第15章_再起の灯火
岬を離れ、潮に押され、こはるたちは昼過ぎに古い灯台の跡へ着いた。海から見上げると、断崖の上に石積みの台座だけが残り、空へ向かって輪郭を欠いた円を描いている。かつて火があった場所。道を示すために燃え続けた場所。
小舟を岩棚に寄せると、海人が最初に上がり、濡れた掌を乾いた石に置いた。続けてこはる、ディラン、タイがよじ登る。ダルセは索を引き上げ、ケイトリンは荷を浜に並べて、ひとつずつ濡れを拭った。
台座に立つと、風が胸を抜けた。翡翠の水が足下から遠くまで伸び、沖で灰の帯がかすかに揺れる。こはるは袋の結び目を確かめ、胸の内の二つ――白と紅――に指先で合図した。
(足りない。けれど、歩ける)
「火床が残ってる」ディランが台座の中央を覗き込む。石の窪みの内側に煤の痕が黒く残り、周囲の溝は風雨に磨かれていた。
「乾きものは現地調達でいける」海人が崖の陰へ目をやる。「倒木、樹脂、海藻。煙は薄く、火は高く」
タイは一言も発さず、岩場の先に消えた。足裏の音は小さく、戻って来る時の歩幅まで計っているような運びだった。
ケイトリンは荷から瓶を取り出し、こはるの手の甲に一滴ずつ落とした。「火の匂いが苦ければ鼻の前でこれを振って。喉は今、狭くない?」
「通る」
「よかった。……貧血はない。舌の色も戻ってる」
彼女はそれ以上余計なことを言わず、火床の縁へ赤い布をかけて手元を明るくした。
ダルセは竪琴を背から外し、弦の上に掌をかざすだけで音は出さない。指で四拍の谷を浅く描き、風の間にそっと引っかけるようにして、拍を台座へ馴染ませた。
戻ってきたタイの腕には、乾いた流木と、樹脂の多い枝が抱えられていた。言葉より先に手が動き、枯草が火床に敷かれる。
海人が火打金を鳴らし、こはるが樹脂粉を薄く撒く。最初の火はすぐに息絶え、二度目は草の腹でぱち、と跳ねた。三度目で、拳ほどの炎が喉をひらくように立ち上がる。
海人が身を引かず、薄い折りたたみの風板を構えて風を整えた。こはるは膝で姿勢を保ち、炎の呼吸に合わせて樹脂を足す。
「高く、軽く。煙は東へ」
海人の声は低く短い。火は命じられた通りに形を変え、狭い窪みから天へ伸びる一本の糸になった。
灯りが立つと、崖下の浜から人影が集まった。漂流村の残りの者、岬の見張り、昨日から手伝ってくれている商船の船員。皆、火へ顔を上げ、黙ったままそれぞれの場所へ散った。
ディランは状況を素早く切り分ける。「崖道の石、三段目が欠けている。上りは右、下りは左。樽と水袋は日陰。見張りは二人一組だ」
指示は短い。否定はない。各々が勝手を知るように動き出し、台座の周りはすぐに秩序を思い出した。
こはるは火を見上げ、唇をかすかに噛んだ。胸の白が「道」を指し、紅が「熱」を保つ。薄青は遠い。翡翠は、名前を呼べば胸の奥で沈むだけだ。
(返しに行く。今、ここで決める)
ダルセがこはるの横へ来て、弦を撫でずに言った。
「灯は道を示す。誰のでもない道だ。なら、火の前で言うことがある」
彼は台座の縁をそっと叩いて拍を作り、視線だけで海人へ渡した。
海人は頷き、火の前に立つ。風で髪がわずかに乱れ、包帯の端が布越しに鳴る。
「奪われたものがある。俺たちの手から、海へ。……奪い返す」
それだけ言って、彼はこはるへ目を向けた。
こはるは一歩、前へ出た。足は震えない。震えても、前へ出る。火の熱が頬へ寄り、喉が熱を飲む。
「返してもらうんじゃない。私が、返す。私の胸の“間”に、戻す。――ここに、誓う」
言葉は短いが、舌の位置を迷わなかった。火がふっと高くなり、煙が東へ伸びる。
拍手は起きない。誰も声を上げない。代わりに、動きが速くなった。樽が運ばれ、縄が締め直され、風の向きが一度読まれ直される。
ケイトリンが包みを抱えて近づき、こはるの掌をひらかせる。「これは夜用。体温が落ちたらすぐ飲んで。苦いのは昼。……今は、甘いほう」
掌に落ちた琥珀色の液を舌に乗せると、喉が自分の通り道を思い出した。紅の拍がわずかに息を太らせ、白がそれを並べる。
ディランは崖上に簡易の合図台を作った。角笛と灯、布の旗。風が変われば旗で伝え、潮が速まれば火に布をかざす。無駄な手はない。
タイは崖の縁で立ち止まり、下の浜へ指を伸ばした。「今夜はここに“通り”ができる。輪はこの筋を上る。待ち伏せは二手。海人と俺が前、ディランが後ろ、こはるは火の直下で拍を持て」
海人が首を振る。「こはるは前に出ない。火が拍を吸う。ここで合わせろ」
タイは反論しなかった。ただ、刃の角度を半度下げ、木の柄に布を巻いて握り直した。切らず、押す。その手の形だ。
午後、灯の熱が石へ移り、足裏で温度がわかるようになったころ、沖で小さな揺れが続けざまに起きた。灰の帯の内側で、輪が一枚、二枚。
「戻ってくる」ダルセが静かに言う。
海人は退避索の結び目を確かめ、こはるの肩に掌を置いた。「今、ここで拍を作っておけ。借りたいときは言う」
こはるは目を閉じ、白と紅の間に棚を置いた。浅すぎず、深すぎず。落ちない、でも息が広がる棚。火の音が胸の底へ落ちて、拍と拍の間で静かに燃える。
夕方、風が変わった。灯の煙が西へ寄り、崖の影が伸びる。
最初の輪は陽が沈む直前に現れた。海の縁で溶けた影が、崖の斜面の筋に沿って登る。人の足跡は残らない。けれど、砂と岩と潮の間に“通り”ができる。
ディランが角笛を短く鳴らし、タイが前へ出た。海人は半歩下がり、こはるの前に位置を取る。ダルセは火の下で索を持ち替え、四拍の谷を浅く――しかし切らさずに保つ。
輪は灯の前で広がった。名は呼ばない。間を食う。火の拍を奪い、列を裂くために形を変える。
「通さない」海人が刃を抜かずに言い、柄で砂を二度、一定で打った。
輪は一度だけ躊躇し、次に灯の周囲を回る。タイの柄が横から押し、ディランの足が角度を切る。火床の縁に合わせて輪の進路が一つ反れ、灯の光が空へ伸び直した。
こはるは胸で息を増やした。棚を一段深くし、白と紅を横に並べる。呼ばれてはいない。けれど、近い。橋が切られた場所が疼く。
(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
火の息が胸の棚へ乗る。紅が受け止め、白が道を整える。
二つ目の輪が現れた。今度は細い。囮を求めて筋を変え、崖の影に潜る。
ケイトリンの合図で、灯の下に置いた樹脂粉が一瞬だけ甘く香った。輪がそちらへ寄る。
「今」ディランの声が短く落ち、タイの柄が下から押し上げる。輪が空を噛んで崩れ、潮の筋へ溶けていった。
火は消えない。灯の足が熱を覚え、石が呼吸を始める。
こはるの背中から、張り詰めていた糸が一本、音もなくほどけた。息が入る。
海人が横目でそれを見た。「行けるか」
「行ける」
声は細くない。胸の棚に、火の分だけ新しい温度が生まれていた。
夜半、輪は来なかった。代わりに、沖でひとつ大きな身じろぎがあった。巣が広がるのではなく、縁がこちらへ寄るような気配。
ダルセが灯の下で囁く。「火は道になる。道は境になる。境は、守るか渡すかだ」
こはるは頷き、火に背を向けた。「渡る。明けに」
明け方の前、灯の下で短い見張りの交代。ケイトリンがこはるに温石を手渡し、掌で転がせと合図した。
温度が掌から胸へ移り、紅の拍が静かに膨らむ。白はその縁を撫で、息は棚の上をわずかに遠くへ伸ばした。
東の縁が薄く明るむ。海人が帆布を担ぎ、ディランが角笛を腰に差す。タイは柄を握り、ダルセは索を肩にかけ、ケイトリンは薬包を布に包んで帯へ収めた。
こはるは灯の前で一度だけ振り返り、火へ浅い頭を下げた。
(必ず、返す。私が)
東の縁に薄い金が差し、灯台の火床で最後の赤が小さく残った。こはるは火へ掌をかざして温度を胸に移し、袋の結び目を二度確かめた。白と紅――二つの拍が浅い棚に並ぶ。落ちない。前だけを見る。
出立の合図は短かった。
海人が帆布を肩へ回し、舳先に一度だけ拳を置く。「行こう」
ディランは角笛を腰に差し、楔と縄の数を目で数える。
タイは柄の布を巻き直し、刃ではなく木の手応えを確かめてから頷いた。
ダルセは索を肩に掛け、弦に触れないまま四拍の谷を浅く織る。
ケイトリンは苦い舌薬を一滴ずつ掌に落とし、こはるの視線の高さで「戻ったら甘いの」とだけ言って微笑んだ。
小舟が滑り出す。断崖の影が背中に落ち、翡翠と灰の境が斜めに近づいてくる。昨日、巣の縁をなぞった水だ。舟底が静かに軋み、胸の棚が薄く鳴る。
「拍、半分。息は長く」海人が低く告げる。
こはるは白と紅のあいだに、夜の火で温めた薄い膜を敷いた。風の温度が膜を押し、息がそこへ滑る。
巣の外輪に沿って舟を走らせると、海がいちど身じろぎをした。灰は薄く、底のほうで無色の骨がまぶたを開くように光る。輪は見えない――しかし、拍を嗅ぐ気配が近い。
ダルセの索が二度、短く弾かれた。〈長三〉。谷を深く――落ちない深さで。
ディランが舳先の角度を半度切り、潮の返しで舟の腹が内へ引かれないように肩で押し戻す。
タイは水を一度だけ押し、進路のしわを伸ばした。
巣の西側、光がひと筋だけ細く立った。そこに輪がいる。囮は持っていない。火もない。代わりに――灯台から持ち出した薄い灰が、帆布の端に少し残っている。
「ここで回す」海人が帆を半分だけ上げ、風を掴ませる。舟はほとんど止まらず、舳先をわずかに巡らせる。
こはるは胸の棚を一段深くし、白の拍で道を、紅の拍で熱を保つ。呼び名は来ない。けれど、昨夜と同じ寒さが喉の裏に触れ、指が無意識に袋の結びを探した。
(渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
輪は見えないまま、舟の周りに気配の段差を作る。空気が半歩遅れて戻り、水面が息を盗もうと近づく。
タイが柄で水を二度打つ。一定、余白、一定。
ディランは刃を抜かず、舟の縁に沿って身体を半身に沿わせる。来る角度だけを切り落とす構え。
ダルセの谷が一拍ぶん、長く落ち、こはるの胸で棚が静かに広がった。
――そのとき。
舳先の斜め下で、水が一つだけ白く丸く泡だった。泡は弾けず、裏返って内側へしぼむ。輪がそこにいる。
「押す」海人の声に合わせ、タイの柄が横から滑り込み、泡が形を失う。
輪は崩れず、細い紐へ変わって舟の下をくぐった。狙うのは袋でも拍でもない。舟そのもの――戻る道。
ディランが索を半分放ち、半分を握り直す。結び目が鳴り、舟の重心が沈む。
「通さない」海人が帆を半段落とし、舷側を水に預ける角度を作る。舟は引かれず、押されもしない“間”に留まった。
輪はしばらくそこにいた。嗅ぐ。食えないと見る。離れる。
無色の骨がまばたきをやめ、海は一度だけ優しく背を撫でた。巣の輪郭が奥へ退く。
「引く」ディランの声。海人が拍に合わせて櫂を押し、舟は縁を離れた。
戻る途中、こはるは初めて振り返った。灰の薄皮が海へ伏せ、翡翠の下で見えないものが眠りへうつろう。胸の棚で紅が小さく灯り、白がその火を囲う。
(まだ、橋はなくてもいい。棚で繋ぐ。今はそれでいい)
灯台の台座に戻ると、昼の光が石へ深く染み、火床の灰は白く乾いていた。
ケイトリンが待っていた。手拭いを温めて、こはるの指の節をひとつずつ包む。「冷えは抜けた。脈も通る。……戻りの拍、見せて」
こはるは胸に掌を当て、白と紅の二つを並べて息で示した。谷は浅く、棚は広い。
ケイトリンは頷き、「今夜まで甘いの。昼はもう飲まない」と短く決めた。
灯下の地図の上で、海人とディランが線を引き直す。巣の外輪は今朝より少し引いた。輪は浅い。だが、戻る。
「夜は待たない。明けにもう一度、縁で回す。……その前に――」海人が言い、視線でダルセへ渡した。
ダルセは灯の前に立ち、弦に触れずに四拍の間だけを掲げた。「疲れた拍は、浅い谷で休む。深い谷は夜だけに」
タイは柄の布を締め直し、崖の影へ視線を走らせた。「戻りの筋は二本にする。輪は片方で迷う」
ディランは角笛の合図を一段増やし、「危うければ三短。躊躇わない」と釘を刺した。
短い休息の間、こはるは火床のそばにしゃがみ、指で煤を少し摘んだ。黒は指に広がらず、粉のまま掌の谷に留まる。
「火は、消えても跡が残るんだね」
独り言に、海人が黙ってうなずいた。
「跡は道になる。君が戻るときの」
こはるは煤を払い、袋の内側にそっと塗った。布の繊維が黒を吸い、結び目の手触りが少しだけ違う形になる。二度目に躊躇わないための印。
夕刻、漂流村の者たちが干し肉と固い饅を持って上がってきた。言葉は少ない。目は火を見る。手は縄を締める。
ケイトリンは子どもの手に温石を渡し、「足を冷やさないで」と言い、母親の手に香草布をもう一枚押し込んだ。
ダルセは子どもの背丈に合わせて四拍の谷を少し短くし、拍だけで「怖さは歩ける」を伝えた。
夜は風を落とした。灯の煙はまっすぐ上へ伸び、星は少ない。海は広いが、遠くはない。
見張りの合図が二度、三度。輪は寄ってこない。代わりに、巣が時折、遠くで寝返りを打つように身じろぐ。縁は太らない。痩せてもいない。
(今は、ここに灯を置くこと)
こはるは目を閉じ、膝に指を整えて、白と紅を数えた。
明け前、空の底が淡く緩む。ケイトリンがこはるの肩を軽く叩く。「喉、通る?」
「通る」
海人が帆布を担ぎ、ディランが角笛を腰に差す。タイは柄を握って一度だけ空に振り、ダルセは索の手を改める。
「行く」
海人の合図で、みな立った。
こはるは灯へ一歩近づき、火の温度を掌で受け取って胸へ戻した。棚が一段、静かに深くなる。
(橋は無い。けれど、帰る道はある。私が、置いた)
小舟が再び滑り出す。
東の縁に金が生まれ、巣の上を薄い灰が撫でる。
白と紅が並び、息がそこへ乗る。
灯は後ろで燃え続けた。火の跡は、もう背だけではなく、胸の内側にも薄く残っている。




