第14章_翡翠の喪失
翌朝、岬の空は灰を溶かしたような淡い色をしていた。夜明けの音は小さい。波は岸で二度だけ呼吸し、三度目をためらっている。こはるは毛布を畳まず、膝に抱えたまま座っていた。胸の奥で、はっきり鳴るのは二つ――白と紅。薄青は遠のき、翡翠はどこにも触れない。微光の橋は、夜のうちに消えた場所へ戻らない。
ケイトリンが湯を持ってきて、何も言わず椀を置いた。湯気は草の甘さを含まず、ただ水の温度だけを運ぶ。
「飲める?」
こはるは頷いたつもりだったが、首が半分しか動かなかった。唇に当てた器の縁は重く、喉を通る道が狭い。
「喉は通ってる」ケイトリンは自分に言い聞かせるみたいに言い、こはるの指を一本ずつ温めた。
ダルセは火のそばで竪琴を抱えたまま、弦を鳴らさない。指先で四拍を空に描くが、谷は深く掘らない。深い谷は、落ちる。今日は浅く、短い間だけを置く。
ディランは岬の先で風の向きを読み、港への伝令文を板札にまとめている。『翡翠欠片・薄青欠片、奪取』『渦の核、東へ移動』『王都潮位、昼に一尺低下』――文字は少なく、誤解の余地がない。
タイは海を見ていた。立ったまま、両手を外套の内へ沈めて、指の節に冷えを溜めている。
海人の足音が砂の上で止んだ。彼は昨夜裂けた上着を外し、粗い布で脇腹を固く巻いていた。血は止まり、顔色は悪くない。
「港に知らせを出した。見張り線を二重にするそうだ。俺たちは――」
そこで言葉が切れた。海人は目だけでこはるを見た。こはるは視線を受け止めず、指先で砂の上に四つ目の場所を探した。見つからない。砂はどこまでも冷たい。
「戻るか、追うか」ディランが火の向こうで言った。
「追えば飲まれる」タイが短く返す。「あの輪は“間”を食いながら走る。脚はないが、腹が空けば速い」
沈黙。火が一度、ぱち、と弾けた。
こはるは両手を胸に当てた。白と紅はそこにある。白は道筋をまだ指し示し、紅は体温を弱く支える。二つは生きている。が、並ばない。間が凹んでいる。
(私が、落とした)
その言葉は夜の底で何度も出て、何度も帰ってきた。少しも痩せない。
海人がこはるの隣に膝をついた。額と額を近づける、昨夜と同じ距離。
「――借りていいか、君の“間”。」
こはるは、遅れて瞬きをした。「私の?」
「そう。俺は拍を出す。君は“間”を置いてくれ。二つしかないなら、二つで歩くやり方を今ここで決める」
彼は欄干を人差し指で叩いた。小さな四拍。強くない、けれど折れない拍。
こはるは胸の白と紅に指を当てた。間は凹んでいる。けれど、ゼロじゃない。ほんの一指ぶん、薄い空気の層が残っている。
「……置ける」
「置いてくれ」
こはるは息を吸い、三拍目を深く、長く――しかし落ちすぎないように浅い棚を作る。そこへ白と紅を、横に並べて座らせる。
胸の奥で、二つの拍が一度だけ合図を交わした。完全には合わない。だけど、同じ方角を向く。
「行ける」
自分の声が、昨日より一音だけ太くなった。
タイがゆっくり振り向く。「追うのか」
海人は首を振った。「追わない。あれは“案内”だ。自分の腹を満たすために、獲物を巣へ運ぶ。巣があるなら、戻ってくる。戻る道を作ってやる」
ディランが地図の余白に線を引き足す。「囮を置き、戻りの拍を決める。入江の外に二つ、潮の返しが作る“たまり”がある。そこに“拍”を吊る。奴が食いに来るなら、そこで待つ。来ないなら、巣は沖――渦の核のほう」
ケイトリンは頷き、薬包を三つ取り出した。「鼻と喉を開くもの、恐慌を鎮めるもの、それから……名を呼ばれても反射で返事を抑える苦味の舌薬。今日は苦いほうが効く」
ダルセが弦の上で指を横に滑らせ、音にならない線を一本引いた。「吊るす拍は強くない。けれど折れない」
準備は簡素で、遅い。わざとだ。急ぐと、穴に落ちる。
海人は退避索を岬の二カ所に張り直し、縄の結びを緩すぎず固すぎずに整えた。ディランは見張りの位置を海と陸、三角にして、死角を潰した。
タイは浜の端で砂の表面を指で撫で、昨夜輪が走った筋を探す。肉眼では見えない塩の凹みを、指の腹で読む。
「ここから来て、ここで噛んだ。次はここを通る。奴は足跡を持たないが、癖は持つ」
囮は、拍だった。
ダルセが竪琴の胴に薄い樹脂粉を塗り、四拍の谷を浅く作ってから、音にしない“間”を一定で吊った。ケイトリンが香草の布でその“間”に薄い匂いを添え、海人が風下へ流す角度を作る。
「来れば、ここで食う」ディランが低く言う。「食う瞬間、薄い膜を掛ける。剣で切らず、押す」
タイは刃ではなく、木の櫂を選んだ。「刃は輪を増やす。押す」
昼をまたいだ。潮は一度退き、ゆっくり戻る。空は曇り、翡翠は鈍い。
こはるは桟橋に背を預け、胸の白と紅を数え続けた。数えることは歩くことだった。歩き続ける限り、落ち切らないでいられる。
午後、風が紙一枚ぶん、向きを変えた。砂の上で見えない形が一つ、膨らむ。
「来る」タイが言い、海人がこはるの肩を軽く叩く。
砂の表から、黒でも白でもない輪郭が浮いた。昨夜より薄い。けれど、正確だ。囮の“間”へ一直線。
最初の輪が囮へ触れる瞬間、ダルセが谷を半拍だけ早く閉じる。輪の歯は空を噛み、進みが一瞬、鈍る。
タイの櫂が横から押し、ディランが肩で角度を切る。輪は進路を失い、海人の張った縄に絡まりかけた――が、かけただけで抜けた。
「硬い“間”には入れない。柔らかい“間”へ回る」ディランが即座に言い換える。
こはるは胸で間を一つ、増やした。白と紅のあいだに薄い棚。昼の風の匂いが棚の上に乗り、そこが自分の場所みたいに安定する。
二つ目の輪が現れた。最初より深い。囮の上で一度だけ躊躇い、次の瞬間、海側へ反転する。
「逃がすな」海人が索を引く。
ダルセの谷が長くなり、ケイトリンの布の匂いが薄まる。輪は囮を“つまらない”と見て、海のほうへ走った――その進路に、タイの櫂が既にあった。
押す。押すだけ。切らない。
輪が崩れて砂に落ち、溶ける。
静けさ。来た。通さなかった。けれど、返ってこない。欠片の気配は、揺れない。
海人がゆっくり息を吐く。「巣は、沖だ」
タイが頷く。「黒でも白でもない“核”。間を食う輪を育てる場所。渦の外縁じゃない。芯に近い」
ディランが地図に角度を記し、桟橋の杭に目印を結ぶ。「夕刻の潮で近づく。夜は入らない。明けの間際に踏み込む」
ケイトリンが短く言う。「その前に手当て。こはる、立てる?」
こはるは立ち上がった。足は地面を覚えている。歩幅は狭いが、歩ける。
「行ける」
声は細いが、空気を切らない。白と紅が胸で答え、間が一つ、息を通す。
湯屋のように整った場所はここにはない。だが、ケイトリンは浜の草と樹脂で即席の蒸気を作り、こはるの喉と肺をゆっくり開かせた。
「甘い薬は帰ったら。今は苦いほう」
こはるは頷き、苦い滴を舌で転がした。胸の紅が静かに広がり、白がその縁を撫でる。
夕霞が岬に落ちる。海は一日の重さを吐き、翡翠の底から金が一筋だけ立ち上がる。
こはるは桟橋の端で立ち止まり、沖を見た。そこに、奪われた拍がある。薄青と翡翠。両方とも、まだ呼べない。
海人が隣に立つ。言葉はない。こはるは自分の息で、短い四拍を二度刻んだ。
ダルセの谷が遠くで応える。タイは風の筋を読むのをやめ、刀に布を走らせる。ディランは角笛を腰に差し、索の結びをもう一度確かめる。ケイトリンは薬包を数え、布を新しく折る。
(取り返す。謝るためじゃない。歩くために)
こはるは胸の白と紅を並べ直し、間を一つ、深くした。
夜が来る。潮はゆっくり返し、風は息を潜める。岬の火は小さく、しかし消えない。
彼らは眠らない。眠れない。けれど、目は閉じる。拍を手放さないままで。
夜明け前、海は呼吸を潜めていた。空の底で薄金が芽吹く前、潮は一度だけ深く吸い込み、浜の砂に見えない皺をつくる。こはるは立ち上がり、裸足の指でその皺を踏みほどいた。胸の内で鳴るのは二つ――白と紅。指先に触れる冷えは、薄青と翡翠の不在を正確に知らせる。
海人が舳先に帆布をかけ、結び目を短く揃えた。「出る。巣の縁だけ確かめて、引き返す。奪い返しは今夜ではない」
ディランは退避索を二重に張り、角笛を腰に差す。「危うければ合図一度で戻る。無理はしない」
タイは刃ではなく櫂を選び、掌で木肌を撫でて重みを確かめた。「押す。切らない。あれは切れない」
ケイトリンは苦い舌薬を三滴ずつ配り、香草布に新しい折り目をつける。「舌先が痺れても、呼吸は通る。返事は喉で止めて」
ダルセは竪琴を背へ回し、索に両手を添えた。音は出さない。ただ四拍の谷を浅く織り込み、舟の動きと人の息を重ねる。
小舟が浜を離れると、岬の火が灰の下でひとつ息を吐いた。沖は平らに見え、翡翠の光が底からやわらかく押し上げる。だが、進むほど匂いが変わる。薄い鉄、湿った草、そして――昨日奪われたものの気配。
潮目の手前で、海人が櫂を立てた。「ここから先、拍は半分に切る。息は長く」
こはるは胸に掌を当て、二つの拍のあいだに棚を置いた。そこへ息をそっと滑り込ませる。白は細く、紅は低い。二つは並ぶ。
巣は、海の色で隠れていた。翡翠の上にごく薄く、灰が流し込まれ、底へ向かって円錐に狭まる。輪郭は見えないのに、舟の腹で水の重さが変わるのがわかる。
「ここだ」タイが囁き、櫂の先で水を押して示した。
その先に、音のない縁取りがあった。舟が鼻先を近づけると、波が一度だけ半歩遅れて返る。
ディランが舳先に膝をつき、眼だけを下へ落とす。「入らない。縁に沿う」
海人が櫂を浅く噛ませ、こはるの肩に短く触れた。「胸は?」
「……二つ、います。歩ける」
こはるは答えてから、言葉と別に息で拍を示した。海人の瞳が細く笑い、舟は縁に沿って滑りはじめる。
巣の外輪は静かで、内側ほど冷たい。やがて、水の底から薄い光が立った。翡翠とも薄青とも違う、無色のまばゆさ。
タイが低く言う。「空の骨だ。核はまだ起きていない」
言葉が落ちた瞬間、海はひとつ、身じろいだ。舟底の板が軋み、こはるの胸の棚がきしむ。縁の内側で、昨夜見た輪がふたつ、ゆっくりとほどけては結ばれる。
ダルセの指が索を軽く叩き、浅い谷を連ねる。海人は櫂を一度止め、舟を潮に預けた。「ここまで。巣は確かめた。戻る」
異論はなかった。戻る動きは前に進むときより難しい。舟を返す角度を誤れば、縁に触れて吸い込まれる。ディランが半身で舳先を替え、タイが櫂で横腹を押す。こはるは胸で息の幅を広げ、白と紅の列を崩さないように守った。
縁から離れたとき、潮は一度だけ優しく舟を押した。背中を撫でる掌の圧に似て、こはるの喉に熱いものが上がる。
(返す。返してもらうんじゃない。返しに行く)
心の中で言葉にすると、白の拍が小さく頷いた。紅は喉の熱を受け止めて、胸の棚へ返す。
入り江に戻ると、光はもう昼の硬さを帯びていた。岩の継ぎ目に光苔が淡く光り、浜の火は赤を深めるだけで燃え上がらない。
ケイトリンが包帯と薬包を手に駆け寄り、海人の脇腹を確かめた。「滲んでない。よかった。……こはる、顔色」
「平気」こはるは即答し、それから少し間を置いた。「歩ける」
ダルセが頷き、四拍の谷をひとつ浅く置く。「歩く拍で、立つ」
午後、王都からの板札が届いた。『潮門の礎石、露出』『船だまりの座礁、さらに増』『避難路の確保、急ぐべし』。
ディランは目を細め、地図の上で線を結ぶ。「戻り道は二通り。黒海を再び横切るか、沿岸を北上して白海経由か。後者は時間がかかるが負荷は少ない」
海人は首を振った。「時間が敵だ。黒海を斜めに切る。夜は避ける。明けと夕の間だけで進む」
タイは黙って聴き、最後に短く言った。「お前が舵を持て。俺たちは押す」
焚き火の前で、こはるは袋の口を縫い直した。破れた縁を指で辿ると、昨夜の冷たさが指先に蘇る。針目は揺れ、糸は乾いて強い。
海人が隣に座り、針を受け取った。「二重にしよう。外は粗く、内は細かく」
彼は糸の端を歯で噛み、結び目を小さく整える。こはるは黙って見ていた。結び目は音がしない。けれど、拍はある。
縫い目が閉じたころ、岬の上に短い鳴き声。見張りの交代の合図だ。
ダルセが立ち上がり、竪琴の弦に触れずに四拍を描く。「今夜は眠る。眠れないなら、目を閉じて拍だけ数える」
ケイトリンが湯を配り、苦い薬を最後に残して笑った。「これは明日。今日の舌には甘いほう」
器の中で蜂蜜の色が光る。こはるはひと口含み、思わず息を押し出した。甘さが喉を撫で、胸の棚に薄い膜を張る。
夕暮れ、タイが海岸の端で足を止めた。砂に跡は残らないが、彼の目には流れが見えるのだろう。
「輪は浅くなっている。腹が満ちたせいじゃない。巣が広がっている」
海人は短く返す。「なら、明けの潮で切る。広がる前に」
ディランが角笛を腰に差し直す。「合図は二短一長。退くときは三短だ」
夜は、昨日ほど冷たくなかった。火の温度が骨に染み、砂の上で身体が自分の重みを思い出す。こはるは横向きに寝て、胸の二つの拍を数えた。白は道を、紅は熱を。二つで足りないなら、間を深くする。足りないものの形を、そのままにしておく。
(ごめんなさい、は言わない。返しに行く。私が)
目を閉じると、舟底の軋みと櫂のきしみが重なり、小さな舟歌のように耳の奥で繰り返された。
明け方、星の最後の一粒が海に落ちる直前、こはるは身を起こした。浜の端に誰かいる。
タイだった。外套の裾を風に揺らし、海を見ている。気配に気づいて振り向きかけ、しかし振り向かない。彼は海に向かって低く言った。
「奪ったものは返す。……俺が返させる」
言葉は波に飲まれたが、こはるの胸の棚に届いた。紅が小さく反応し、白がそれを受け取る。
朝。岬の火がもう一度、灰の下で息をした。
海人が合図もなく立ち、舳先に手を掛けた。「行くぞ」
こはるは頷き、袋の結びを二度確かめる。胸の二つの拍が、静かに並ぶ。
ディランが索を放ち、タイが舟を押し、ダルセが四拍の谷を浅く置く。ケイトリンは角笛に指をかけ、見送る位置に立った。
小舟は滑り出した。翡翠と灰の縁を斜めに、黒海の気配が残る帯を最短で。海は簡単に道をくれない。だが、道は作れる。拍で、間で、掌の温度で。
こはるは胸の棚を一段深くし、白と紅を横に並べた。欠けは欠けのまま、空白は空白のまま――それでも、前へ。
沖で一度、舟底が低く鳴った。巣は遠くない。
海人が櫂を打ち、ディランが角度を示し、タイが風を読む。ダルセの谷が短く連なり、舟の息が整う。
こはるは目を開けて、前だけを見た。
(取り返す。歩くために。誰のためでもない、私のために)




