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第16章_帰還の鐘

 東の縁に金が走り、巣の上の灰が紙の薄さでたわんだ。こはるは胸の浅い棚に白と紅を並べ、舟の舳先を見据えた。灯台の火は背後でまだ温度を持ち、風は南から緩やかに押す。

 「戻る。王都へ知らせる」

  海人の声は短く、濁りがない。

 「二つ欠けたままでも、知らせは遅らせられない」ディランが地図を広げ、帆布の端で角を押さえる。「黒海を斜めに横切る。明けと夕の間だけを使い、昼は白海沿岸で休む。夜は走らない」

  タイは櫂の柄を握り直し、手のひらで木の節を確かめた。「押す。切らない。輪は浅い。だが“間”を食う癖は残る」

  ケイトリンが苦い舌薬を三滴ずつ掌に落とし、香草布を配る。「喉は通る。……でも返事は喉で止めて、息で返す」

  ダルセは索を肩に掛け、弦には触れずに四拍の谷を浅く織った。「帰る歌は短く。道の曲がり角でだけ、谷を深くする」

  小舟が滑り出す。崖が遠ざかり、灯の煙が空へ真っすぐ伸びる。翡翠の光は背に、前方には白の帯と、さらに先に灰の薄皮。舟底が一度、低く鳴った。こはるは胸の棚を一段深くし、白の拍で道を、紅の拍で体温を守る。

  最初の黒の帯は、昨日より痩せていた。だが、拍を嗅ぐものの癖は残っている。水面の下で空気が半歩遅れ、舟の周囲に目に見えない歪みができる。

 「半拍、空ける」海人が櫂の間を伸ばし、タイが柄で水を二度打つ。一定、余白、一定。

  ディランは刃を抜かず、舳先の角度だけを半度切って、帯の縁を斜めに通す。ダルセの谷が一拍ぶん長く落ち、こはるの胸で棚が安定した。

  帯を抜けると、白海の沿岸は薄金に光り、避難の旗が岬ごとに揚がっていた。小港の桟橋は浅くなり、舟だまりの船腹が砂に身を預けている。

  彼らは最初の港で短く停泊し、水と乾き物を補給した。番屋の板札には、黒い炭で大きく『王都 水位一尺半 低下』『潮門 一部 露出』とある。

  こはるは喉の奥に硬い塊が落ちるのを感じ、香草布を鼻口へ当てた。白の拍が胸でわずかに揺れ、紅がそれを受け止める。

 「王都まで三日。……潮が持てば、二日半」海人が海図の余白に線を延ばす。

 「沿岸のたまりを繋いでいく。黒の帯は二本。どちらも浅いが癖が悪い」ディランは視線だけで潮の筋をなぞる。

  タイは港の外を一度振り返り、「追ってはこない。腹が満ちた」と低く言った。「だが巣は広がる」

  ケイトリンがこはるの指先に触れ、温度を確かめる。「脈、安定。昼は甘いほう。……夜だけ苦いのを」

  ダルセが港の子どもに短い谷を見せ、拍だけで『怖さは歩ける』を渡した。子どもは頷き、母親の袖を強く握った。

  出帆。白海の潮は午後に重くなる。舟は岬の影を拾いながら、沿岸のたまりをひとつずつ繋いだ。夕刻、浅い入江で野営。火は低く、煙は薄く。こはるは袋の結び目を二度確かめ、胸の棚に浅い谷を置いた。(橋はない。けれど、棚で繋ぐ。今はそれで)

  二日目の朝、黒の帯はさらに東へ移っていた。風は北に少し回り、海は音を落とす。

  最も狭い帯の横断で、舳先の下に白い泡がひと粒、裏返った。輪の癖だ。

  海人が「押す」と短く言い、タイの柄が横から滑り込む。ディランは舟の縁に肩を沿わせ、来る角度だけを外へ落とした。

  こはるは息で半拍の余白を増やし、白の拍を棚の上へ、紅の拍を棚の内へと座らせる。紐のような影は、食む場所を失って薄まり、潮の返しで外へ剥がれた。

  昼、白海最後の港。避難の列が北へ延び、老人と子どもが荷車に揺られている。桟橋の先で、海底の礎石が日向に晒されていた。

 「……王都の潮門も、こうなる」番屋の若者が言う。声は震えていないのに、目が濡れている。

  ダルセが短く頷き、四拍の谷を浅く一つ渡した。「戻る拍を連れていく。灯を置いた場所まで」

  こはるは若者の手から受け取った水袋を両手で持ち、深く頭を下げた。『返す』――心の中で言葉にすると、白の拍が静かに頷いた。

  午後、王都への海道が開けた。遠くの空に塔の影、さらにその向こうに城の塔屋。だが、海は低い。いつもなら覆っているはずの礁が、今は裸で陽を受けている。

  鐘の音が、風に乗って届いた。いつもの時刻の合図ではない。乱れた拍で、短く、続けて。

 「避難の鐘だ」海人が櫂を強め、舟の進みが半歩速くなる。

  ディランは角笛を腰に差し直し、舳先で目を細める。「港の受け入れが詰まってる。北側の補助桟橋へ回る」

  タイは無言で頷き、柄を置いて縄を取った。

  補助桟橋は浅く、板がところどころ浮いている。人の波、家財の山、泣き声のない泣き顔。

  舟が横付けすると同時に、海人が飛び降り、こはるの手を引いた。足裏の板が低く軋み、潮の匂いは薄いのに濃い。

 「王宮へ通す」ディランが肩で人の流れを押し分け、衛兵の目に合図を送る。「緊急。潮枯れ――核、移動中」

  衛兵は問わなかった。問う時間がない。通行帯が一本、街の内側へ開いた。

  王都の通りは、見慣れた色から半歩ずれていた。噴水は口を閉ざし、水路は底を見せ、橋の下の石が日向で乾いている。

  王城門前。鐘楼の下で、兵が綱を握り続けていた。鐘は再び鳴り、空の鼓膜を震わせる。

  謁見の間へ通される途中、こはるは一度だけ足を止めた。床石に海の古い渦の文様が刻まれている。今まで見えなかった薄い線が、乾いた石で急に目に入る。

 (ここも、海の上)

  胸の紅が静かに応え、白が道を指す。

  王太子は地図の前に立っていた。目の下に疲労の影、だが視線は濁らない。

 「来てくれたか」

  海人が一歩前へ出て、短く報告した。黒の帯の位置、輪の癖、巣の縁、灯台の火、そして――欠片の喪失。

  謁見の間の空気が一度沈んだ。誰も声を上げない。王太子はただ、深く息を吸い、吐いた。

 「謝罪は要らぬ。状況がわかった。……そして、戻ってくれたことに礼を言う。王都は潮門の一部が露出した。船だまりは座礁が続き、北側の避難路を確保中だ。君たちの灯は、沿岸の“拍”を繋いでいる」

  こはるは自分の胸の棚を確かめた。白と紅がそこにいる。二つで足りないなら、間を深く――彼女は息を整え、一歩、前へ出た。

 「……返します。奪われた二つを。私が、私の“間”で」

  王太子は短く頷き、地図の上で指を動かした。「巣の縁は、この二刻でさらに東へ身じろぎをした。王都の沖ではなく、南東の浅瀬を噛みながら回っている。灯台の火は、ここから南の岬にも必要だ。人手が足りん。君たちに頼みたい」

 「やる」海人が即答する。

  ディランが詳細を掬い上げる。「火床、樹脂、退避索、旗。兵の配置と見張りの角度。王城の備えは?」

  王太子は隣の将校を顎で指し示し、指示が滝のように流れた。

  タイは地図の縁に手を置き、海に残る癖の線を描いた。「輪はここを上る。……奴は“楽な道”をもう嗅いでいる」

  ケイトリンが薬包を机の端に広げ、「負傷者用に苦いのを、恐れを鎮めるのを、喉を開くのを」と手早く並べる。

  ダルセは窓の外を見やり、四拍の谷を空気に溶かした。「鐘の拍と“怖さ”が重なると、人は走りがちになる。谷を見せる係が要る」

  協議は短く、速かった。王都の地図に新しい赤線が増え、白い旗の位置が半刻ごとに記された。

  退出の前、王太子がこはるへ視線を置いた。

 「“聖海の乙女”に似ている、と言われているそうだな」

  こはるは一瞬肋骨の内側が冷たくなるのを感じ、次の瞬間に自分で温度を戻した。

 「私は“こはる”です。……名は渡しません。渡すのは、私が選んだ“間”だけ」

  王太子は目を細め、頷いた。「それでいい」

  謁見の間を出ると、城の回廊に避難民の列ができていた。水袋が配られ、子どもたちが床の渦の文様を指でなぞっている。

  こはるは膝を折り、子どもの手の動きを見守った。渦は途切れず、指は迷わない。

  立ち上がると、海人が隣にいた。

 「灯をもう一つ、置きに行く」

 「うん」

  短い返事の中に、胸の紅が小さく灯り、白が道を示す。

  門を出ると、鐘がもう一度鳴った。今度は乱れていない。長く、深い谷を一つ置き、つづけて二度。

 「帰還の鐘だ」ダルセが微笑んだ。「逃げる鐘じゃない、戻る鐘」

  タイが柄を握り直し、ディランが合図の旗を肩にかける。ケイトリンは薬包の袋を締め、こはるの香草布を整えた。

  港へ戻る道で、潮の匂いが一瞬、甘くなった。遠くの沖で、巣が寝返りを打つ。

  こはるは空を見上げ、胸の棚に浅い谷をひとつ置いた。(橋はない。けれど、道は置ける。私が)

  桟橋で小舟が待っている。帆布は乾き、縄は手に馴染む。

  海人が舳先に掌を置いた。「行こう。灯を南の岬に。……そして、返しに」

  こはるは頷いた。白と紅が並び、息がそこへ乗る。

  鐘の余韻が、海へ長く落ちていった。

 南の岬へ向かう道は、いつもより乾いていた。水路は底石を見せ、橋の下に影ができない。港の外れで舟を押し出すと、城壁の影から子どもが二人、両手で旗を持って走ってきた。

 「おじさん、鐘が変わったよ!」

  海人が膝をつき、旗の柄の持ち方を直してやる。「重く鳴らす。急がせない鳴らし方だ」

  子どもは頷き、旗を胸に抱えた。こはるは二人の頭の高さに目線を合わせ、香草布を差し出した。

 「これは怖い時に嗅ぐもの。返事はしない。息で返す」

  二人は布の折り目を真似て畳み、走って戻った。

  小舟は白い筋を残して港を離れる。王都の塔は背に、南の岬は前に。潮は低いが、流れはまだ息をしている。

 「拍、半分。曲がり角で谷を深く」海人が櫂を押し、こはるの肩へ短く触れた。

  こはるは白と紅を浅い棚に並べ、曲がり角の手前で息を落とす場所を決めた。

  岬が近づく。崖の肩は丸く、上には古い見張り台の礎が残っている。灯の跡はない。作るしかない。

  上陸。ディランが崖道の段差を数え、欠けた石を避ける道順を決める。タイは黙って先に登り、崖の縁で風の筋を読む。ダルセは荷の索を肩から外し、四拍の谷を浅く編み込んだ。ケイトリンは広げた布の上で樹脂と乾き草を選り分け、火打金と瓶を手元に寄せる。

  火床は石の皿に替わるものを探して作った。崖の凹み、海鳥の古い巣の殻、割れた甕の底。海人が向きを決め、こはるは樹脂粉を薄く敷いた。

 「高く、軽く。煙は城へ」

  火は一度息絶え、二度、三度目の拍で上がった。風に押し返されるたび、ダルセが谷を短く置き、海人が風板で角度を作る。火は糸になって立ち、煙は城の方角へ薄く流れた。

  灯が立つと、岬の下から漁の小舟が一艘近づいた。老人が舳先で手を上げ、声を張る。

 「鐘の鳴らし方が戻った。火も戻った。ここの筋は、潮が深くなる時だけ船が通る。綱をこの杭へ張れば、夜でも迷わない」

  海人が杭を打ち、老人の縄を引いて結び直す。結び目は小さく、ほどけづらい。

  こはるは老人の掌の厚みを見た。掌は皺で固く、だが握りは柔らかい。彼女は胸で白の拍を小さく鳴らし、紅を並べた。老人は何も言わず、頷いて島影へ帰っていった。

  午後、見張りの線を崖上から海へ引き延ばす。ディランは旗の位置を三つ置き、合図の角度と回数を兵に教える。

 「こちらは二、こちらは三。迷ったら一度止まる。走らない」

  兵たちは短く復唱し、同じ手つきで旗を振った。

  タイは崖の影で木の柄を握り直し、刃には触れない。

 「来るなら夕刻。輪は灯を嗅ぎ、楽な道へ入る」

  ケイトリンは避難路の水の受け場に薬壺を置き、番の女に比率を伝えた。

 「喉を広げるのが三、恐れを抑えるのが一。飲ませすぎない。匂いで落ち着く人もいる」

  女は頷き、壺の口をきつく結んだ。

  夕刻、海がひとつ低く鳴った。遠い沖で巣が身じろぎをし、灰の薄皮が南へ細く延びる。

  輪が一枚、岬の斜面に入ってきた。火の下で広がり、拍を探す。

 「通さない」海人が立ち、柄で砂を一定に打つ。

  タイが横から押し、ディランは灯の縁の角度で輪を外へ滑らせる。輪は一度躊躇い、崖の下で薄くなった。

  こはるは胸で息を保ち、白と紅のあいだに浅い谷を置いた。呼び名は来ない。寒さも来ない。輪は火の“拍”を食えず、潮の返しに連れられて退いた。

  小さな勝ちが二度続いた。岬に立つ人の数は増えず、声も上がらないが、動きは速くなった。縄は締まり、水は回り、灯は細いまま高い。

  ダルセが灯の足元で低く囁く。「戻る鐘だ。鳴らし方は、長い谷のあと、二度」

  兵が鐘の紐を握り、腕の重さで谷を作ってから、短く二度鳴らした。音は海に落ち、岬の影がわずかに揺れた。

  闇が降りる前、こはるは崖の縁で膝を折った。火の熱が頬に触れ、胸の棚で紅が小さく灯る。白はその灯を囲い、道を指す。

 (返す。奪われた場所へ、私の“間”で)

  彼女は袋の結び目を二度確かめ、立ち上がった。

  夜半、輪は来なかった。代わりに、巣の縁が遠くで寝返りを打った。灯の煙は真っすぐ上へ伸び、星は少ない。

  見張りが交代し、ケイトリンは兵の喉へ布を当て、少しだけ甘いものを含ませた。

 「喉は通るほうがいい。怒鳴る声は、拍を乱す」

  兵は頷き、布を折り直した。

  明け。鐘の谷が深く置かれ、二度の音が王都のほうへ伸びる。

  こはるは香草布を鼻口に当て、胸の棚に浅い谷を置いた。白と紅が並び、息がそこへ乗る。

  海人が帆布を肩にかけ、舳先へ掌を置く。「城へ戻る。次の火と、巣の身じろぎの報せを持って」

  ディランは旗を巻き、角笛を腰へ差し直す。タイは柄を布で拭い、指の節で風の筋を一度だけ確かめた。ダルセは索を肩に回し、四拍の谷を短く三つ置いた。ケイトリンは薬包を結び、足元の子に温石を渡した。

 「足を冷やさないで」

  子は温石を両手で受け取り、大きく頷いた。

  下山の途中、崖の陰で海が一度だけ白く泡立った。輪ではない。光苔の束が海中で揺れ、翡翠の色が薄金に変わる。

 「潮が戻った」海人の声は短い。

  こはるは胸で谷を深くし、紅を灯に並べた。白はその縁を撫でた。

  舟は城へ向けて滑り出す。沿岸の旗が小さく揺れ、鐘の谷と二度の音が、市壁の向こうへ繰り返し落ちる。

  王都の塔が近づく。港の板札には『南の岬 灯 点火』『避難路 北側 安定』『潮門 露出 線 変わらず』。

  城門の前で、王太子の副官が待っていた。

 「火、見えた。鐘、変えた。――次は東へだ」

  海人が頷き、余計な言葉を挟まない。

  こはるは副官の背後、回廊の床に刻まれた渦の線を見た。乾いた石の上でも、線は迷わない。

  謁見の間。地図の上で新しい赤線が増え、白い旗の印が南へ延びる。王太子は窓の灯を一度だけ見て、指を地図から離した。

 「戻る鐘に、人が戻り始めた。……潮はまだ低い。だが道は繋がる」

  海人が短く笑い、こはるは胸の棚で白と紅を並べた。

 「次も、火を置きます」

 「頼む」王太子の言葉は短い。目は濁らない。

  退き際、鐘がまた鳴った。長い谷、二度。

  ダルセが廊下で立ち止まり、手すりを指で二度、同じ間で叩いた。「帰還の鐘だ」

  タイは柄を握り直し、ディランは旗の布を肩で均す。ケイトリンは布の折り目を直し、こはるの香草布を軽く押さえた。

  こはるは頷き、城門の外の空を見た。雲の底が緩み、薄い金が走る。

 (まだ、橋はなくてもいい。棚で繋ぐ。灯で道を置く。鐘で戻る)

  彼女の胸で白と紅が並び、息がそこへ穏やかに乗った。



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