第13章_眷属の襲奪
薄曇りの朝、翡翠の海は背伸びをするみたいにゆっくりと息を吸い、吐いた。入江の岩肌に残る夜露は緑の光を細かく跳ね返し、浜の火は灰の下でぬくもりを保つ。こはるは膝を折り、胸の四拍――白・紅・薄青・翡翠――に指を当てた。揃えず、並べる。今日、その列にもう一つを迎えに行く。
ケイトリンが手早く器具を並べ、香草布と温石、喉のチンキを順に配る。「戻ったら甘い薬。行く前は苦いの、ね」
海人は舳先の結び目を改め、帆布をかけ直す。「今日で中枢まで。戻り潮は正午過ぎ、風は南西。合図は二短一長」
ディランは岩に楔を打ち、退路の紐を二重に張る。「帰り道の紐は三本目を途中で増やす。追われても迷わない」
タイは剣帯を締め直し、視線だけで海の筋を読む。「“影”は来る。拍だけで通せ」
ダルセは竪琴を背に回し、索を手にして四拍の“間”を作った。「言葉は少なく。戻る歌は長く」
水へ。珊瑚の森は朝の光でやわらぎ、皿珊瑚の縁に溜まる泡が道を縫う。裂け目の膜を抜けると、昨日より深い青が洞の奥へと続き、壁の渦彫りは密度を増して間の刻みを細かく示している。こはるは胸で三拍目の底を広げ、四拍目で浅く吐いた。
最初の空洞を過ぎ、右へ折れる緩斜面の先で、洞は唐突に開けた。天窓はなく、代わりに床そのものが光っている。丸く削られた「盆地」の中央に、涙の形をした小さな隆起――その頂に、針の穴ほどの孔。周囲の欄干は海草を模した彫りで、翡翠の苔がほの暗く光る。
ディランが短く指示を切る。「周囲、三十歩。死角なし。退路は二」
海人が縁を一周し、孔の上で掌を止めた。「圧は安定。こはる、息は?」
「行ける」こはるは頷き、両掌を胸に重ねる。白が道を、紅が体温を、薄青が深度を、翡翠が“間”を支える。
掌を孔の上へ移すと、床の光が弱く吸い寄せられ、孔の縁の砂が内へ転がった。薄青の拍がゆっくり沈み、白がそれに寄り添う。こはるは言葉を持たず、息だけで拍を渡す。
――ひと粒、揺れた。
孔の底から、星の粉みたいな光が立ち、掌へ、胸へ吸い込まれていく。冷たいのに、痛くない。翡翠の橋が列のあいだをもう一度やわらかく結び、拍は静かに整った。
その瞬間、盆地の縁の影が一枚、遅れて揺れた。
海人が掌で〈静〉を描き、タイが水を二度打って“間”を刻む。影は降りず、斜め上で旋回する。天窓はない――なら、どこから。
ディランが顎で示す。〈後ろ〉
振り返ると、入口の上、壁と天井の継ぎ目に細い裂け目。そこから薄い黒が、糸のように水へ垂れている。昨日、天窓の外で見た“花びら”と同じ濁り――〈間〉を食う形。
「渡さない」
こはるは胸の四拍の間に薄い膜を敷き、息でそれを保つ。孔の光は怯えず、掌の下でわずかに強まった。
薄い震え――盆地の底から、二粒目の光。
ダルセの索が、上から一度、長く引かれる。〈長三〉
こはるは三拍目を深く沈め、四拍目の手前でひとつ余白を増した。孔は静かに応え、光が三粒、四粒と連なって立つ。
「取るぞ」海人の指が〈今〉を描き、こはるは掌を胸へ引いた。
――五つ目の拍が、列へ加わる。
白・紅・薄青・翡翠、そのあいだに、さらに薄い光がやさしく橋をかけた。胸の内は騒がず、ただ広くなる。
退く。ディランが先頭で楔を確かめ、海人がこはるを守る位置を保ち、タイが殿で“影”の角度を読む。裂け目の手前まで戻った、その時だ。
水がひと呼吸、重くなった。洞の外から、低い唸り――黒でも白でもない、塩の奥で鳴る金属のねじれた音。
入口の継ぎ目の糸が、急に太った。花びらが三つ、四つ、五つ、絡み合って鎖を成し、まっすぐに降りてくる。狙いは列そのものではない。こはるの胸の“間”――拍の並びの間を、切り取ろうとする角度。
タイが刃を立てずに腹で水を押し、ディランが肩で進路を逸らす。海人が索を一段短く詰め、こはるの腰を支える。こはるは膜をもう一枚、息で広げた。
鎖は空を噛み、空振りする。ほどけかけた花びらが、今度は横へ走った。退路の紐へ絡みつく――。
「切らせるな!」
ディランが紐へ飛び、角度だけで鎖を弾く。タイが泡の壁を立て、海人がこはるを裂け目へ促す。こはるは胸の拍を並べ直し、三拍目の底をさらに深くする。息が静かに伸び、恐れは膜の外へ流れた。
膜を抜け、珊瑚の森へ出た。外の光は薄金、浜の火が赤く揺れる。浮上の合図――ダルセの索が二度、短く引かれる。
こはるは水面へ顔を上げ、香草布を押さえて息を整えた。頬に翡翠の冷たさ、胸に五つの拍。列は揃わず、広い。
浜へ上がった瞬間、空が低く鳴った。岬の向こう、外海のほうで黒い帯が細く走り、白海の方向へと唸りを送り込む。ケイトリンが角笛を胸に抱え、唇を引き結ぶ。「風向き、変わる。渦がひとつ、育ってる」
海人は頷き、帆布を畳みながら言う。「港へ知らせる。だが先に――」こはるの顔色を見て、言葉をやわらげた。「休め。五つ、来たんだ」
こはるは胸の列をなぞり、短く笑った。「怖いのに、広い。……大丈夫」
夕刻、岬の火を囲んで地図に新しい線が引かれた。王都からの板札が舟で届く。『潮門の水位、刻ごとに低下』『船だまりの座礁、増』。火を見つめる人々の吐息が、潮の匂いに混ざる。
ダルセが弦に触れず、四拍の空白だけを灯の上へ吊るした。「帰る拍と進む拍、同じ歌の中」
ディランは見張りの交代を詰め、ケイトリンは薬包を整える。タイは剣帯に指をかけ、海の方角へ目を細める。
「今夜、来る。奪いに」
海人は短く応じた。「来させて、通さない」
夜。翡翠の海は一度だけ深く息を吐き、入江の影が濃くなる。波の音がほどけ、拍の余白へ染みていく。こはるは毛布に背を預け、胸の列を確かめた。白、紅、薄青、翡翠、そして――今、迎えた微光。
(名は渡さない。拍も渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
そのとき、岬の端で水が小さく跳ねた。音は短く、間だけが長い。
ダルセが指で四拍を描き、海人が立ち上がる。ディランは影の角度を読み、タイが闇へ半歩、沈む。
来る。呼びながら、奪いに。
風が変わった。岬の胸裏で潮がひと段、深く鳴る。火の明かりが一度だけ低く揺れ、影が砂に長く伸びた。
「来る」タイが刀身に布を走らせ、鞘に収めたまま立つ。
ディランが見張りの位置を二歩ずらし、海と陸で挟む角度を作る。「火は落とすな。影を切らず、通す」
海人は桟橋脇の杭に結んだ退避索を確認し、こはるの肩へ掌を置いた。「拍は君が持て。俺たちは囲いを作る」
こはるはうなずき、胸の五つの拍――白・紅・薄青・翡翠・微光――を横一列に並べる。揃えず、間を広げる。
海は暗くはない。むしろ浅い緑が自ら光っている。そこへ、黒でも白でもない色が、布片のように連なって現れた。水面すれすれにすべるその列は、岬の影に沿って形を変え、やがて環のようにつながる。
環は花びらへ、花びらは鎖へ。昨夜、洞で見た〈間〉を食う形。その鎖の輪のひとつに、今度は人影がぶら下がっていた。肌はなく、輪郭は水、肩には渦の文様。黒海の眷属――だが、翡翠の濁りを帯び、灯の拍を嗅ぎ分ける。
ダルセが弦に触れないまま、空へ四拍の間を描く。海人が低く言う。「呼ばれても、返事は息で返せ」
ケイトリンは背後で薬包を開き、香草布を握りしめた。「息が乱れたら嗅いで」
鎖が砂地に影を落とし、輪が二重三重に重なってこはるへ近づく。狙いは名前ではない。胸の“間”。拍と拍のあいだ。
タイが足元の砂を蹴り、一定の間で二度、乾いた音を刻む。波紋が輪の手前で重なり、進みが半拍だけ遅れる。ディランは刃を倒し、斬らずに押す角度で輪の縁を外へ払う。
そのとき、眷属の空洞がこはるを見た。声はない。だが、胸の奥を撫でるような寒さが一条、走る。
(渡さない。私の“間”は、私のもの)
こはるは息の三拍目を深く沈め、四拍目までの余白をひとつ増やした。薄青の拍が底で静かに膨らみ、他の拍がそこへ寄り添う。
輪の一枚が空を噛み、砂に落ちて形を崩した。海人が「よし」と短く息を吐き、退避索の結びを片手で解けるように緩める。
そこで、鎖の輪が一気に細った。紐のように鋭くかたちを変え、こはるの胸ではなく、腰の袋へ――欠片の収められた布袋へ向かって走る。
「――!」
海人の手が先に動いた。こはるの腰紐を掴んで背に引き寄せ、半身で身を入れ替える。細い輪が海人の脇腹をかすめ、帆布の上着が裂けて塩の匂いがはねた。
タイが横から輪を叩き、ディランが肩で進路をはね返す。輪は鳴きもせず、ただ別の角度へ滑る。次に狙うのは――退避索。
「索は切らせるな!」
ディランが飛び、刃の腹で輪を受けた。骨を通して腕に伝わる、音のない重み。タイが二の手で砂を打ち、間をずらして輪を外へ追う。
眷属がひとり、砂の上へ降り立った。降りる、と言っても足はなく、空洞の顔と肩の渦だけが夜気を吸って形を保つ。
空洞が開き、風が後ろへ吸われる。名を呼ぶのではない。拍を引く。こはるの胸の“間”へ指を伸ばすみたいに。
こはるは一歩、前へ出た。海人の腕が止めかける――が、止めない。
彼女は香草布を口へ押さえ、息で言った。「返す。――間だけ」
四拍の三つ目を深く、長く。渡すのは余白、奪われても痛まない空間。拍そのものは膜の内側で守る。
眷属が半歩、よろめいた。空洞の内側で風が渦を巻き、鎖の輪が一瞬、痩せる。
ダルセの指が空へもう一つ、長い谷を描く。
ディランが隙を見て位置を詰め、タイが輪の根を泡の壁で絡め取る。
――届く。
こはるが胸の列を確かめた瞬間、背後で小さな布の音。
裂けた海人の上着から、血の匂いがほんの少しだけ溶け出す。その匂いに、鎖の輪が振り向いた。拍ではない、生の熱。
「下がれ!」
海人の声が遅れる。輪は砂を滑り、今度はこはるの手首――欠片を抱えた掌のほうへ伸びた。
膜がきしみ、胸の列に冷たい指が触れる感覚。こはるは反射で握り締め――遅い。輪は指の隙間へ入り込み、五つの拍のうち、いちばん新しい微光の橋に噛みついた。
世界が、きゅっと狭くなる。
胸の中の広さがひと欠け削がれ、翡翠と薄青のあいだにあった柔らかな橋が、音もなくほどけた。
こはるの膝が砂へ落ちる。息は続くのに、息が足りない。
タイが地を蹴り、輪の根を叩き折る。金属のない軋み。輪は砂に散り、海へ逃げた。
ディランがこはるの肩を抱え、海人が血の滲む脇腹を押さえながら身を屈める。ケイトリンが駆け寄り、香草布と薬包を押し当てた。
「呼吸、合わせて。――こはる、目を開けて」
こはるは目を開けた。視界はある。仲間の顔も、岬の火も、翡翠のうねりも見える。けれど胸の内側は、さっきより遥かに遠い。
「……ごめん」
声は出た。小さいが、はっきり。
海人が首を振る。「謝るな。生きている。それが全部だ」
ダルセがそっと四拍を描き、三拍目を長くする。息は戻る。だが、胸の列の並びは乱れたまま――微光の橋が、消えた。
眷属は退いていない。沖合で花びらがもう一度、輪になりかける。
「来させて、通さない」ディランが立ち上がり、剣を斜めに構え直した。
タイは影の角度を見据え、低く言う。「今度は“奪い切る”気配だ」
ケイトリンがこはるの手をつかみ、掌を胸へ戻してやる。「拍は残ってる。橋が一本切られただけ。間を増やして、並べ直すの」
こはるは頷こうとして、頷けない。胸の奥が冷えすぎて、拍の触りどころが見つからない。指が震え、視界の端が白む。
海人がこはるの額に自分の額を寄せ、低く囁いた。
「聞こえるか。――俺の拍を、借りろ」
彼は欄干を指で叩き、四拍を刻む。強くない、けれど折れない拍。
こはるは震える指で、その拍を真似た。白と紅は答える。薄青は遠い。翡翠は痛む。微光は――ない。
輪が再び押し寄せる。砂が音もなく削られ、火の明かりが吸い込まれかける。
ダルセが温石を海の上へ掲げ、灯の代わりに四拍の谷をひとつ、空に吊った。
ディランが一歩前へ出、タイがその半歩外で進路を切る。ケイトリンは角笛を握り、合図の息をためる。
波が折れ、輪が砕けた。
――ではなく、砕けるふりをして、背から回る。
タイの眼がわずかに見開かれる。「後ろ!」
輪は砂の陰を這い、こはるの背――欠片を収めた袋の結び目へ、今度は静かに触れた。
結び目が、ほどける。
海人の手が飛ぶ。間に合わない。
輪は袋の口を裂き、五つのうち二つ――翡翠と薄青を、砂の上へ弾き出した。
次の瞬間、砂から黒い水が噴き、二つの欠片を飲み込む。輪が抱え込み、海へ引く。
「――返せ!」
海人が身を投げた。タイが肩で止める。「死ぬ!」
ディランが索を投げ、輪の進路を一度だけ絡め取る。だが、鎖は〈間〉を食い、紐の余白ごと抜けた。
水は元どおり翡翠に見える。欠片の影はない。
静寂が浜に落ちた。焚き火がぱち、と小さく弾け、それきり音を立てない。
こはるは砂に手をつき、指の間の冷たさを確かめた。胸の中では、白と紅だけがはっきり鳴る。空いた場所に風が入り、薄い痛みが横切る。
自分の声が、波の底で割れた。
「……私が、落とした」
誰も否定しない。否定できない。事実はひとつ。欠片は奪われた。橋は切られた。
ケイトリンが震える肩を抱こうとして、抱かない。代わりに膝をつき、こはるの視線の高さで言った。
「息をして。今はそれだけでいい」
ダルセが弦に触れず、空だけへ四拍の谷を描く。
タイは海を見たまま、低く唸る。「追えば飲まれる。今は、生きを拾う時間だ」
ディランが港への伝令を短くまとめ、角笛を二度、三度。
海人がこはるの背に手を置いた。その手は熱く、震えていない。
「落としたのは、お前じゃない。奪ったやつがいるだけだ。――取り返す」
言葉はまっすぐだった。慰めではない。約束でもない。ただの宣言。
こはるの胸で、白と紅がかすかに揺れる。が、並ばない。
視界が翡翠の縁で滲み、涙が砂に落ちた。
彼女は顔を伏せ、短く、乾いた声で言った。
「……ごめんなさい」
岬の火は低く、海は広い。
夜風が拍を攫い、空は返事をしない。




