第17章_交錯する策
謁見の間を出ると、城の回廊は落ち着きを取り戻しつつあった。水袋を配る兵の動きは速いが荒れない。床石の渦文は乾き、足音は空に吸われる。こはるは胸の棚に白と紅を並べ、息で浅い谷を一つ置いた。戻る鐘――長い谷のあと二度――が遠くで鳴り、石壁が低く共鳴する。
王宮作戦室。壁一面に海図が広がり、五つの海域を結ぶ線が赤や白の紐で重なっていた。南の岬に新しい小旗、東の浅瀬に灰色の円、王都港の外側には細い白線が幾筋も描かれる。
王太子は机に手をつき、地図の上で指を止めていた。副官が横で記録を取り、老参謀が潮の札をめくる。部屋の隅では鐘楼係が時の拍を計り、窓辺に立つ伝令が風向きを報せる。
「来たか」王太子が顔を上げる。
海人が一歩前へ。「南の岬に火を置きました。灯は高く、煙は西へ。輪は二度寄り、二度退いています。巣は南東へ寝返り、外輪は薄い」
ディランが続ける。「見張り線は三角。角笛の合図は二短と三短。退避索は二重」
タイは机の縁に指を置き、海の癖をなぞる。「輪は“楽な道”を嗅ぐ。灯と鐘で道を太らせれば、奴らはそこを避ける」
ケイトリンは薬包を広げ、色の違う糸で口を印した。「喉、恐れ、体温。配る手を増やして。比率は三対一。飲ませすぎない」
ダルセは窓際の影で浅い谷を指で描く。「戻る鐘を太らせる。長い谷のあと二度を、同じ間で」
こはるは胸の前で小さく息を合わせた。白と紅の間はまだ浅い。けれど、道は置ける。
王太子は頷き、地図の東へ指を滑らせる。「問題は東の浅瀬だ。巣の縁がここへ身じろぎし、船だまりの外側を舐めている。南で灯を増やした今、次は東へ灯を置く必要がある。だが、兵も材も足りん」
「材は分けられます」海人。「崖の皿、樹脂、乾き草。火床の向きだけこちらで決めてください」
「兵は二組。旗と鐘の手を貸す。——ただし王都から離しすぎるな」副官が短く付け加えた。
老参謀が潮の札を掲げる。「潮は明けと夕の間が柔らかい。夜半は巣が寝返る。東へ灯を置くなら、明けの二刻」
ディランは指で地図に印を二つ置いた。「東の浅瀬には崖道がない。上がりは斜路、下りは砂。見張りは四方。退路を二本、舟を三艘分散」
タイが視線を細める。「輪は砂に跡を残さないが、砂は輪を冷やす。押す道具を木に限る。刃は使わない」
ケイトリンが頷く。「香草布は湿らせて配る。舌薬は夜だけ。昼は甘いほう」
「鐘は?」王太子。
「戻る鐘、変えません」ダルセの声は柔らかい。「長い谷のあと二度。逃げる鐘は鳴らさない。拍が走るから」
こはるは地図の端に、小さく息を置いた。白と紅の間に棚を作る。
「……灯は道になる。道は境になる。境を渡すか守るかは、ここで決める」
王太子が微笑む。「君はいつも短く言うな。その短さが今はありがたい」
ひと息の静けさ。
その静けさを破ったのは、伝令の靴音だった。
「港北の補助桟橋より報せ! 黒の帯、北東で身じろぎ。輪は薄いが“呼ぶ”気配」
王太子は地図の角に軽く指を置き、決断の間を一拍だけ取った。「分散はしない。道を太らせる。——鐘楼、戻る鐘を一段深く。南の岬と港北で合わせろ」
鐘楼係が駆け、廊の奥で太い綱が軋む。長い谷が城の腹を通って落ち、二度の音が窓ガラスを震わせた。
海人がこはるに目を向ける。「東へ行く。明けまでに火床を組んで、灯を上げる。戻りは昼」
こはるは頷き、袋の結び目を確かめる。指先に煤の手触り。灯台でつけた“帰り印”。
ディランが兵二名を選び、旗と角笛の位置を伝える。
タイは木柄を握り、刃の側に布を一周巻いた。「押す」
ケイトリンは荷を分け、甘い薬をこはるへ、苦い舌薬を海人へ渡す。「今は甘いほう」
ダルセは窓際で浅い谷を連ね、全員の歩幅が同じになるまで間を少しだけ伸ばした。
作戦室を出ると、回廊に風が通った。外の空は雲を薄金に透かし、塔の影は短い。
城門前で、避難の列が一度だけ止まる。鐘が深く、二度。人の足が勝手に落ち着き、歩幅がそろう。
海人がこはるの肩に掌を置いた。「歩こう」
「歩く」
声は短い。胸の棚に白と紅が並び、息がそこへ乗る。
港へ向かう途中、こはるは市場跡で立ち止まった。かつて魚籠が積まれていた石台は乾き、古い塩の白が筋を引く。
彼女は手のひらで白い筋を撫で、砂に沈みかけた足跡を一つ、平らにした。
(灯を置く。私の“間”で)
港の補助桟橋で舟が待っていた。帆布は巻かれ、縄の結びは手が覚えた硬さ。兵の若者が二人、旗と角笛を抱えて立つ。
ダルセが若者の額の汗を指で拭い、浅い谷を見せる。「ここに置く。走りだしたら、ここで止まる」
若者は谷を真似てうなずいた。恐れは目の奥にあるが、拍は乱れていない。
小舟が滑り出す。城壁が後ろへ退き、王都の塔が薄く霞む。
東の空は明るく、浅瀬の白が鋭い。砂の斜面に波がやさしく触れ、すぐに引く。
「拍、半分。曲がり角で谷」海人が櫂を押す。
ディランは舳先で角度を半度切り、タイが柄で水をやわらかく押し戻す。
こはるは胸で浅い谷を置き、白と紅を棚の上に座らせる。
浅瀬の肩に舟を寄せると、潮の匂いが変わった。海藻の青さは薄く、砂の乾きが強い。
上陸。崖はない。砂の丘を越え、平たい岩の盆地へ出る。そこに割れた甕の底がいくつか、風に磨かれて伏せていた。
「火床に使える」海人が頷く。
ケイトリンが樹脂と乾き草を選り、ダルセが谷を短く、続けて置く。風の間を読むために。
タイは木柄で砂の上に細い筋を引き、輪が通る“楽な道”を先に潰した。
ディランは旗の位置を三つ置き、角笛の合図を兵に二度、三度見せる。
火は三度目で上がった。煙は細く、城ではなく、海のほうへ一度だけ揺れた。
こはるは火の熱を掌で受け取り、胸の棚へ戻した。紅が少し太くなり、白がその縁を撫でる。
(ここに灯を。道を)
その時だ。
沖で灰がひと筋、身じろいだ。浅瀬の外輪が薄く盛り上がり、輪の“癖”が砂の下で形になる。
ダルセの指が谷を一拍ぶん長く落とし、海人が風板で火を守る。
タイは木柄を横へ構え、ディランは斜めに立つ。兵の若者たちは旗の角度を震えずに保った。
輪は浅瀬の肩まで来て、灯の“拍”を一度だけ嗅いだ。
食えない。そう判断したのか、輪は砂に“楽な道”を求めて横へ滑る。
「今」海人。
タイが押し、ディランが外へ滑らせ、こはるは胸で浅い谷をもう一つ増やす。火の糸は折れず、煙は細いまま。輪は崩れて潮に溶けた。
小さな勝ち。
火床の縁で、こはるは短く息を吐いた。胸の棚で白と紅が並び、浅い谷に息が落ちる。
ケイトリンが肩へ布を掛け、「甘いのは今。苦いのは夜」と決める。
兵の若者が旗を下ろし、目を丸くしたまま笑った。
ダルセが指で短い谷を見せる。「帰る鐘を、忘れない」
若者は頷き、角笛を胸へ抱えた。
日が傾く。灯は細い糸を保ち、煙は王都のほうへ薄く流れる。
海人が空を見上げ、短く言った。「戻る」
こはるは袋の結びを二度確かめ、火へ浅い頭を下げた。(灯を残す。私の“間”を残す)
舟は浅瀬を離れ、王都の塔へ向き直る。
背後で火が細く燃え、前で鐘の谷が深く落ちる。
こはるは胸で白と紅を並べ、息をそこへ乗せた。
港が近づき、城壁の影が水面へ伸びる。
桟橋では、戻る鐘に合わせて人の歩幅がそろっていた。
港の補助桟橋に舟が戻ると、戻る鐘――長い谷のあと二度――が城壁にやわらかく反射した。歩幅が揃い、人の列が一息ずつ前へ進む。こはるは胸の棚に白と紅を並べ、袋の結び目を二度確かめた。煤の手触りが指に戻り、火床の気配が掌へ薄く残る。
王宮作戦室。地図の東に置いた小さな赤旗が、今は確かな位置を示している。王太子は窓の外の風を一度だけ目で量り、指を地図から離した。
「東の灯、確認。南の灯と合わせて“道”は二本になった。輪は浅い。巣の縁は南東へ寝返り。……だが潮は下がり続ける。城の内側でも、井戸の底が見えたと報せが入った」
老参謀が札を改める。「明けの二刻、夕の一刻――柔い。夜半は巣が身じろぎ。鐘は変えず」
副官が帳面を捲り、必要な手配を短く列ねた。兵の交代、旗の補充、薬包の配分、退避索の修繕。
海人は赤と白の線の交差を指で示し、声を低く落とす。「“道”を太くする。避難だけでなく、戻るためにも。港北と南の岬を結ぶ拍は、今より半拍長く」
ダルセが頷き、窓辺で指を上へ上へと滑らせた。「長い谷のあと二度。間は変えないで太くする」
ディランは旗の角度を紙片に描き、兵に手渡す。「迷ったら一度止まる。走らない。旗が揺れる風なら、角度を半度落とす」
タイは机の端の木枠を親指で押し、「輪は“楽な道”へ寄る。灯と鐘で道が太れば、奴は縁を迂回する。迂回した場所に“押す手”を置く」と短く言った。
ケイトリンは瓶の口を閉じ、口糸の色を変えて積む。「喉、恐れ、体温。王都内には甘いのを増やす。夜だけ苦いの。子には布の匂いだけでいい」
こはるは地図の端で息を整え、白と紅の間に浅い谷を置いた。灯は二つ。だが、胸の中の橋はまだ無い。
(道は置ける。――橋は、まだ要らない)
そう言葉にすると、紅が小さく応え、白が列を守る。
そのとき、港湾のほうから息の詰まったような喧騒が上がった。伝令が扉を叩き、息を切らして頭を垂れる。
「港西の倉庫群、黒の帯がひと筋、舌のように入り込む。輪は薄いが“呼び”の気配。物資の移しが止まった。――鐘は乱していない」
王太子は一拍、間を置いてから指示を落とした。「兵を動かす。だが“逃げる鐘”は鳴らすな。戻る鐘だけだ。――君たち、港へ」
桟橋へ向かう途中、こはるは市場跡の渇いた塩の筋を踏み越えた。王都の風には海の匂いがまだ残っている。白と紅を並べ、浅い谷で息を落とす。
港西の倉庫群。板壁は潮に乾き、地面の轍は粉を噛む。荷車が隊列を崩さずに止められ、荷降ろしの手が宙で待っている。
海人が状況を一瞥し、短く分けた。「倉庫の“間”を作る。人は走らず、物は寝かせず。――旗は入口で、鐘の谷に合わせて二度下げる」
ディランが入口に兵を立たせ、角度と間を示す。タイは倉庫の裏手を回り、黒の帯が入り込んだ“楽な道”を木柄で潰していく。砂ではなく木の床だ。だが木は輪の歯を鈍くする。
帯は畳の隙のように細く、倉庫の土間を舐めて移動する。名を呼ばない。拍を吸う。
ダルセの谷が低く落ち、こはるの胸の棚にその谷がすとんと座る。
「……ここ」
こはるは自分の足で倉庫の中央へ進み、柱の影で浅い谷を一つ増やした。白が道を描き、紅が温度を保つ。声は出さない。息だけで返す。
帯は一歩、遅れた。輪が生まれかけ、床板の木目に“押し”を受けてほどける。
「押す」タイの柄が横から滑り込み、輪の根を柔らかくつぶす。
ディランは刃を抜かず、肩で角度を外へ落とし、倉庫口へ抜ける風の筋をわずかに太らせた。
海人が荷車の列を二つに分け、空の車を先に走らせる。「道を見せる。物は後」
荷車が静かに動き、輪は“楽な道”を見つけられず、土間の粉の上で解けた。
小さな勝ち。荷の列が戻る。人の首が一度、楽に回る。
こはるは柱にもたれ、掌を胸に当てた。火の跡は薄く、けれど残っている。(灯を置く。ここにも)
ケイトリンが肩に布を掛け、「甘いのは今、苦いのは夜」と短く告げ、水を口へ運んだ。
外へ出ると、戻る鐘がまたひとつ、深い谷を落とした。
王都の風が、少しだけ湿り気を取り戻す。港の水が一筋だけ高くなり、岸の石段の二段目に薄く触れた。
海人が空を見上げる。「潮の背が一枚、戻った」
ディランが旗を半度落とし、兵の列を崩さずに角を曲げさせる。
ダルセは谷を二度浅く置き、足の速い少年の肩に軽く触れた。「走らない」
少年は頷き、歩幅をひとつ縮めた。
作戦室に戻ると、王太子は地図の上の白い線を一つ、ゆっくりと伸ばした。「港西、保った。――次は北の橋。石の足が乾いている」
「橋には“方舟”を」海人が短く言い、筆で中庭の図へ線を引いた。「崩れても渡れる船を待避させ、鐘の谷と合わせる」
ケイトリンが頷き、薬と温石の配布位置を移す。「泣き声を遠ざけるのじゃなく、息を通すの。喉は閉じないほうが強い」
タイは地図の影を指で押し、迂回路の“楽な道”を先に潰す提案を一言で置いた。
ディランは旗の手順を一枚にまとめ、兵へ渡す。
ダルセは鐘楼係に“谷の深さ”を一段だけ太らせる仕草を見せ、合図だけで伝えた。
こはるは窓の外を見た。王都の空には雲が薄く走り、遠い沖の灰は細い。胸の棚に白と紅を並べ、浅い谷をひとつ置く。(渡さない。――渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
夕刻、王城中庭。泉は底石を見せたままだが、子どもが一人、渦の線を指でなぞっていた。
こはるは膝を折り、隣に指を置く。
「ここで止まる。ここで曲がる」
子どもは真似をし、線がほどけずに円へ戻った。
海人が近づき、二人の指先を見て頷く。「道が増えた」
「うん。灯も」
言葉は短い。けれど、息は長く通る。胸の紅が小さく灯り、白がその灯を囲った。
日が落ちる前、王太子が自ら鐘楼の綱を握った。長い谷が城の腹を通り、二度の音が石壁を震わせる。
人の足が止まり、次の一歩が揃う。逃げるためではなく、戻るための拍で。
夜。巣は遠くで寝返りを打つ。輪は浅く、城壁まで来ない。
こはるは回廊の窓から灯の方角を見た。南の岬、東の浅瀬――どちらも糸のように高く、細い。
(橋は、まだ。――でも、道は置けた)
彼女は胸の棚を一段深くし、白と紅を並べ直した。
背後で足音。海人が布包みを掲げる。蜂蜜の色が灯に似て、匂いは夜をやわらげる。
「甘いほう」
こはるは一口含み、喉に灯の道を思い出させた。「……戻る鐘、好きになった」
海人は笑い、窓の外に目をやる。「俺もだ。長い谷があると、人は走らない」
「走らないほうが、遠くまで行ける」
「ああ。――遠くまで行こう」
言葉はそれだけ。けれど、約束の形をしていた。
星が薄く、鐘の余韻が低く落ちた。
王都は眠らない。眠れない。けれど、拍は乱れない。
夜。王都の空は雲を薄くまとい、灯の糸が南と東でかすかに揺れている。戻る鐘は深い谷のあと二度――間は乱れず、石壁が低く呼吸を返す。
海人は城内の回廊を抜けて中庭へ向かった。泉は底石を見せたまま、縁に置いた灯皿が白い光を保っている。中央に置かれた大きな舟――板を重ねて作った即席の方舟――の側で、ディランが兵に合図の角度を教えていた。
「旗は半度落とす。走らない。角を曲がる前に一度止まる」
兵たちは短く復唱し、肘の高さで旗の重みを合わせる。
こはるは舟の影に立ち、胸の棚に白と紅を並べた。深い谷は今夜は要らない。浅い谷で、息を遠くまで送りたい。彼女は舟腹に掌を当て、木の冷たさと内側の空洞の広さを同時に感じ取った。
「重心は前寄り。荷は分散、座りは低く」
ケイトリンが淡々と指示を出し、縄で樽を固定していく。香草布の束は舟の中央、温石は舟尾の樋の脇。
ダルセは舟の先端に腰かけ、弦に触れずに四拍の谷を空へ吊るした。谷は浅いが切れない。舟が走り出したとき、人の息がその谷に落ちて速度と合うように。
「北の橋で、石の足が乾いたままだ」
見張りの兵が駆け込む。海人とディランは即座に視線を交わした。
「行く。——刃は使わない」
タイが答えた。木柄に布をもう一周巻き、握り直す。
王都北の橋。昼には避難の列が渡った石橋は、夜気の下で白く痩せていた。川床が露出し、流れの筋が細く、ところどころ黒い影が逆光で溜まっている。
海人は橋のたもとで足を止め、空気の速度を読むように顔を上げた。「戻る鐘、ここでも合わせる」
ダルセが短い谷を二つ置き、間を揃える。
ディランは橋の両端に旗の手を立て、角笛係の位置を低く据えた。「走らせない。列は三つに割らない」
そのときだった。橋の真ん中、乾いた石の継ぎ目に、黒でも白でもない輪郭が細く滲みだした。舌のように石の間を舐め、名を呼ばず、拍の“間”だけを探る。
「押す」タイの声。木柄が横から滑り込み、石と石の“楽な道”を先に潰す。
輪は形を変え、橋脚の影を這う。ディランが半身で角度を切り、刃を抜かずに肩で外へ落とす。
こはるは欄干の上に掌を置き、胸の棚に浅い谷を一つ増やした。白が道を、紅が温度を――二つで足りないなら、谷を広く。
輪の歯が空を噛み、ほどける。
足並みが戻る。人の列が橋を渡り切る。
ケイトリンは最後尾の老女の手に香草布を押し当てた。「嗅いで。返事はしないで」
老女は布を強く握り、頷いてから歩幅を合わせる。
橋の下で水が一度だけ低く鳴った。輪は退いたわけではない。身を細くして“次”を待つ。
「舟を一艘、橋の下へ」海人が命じる。
中庭から運んだ小舟が、浅い流れに乗って橋脚の影へ滑り込む。万一橋が崩れても、渡り切れない者を拾えるように。
ダルセが舟の上で浅い谷を置き、舟の息と人の息を合わせた。
やがて列は絶え、橋に静けさが戻る。その静けさの中で、タイがぽつりと川床を見つめた。
「“奴ら”は道を覚える。……俺も覚えたことがある」
こはるは聞き返さなかった。ただ、彼の横で欄干に掌を置き、同じ石の冷たさを受け取った。
タイはそれ以上言わず、木柄の布をもう一度締めた。
王城へ戻る道、鐘がまた深い谷を落とした。二度の音が石壁に溶け、人々の足が自然とそろう。
作戦室では老参謀が潮の札をめくり、王太子が東の灯と南の灯を線で結び直していた。
「北の橋、保った」海人の報告に、王太子は短く頷く。「よくやった。——巣は南東の外輪で寝返り続けている。夜半は城近くへ寄らぬ。明けの二刻、東の浅瀬の見張りを増やす」
ディランが兵の交代表を整え、角笛の合図の間を確認する。
ケイトリンは薬包の数を数え、甘いものを城内に厚く、苦いものを巡視に薄く回した。
ダルセは窓辺で指を上へ滑らせ、戻る鐘の谷の“太さ”を目で確かめる。
こはるは地図の端で浅い谷を置いた。(道は太くなる。灯は二つ。橋はまだ、いらない)
胸の白が頷き、紅がその縁を撫でた。
その小休止を破ったのは、倉庫群からの短い喇叭だった。二短――最後尾の列が一瞬乱れた合図。
海人が顔だけで「行くか」と問う。こはるは頷いた。
彼らが石段を下り始めたところで、回廊の影から一人の男がよろめき出た。漁師の粗い衣。肩に濡れた縄。
「王城の人……妻が、声を出さなくなっちまって……」
ケイトリンが先に膝をつき、香草布を口へ当てさせる。「返事はしない。息だけ。――手を貸して」
こはるは男の手から縄を受け取り、指の節の冷たさを確かめた。重いものを引いた手。道を覚えている手。
「戻る鐘の間で、歩こう」
男は頷き、布の香りに目を細めた。
倉庫群。問題は大きくなっていなかった。角を曲がる前に皆が一度止まり、二度の拍で目を合わせ、荷を渡す。
タイは床の節を木柄で撫で、輪の“楽な道”を先に潰す。ディランは旗を半度落とし、風の筋に合わせる。
こはるは柱の影で浅い谷を置き、白と紅を並べる。
輪は生まれず、粉は粉のまま。荷の列がまた動き出した。
外へ出ると、風の匂いが数歩ぶんだけ湿っていた。港の石段の二段目を、薄く水が撫でている。
「一枚、戻った」海人が短く言い、口元で笑った。
こはるの胸で紅が小さく灯り、白がその灯を囲った。
夜更け。城の回廊で、ダルセが静かに言う。
「長い谷のあと二度。帰る鐘は、明けまで続ける」
鐘楼係が頷き、縄を握り直す。
王太子は地図から目を離し、窓の外へ薄く視線を投げた。「君たちが置いた灯が道を連れてきた。——明けたら、もう一つ置きに行こう」
海人が頷き、タイは布を締め直す。ディランは角笛を腰に差し、ケイトリンは瓶の口を確かめた。
こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅を並べ直した。(返す。奪われた場所へ。私の“間”で)
石壁の向こうで鐘が鳴る。深い谷、二度。
人の足音がそろい、王都の夜は乱れずに続いていく。




