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第18章_夜の潮鳴

 夜は浅く、石壁に沿って風が低く回る。戻る鐘――深い谷のあと二度――が間遠に鳴り、王都の呼吸は乱れない。こはるは回廊の窓から外を見た。南の岬と東の浅瀬、二本の灯が糸のようにかすかに揺れている。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ置く。息は落ち、喉が道を覚える。

  海人が足音を殺して近づき、肩に短く触れた。「港北の倉庫、静かだ。——今のうちに“方舟”をもう一艘、橋の下へ流す」

 「行く」

  言葉は短い。けれど、息は長い。こはるは袋の結び目を二度確かめ、煤の手触りで指先を落ち着かせた。

  石段を降りると、ダルセが角の陰で立ち、指で空へ浅い谷を描いた。「鐘は変えない。長い谷のあと二度。夜は走らせない」

  ディランが方舟の縁を叩き、重心を確かめる。「樽は分散。渡す順は変えない」

  タイは木柄に巻いた布をもう一周締め、橋へ先行した。

  王都北の橋は白く痩せ、川床の黒い影が冷たい。方舟を下へ滑らせると、流れが一度だけ優しく押した。

  橋脚の影に舟を据え、索を二重にかけてから、こはるは欄干に掌を置いた。石の冷えは深いが、息は落ちる。白と紅が棚の上で並ぶ。

  その時だ。

  港のほうから、鐘とは違う低い鳴きが空の底で擦れた。海ではない、城内でもない。王都の下——乾いた水路の深いところで、空気がひとつ、裏返る。

  こはるは顔を上げた。「……下から、鳴ってる」

  海人が頷き、目だけで城壁の内側を指した。「水路の目抜き。潮が抜けた穴だ」

  ディランは足を返し、兵に合図を出す。「灯を二つ。縄は長く。走らせない」

  タイが先に暗渠の入り口へ向かい、木柄で石の継ぎ目をやわらかく叩いて“楽な道”を潰しながら進んだ。

  暗渠は冷えた石の匂いと古い塩の粉で満ちていた。水はない。音だけがゆっくり進む。

  ダルセが灯皿を掲げ、炎を低くした。影が大きくならないように。

  こはるは香草布を鼻口に当て、胸の棚で浅い谷を二度置いた。呼び名はない。けれど、“間”を嗅ぐ気配が近い。

  曲がり角の先で、床石が薄く撓んだ。黒でも白でもない筋が、舌のように前へ伸びてくる。輪にはならない。幅もない。けれど、こちらの拍の余白だけを探す細い指先。

 「押す」タイが横から入り、木柄で床の節を一つずつ潰す。

  輪にはならない指先が、押し返されて形を失い、石の目に散った。

  ディランは半身で通路の角度を切り、兵の灯を高くさせず、足を止める合図だけを短く繰り返す。

  海人が小声で言う。「谷を一つ。長く」

  こはるは胸の棚で、浅い谷を一度、深くした。紅が灯を受け、白が道を広げる。

  暗渠の奥で、擦れる音がひとつだけ後退した。空気が裏返る前に落ち着く。

  ダルセは灯皿を下げ、炎をさらに絞った。「深追いはしない。夜の“穴”は、朝に塞ぐ」

  ディランが頷き、兵の隊列を戻す。「戻る鐘に合わせて歩く」

  地上へ出ると、空気の温度がわずかに上がった。港の石段の二段目に、水が細く触れている。

 「一枚、戻った」海人が短く言う。

  こはるは胸に掌を置き、息を落とした。白が頷き、紅が縁を撫でる。

  王城へ戻る途中、見張り台から短い角笛。二短——北の市壁外で列の乱れ。

  向かうと、干上がった水路の上で荷車が横倒しになっていた。人の輪が走りかけ、拍が速くなる。

  ダルセが先に出て、両手を上げた。長い谷を一つ、空へ置く。

  音はないのに、周囲の肩が一度落ちる。

  海人が手短に分けた。「車体は押す。荷はほどかない。——旗、角を曲がる前に一度止める」

  ディランが車輪の根を肩で持ち上げ、タイが木柄で下から押し、こはるは赤ん坊を抱えた女に香草布を渡して目線を合わせた。

 「息で返す。返事はしない」

  女は頷き、布を鼻へ押し当てた。赤ん坊の泣きは、泣きの形を保ったまま細くなり、呼吸が通る。

  荷車が起き上がった。列が戻る。戻る鐘の谷が、ちょうど街角に落ちる。

  ケイトリンが最後尾の男の掌に甘い滴を落とし、「喉を通す」とだけ言って背を叩いた。

  作戦室。王太子は地図の上で指を止め、短く頷いた。「暗渠、保った。北の列、戻った。——よし。明けの二刻、東の浅瀬で見張りを増やす。鐘は変えず。灯は二本のまま保て」

  老参謀が潮の札を掲げる。「明けの前、巣が身じろぎ。南東の外輪、薄く広がる」

  海人がこはるに目を向ける。「少し、眠るか」

 「目は閉じる。拍は手放さない」

  こはるは窓辺へ行き、城下の灯を数えた。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷を置く。

  目を閉じた瞬間、耳の奥で別の鳴きがした。遠い海ではない。近い。——王城の内側、もっと深い場所。

  こはるは目を開け、海人の袖を掴んだ。「下から、もう一度」

  今度は確かだ。石の下で、乾いた空洞が息を吸う。夜の潮鳴。

  王太子は躊躇わず頷いた。「地下の集水井。水の抜け道だ。——塞ぐのは朝だ。今は“道”を作ってやり過ごす。君たち、井戸の上で拍を置け」

  ディランが兵を二人選び、角笛を渡す。「二短。走らない」

  タイは木柄の布を締め、ケイトリンは香草布の束を肩に担いだ。ダルセは灯皿を二つ重ね、炎をさらに絞って持つ。

  集水井は中庭の奥、石の輪が地面に沈んだような場所にあった。底は見えない。音も上がらない。ただ、空気がわずかに裏返る。

  こはるは井戸の縁に膝をつき、胸の棚に白と紅を並べた。浅い谷を二つ、続けて置く。

  海人が井戸の反対側に座り、欄干を指で二度叩いた。間は同じ。

  ダルセは炎を井戸の口から外へ向け、影を内側へ落とさないように置く。

  タイは石の継ぎ目を木柄でなぞり、“楽な道”を先に潰した。

  ディランは兵に旗の角度を示し、動きを止める合図だけを半歩早く置く。

  ——暗い底で、何かがひとつ、息を吐いた。

  空気が裏返りかけ、こはるの胸の棚で紅が痛む。白が道を狭める。

 (渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)

  こはるは浅い谷をもう一つ置き、三つ目を少しだけ長くした。

  井戸の口で、冷たさが薄くなる。裏返りかけた空気が、谷の底で一度止まって、外へ流れる。

  海人が息を合わせる。「行ける」

  ダルセの炎が低く揺れ、影は内側へ落ちない。

  タイは木柄を離さず、石をもう一度なぞる。

  ディランは兵に合図を出し、誰も走らせずにその場を保たせた。

  夜の潮鳴は、やがて石の下へ戻っていった。戻る鐘が深い谷を落とし、二度の音が中庭を横切る。

  こはるは背を伸ばし、胸の棚に浅い谷を置いた。白と紅が並ぶ。呼び名は来ない。寒さは薄い。

 「……朝になったら、塞ぐ」

 「塞ぐ」海人が短く答え、王太子へ視線を送る。王太子は頷いた。「工兵は手配する」

  静けさ。

  灯の糸は二本、南と東に揺れ続ける。

  こはるは井戸の縁に掌を置き、薄い石の粉を払い落とした。粉は指に広がらず、掌の谷に留まる。灯台の煤と同じように。

 (跡は、道になる。私が戻るときの)

  明けの手前、空が淡く緩む。

  ダルセが低く囁く。「長い谷のあと、二度」

  鐘が鳴る。石壁が呼吸し、人の足がそろう。

  王都の夜は乱れずに明けへ向かい、こはるの胸で白と紅が確かに並んだ。

 明けの手前、空の底がほどけ、鐘が深い谷を落とす。二度の音が城の腹を渡り、回廊の影がうすく揺れた。王太子の指示で工兵が集まり、集水井の周囲に石と樹脂、麻縄と砂が手際よく積まれていく。

  ディランが最初に膝をつき、輪状に並べた石の隙へ麻縄を押し込んだ。「順は右回り。継ぎ目を跨ぐな」

  工兵が無言で頷き、同じ角度で手を進める。海人は樹脂壺の蓋を片手で外し、こはるの視線を一度だけ受けた。

 「匂いが強い。――布を鼻へ」

  こはるは香草布を折り、喉へ通す息の道を確かめる。白と紅を浅い棚に並べ、谷を一つ置く。

  樹脂が温められ、石の継ぎ目に流れ込む。淡い甘さと焦げる匂い。ダルセは炎の高さを低く保ち、影を井戸の中へ落とさないように傾けた。

  タイは木柄で石輪の外周をなぞり、継ぎ目の“楽な道”を先に潰す。刃は使わない。木は音を出さない。

  ケイトリンは工兵の手首を順に握り、脈の速さを確かめて短く言う。「吸って、吐いて。返事はしない」

  最初の周が埋まると、石輪は息をひとつ飲み込んだように沈黙した。

  その沈黙を破る前に、王太子が綱の端に手を置く。鐘楼の係が深い谷を一つ落とし、二度の音を続けた。

  工兵の肩が揃い、手の速さが同じになる。

  こはるは井戸縁の反対側に座り直し、胸の棚で二度、浅い谷を置いた。白が道を、紅が温度を。

  井戸の底で、何かがわずかに身じろいだ。昨夜のような裏返りではない。石の下の空気が、出口を間違えないように自分で形を変える気配。

 「……大丈夫」

  声にせず、息で言う。海人が欄干を二度叩き、間を合わせた。

  樹脂の周がふた回り目に入るころ、城の外では港の鐘が一度だけ遅れた。戻る鐘の間のうしろ側で、短いざわめき。

  伝令が駆け込む。「港北、補助桟橋の端で板が浮く。列は止まっているが、輪の気配はない」

 「旗で“止まる”を通せ」ディランが即答し、角笛の二短を兵へ投げる。

  ダルセが低く囁く。「谷は変えない。長い谷、二度」

  王太子は頷き、綱を握り直した。

  三周目の樹脂を流し終えると、井戸口の空気が一度だけ深く吸われ、すぐに落ち着いた。

  タイが石輪の外周を押し、きしみがないか確かめる。「押し返してこない」

  ケイトリンが井戸の内側に薄く砂を撒き、樹脂の縁に指を当てる。「乾く。触らないで」

  海人がダルセの灯を低くくぐらせ、樹脂の表面の泡を一つ潰した。「よし」

  井戸の息が静かになると同時に、城壁の向こう――港のほうで人の声が一段落ちた。戻る鐘の谷に、人の足が合わせて落ちていく。

  こはるは掌を胸に置き、棚をひとつ深くした。白と紅が並ぶ。息は遠くまで通る。

 (道は置ける)

  王太子が工兵を下がらせると、石輪の上に薄布が一枚掛けられた。誰も乗らないように、布の中央に赤い印。

 「次は東の浅瀬だ」王太子は地図の端を軽く叩いた。「見張りをもう一段増やし、灯の足を守る。港北は“止まる”を太く。走らせるな」

  海人が頷き、帆布の束を肩へ。

  ディランは兵の交代表を詰め、角笛の順を紙片に直して渡す。

  タイは木柄を布で拭き、刃に手を触れない。

  ケイトリンは瓶の口を締め、甘い薬を城内、苦い舌薬を巡視へ。

  ダルセは窓を一度開け、風の間に浅い谷を置いた。

  王都の街路へ出ると、空は明るみに向かっていた。石段の二段目に触れていた水が、三段目の縁をかすめる。

 「一枚、戻る」海人が短く言い、口元で笑いを堪えた。

  こはるは頷き、胸で白と紅を揃える。笑わない。けれど、呼吸がわずかに軽い。

  港北の補助桟橋。板は薄く浮いていたが、列は走らない。旗を持つ若者が二人、角を曲がる前に一度止まり、二度目で渡す。覚えた拍で。

  こはるは若者の額の汗を指で払った。「怖いときは、布の匂いで喉を通す」

  若者は頷き、布を鼻へ当てたまま旗を掲げた。腕は震えない。

  そのとき、外海で灰がひと筋、ゆっくりと太った。南東の外輪。巣が寝返る。

  ダルセが指で谷を一つだけ長くした。

  ディランは桟橋の先で角度を切り、列の向きを半歩だけ変える。

  タイは木柄で板の“楽な道”を潰し、出入りの角を丸める。

  海人が短く言う。「灯を見ろ。灯は道だ」

  空の彼方、南と東の糸が高く、細く立っている。

  灰は太らない。太り切らない。波は低く、匂いは薄い。

  こはるは胸の棚で浅い谷を二度置いた。紅の灯が小さくまとまり、白が道を指す。(まだ、橋はいらない)

  日がのぼる。王都の影が短くなる。

  作戦室で、王太子が新しい赤紐を二カ所に留め、白線を一つ増やした。「井戸は塞いだ。港北は保った。南と東の灯は立っている。——次は“方舟”を街道の要に置く」

 「中庭の舟を二艘、北の橋と王城前に」海人。「風が変われば、角を曲がる前に止まる。鐘は変えず」

  ディランは警備の交代表に“舟係”を追加し、旗の角度に“舟の息”の印を一つ足した。

  タイは地図の影を指で押し、近道の“楽な道”を先に埋める提案を書きつける。

  ケイトリンは配布所を二つ増やし、温石の数を倍にした。

  ダルセは鐘楼係に“谷の深さ”をもう半目盛り太らせる手付きで合図した。

  こはるは地図の端で息を一つ落とす。白と紅の間に浅い谷。

 (奪われた二つはまだ遠い。けれど、戻る道は太くなる。道が太ければ、橋を渡す日が来る)

  昼。短い休息。城のバルコニーから海を望むと、翡翠の面は相変わらず低いのに、光だけは昨日より遠くへ届いているように見えた。

  海人が欄干へ肘を置き、こはるに目をやる。

 「眠れたか」

 「目は閉じた。拍は手放さなかった」

 「それで十分だ」

  短い会話。言葉の少なさに、温度が残る。

  午後、東の浅瀬へ伝令。灯は細く高く、足は守られている。輪は寄り、退く。戻る鐘が届くたび、砂丘の影で人の足がそろう。

  港でも、倉庫群でも、橋でも。長い谷のあと二度が、王都の中を一定で通る。走る足が減り、止まる目が増える。

  夕方、南の岬から小舟が一艘、王都へ入った。最初の夜に火を見上げて縄の結びを教えてくれた老人が、帆を畳んで舳先に立つ。

 「灯は見えた。戻る鐘は腹に落ちる。——巣は、まだ腹を空かせてるかい」

  海人が頷く。「まだ。だが“楽な道”は減っている」

  老人は笑わずに笑った。「なら、減らし続けな。道は人のものだ」

  こはるは胸の棚で浅い谷を置き、老人に短く頭を下げた。

  夜の手前、王都の空気が一枚、静かに重くなる。巣は遠くで寝返る。

  王太子が鐘楼の綱を握り、深い谷を落としてから二度の音を続けた。

  こはるは回廊の窓辺で灯の方角を見た。南と東、糸は二本。高く、細い。

 (橋はまだ。――でも、道は置けた)

  胸の白と紅が並び、息がそこへ穏やかに乗る。

  夜。潮鳴は戻ってこなかった。井戸の布は静かに沈み、港の板は浮かない。

  方舟は橋の下で浅い息を保ち、灯は二本、糸のまま。

  眠らない夜が、乱れずに流れていく。


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