、橋は夜を渡り切った。
明け。橋の石が温度を取り戻す。方舟の索が静かに緩み、舳先に夜露が光った。
海人が川の匂いを吸い込み、短く言う。「次は港の大橋だ。……ここより広い。楽な道も多い」
ディランは旗の束を換え、角度の印を一本増やす。「合図を増やす。角は丸く、曲がる前に止まる」
タイは木柄の布を締め、刃に触れない。「押す手を増やす。木の数が要る」
ケイトリンは薬包を詰め替え、甘いものを一段厚くした。「声を上げさせない。喉を通す」
ダルセは竪琴を背へ回し、谷の“太さ”を半目盛り上げる手付きで鐘楼を見やった。
こはるは欄干に掌を置き、胸の棚で白と紅を並べ直す。薄い棚はそのまま、落ちない深さで。(道は太る。橋は、渡れる。——次も)
橋詰に、昨日の老人が舟をつけて立っていた。
「灯は見えた。戻る鐘は腹に落ちた。……港の大橋は、潮の声が入り込む」
海人が頷く。「入り込ませても、通さない」
老人は笑わずに笑い、こはるの方を見た。
「お前さん、声が強くなった。出してなくても、腹できこえる」
こはるは短く頭を下げた。「息で返すのを、覚えました」
「なら、渡れるさ」老人は櫂を押し、舟を返した。
王都の塔の影が短くなるにつれ、街の拍が日中の拍へ移る。戻る鐘は深い谷のあと二度のまま、間を変えない。
こはるは袋の結び目を二度確かめた。煤の手触り。灯台でつけた“帰り印”。
海人が欄干を二度叩き、間を渡す。「行こう」
こはるは頷き、胸の棚で白と紅を並べた。息がそこへ乗る。
橋を背に、港の大橋へ向かう道は乾いている。噴水は口を閉ざし、水路は底石を見せたまま。
だが、人の足は走らない。旗は半度落ち、角を曲がる前に一度止まる。
ダルセの浅い谷が空にかかり、王都の拍が太く、同じ間で進む。
(剣と歌で、橋を渡す。押す手と止める息で。――奪われた二つへ、道を延ばす)
こはるは目を上げ、遠い港の影の向こうに揺れる糸を見た。南と東。高く、細い。




