第12章_翡翠神殿の影
水の奥が、ひと息遅れて軋んだ。翡翠の光を砕く珊瑚の影が、絹を裂くみたいに細くゆれる。海人が合図をほどき、掌で〈静〉を描く。こはるは胸の四つの拍――白・紅・薄青・翡翠――を横一列に並べる感覚で、呼吸を浅く長く整えた。
裂け目のさらに奥、乳白の縁取りが連なって、洞の口が口紅を引くように現れる。近づくほど、壁面に刻まれた渦の浅彫りが輪郭を帯び、ところどころに海草の意匠が絡んでいるのがわかった。人の手と海の手が、長いあいだ交代で撫でた跡だ。
タイが先行し、右手で水を押しながら狭い門を抜ける。海人が続き、こはる、ディランの順。ダルセは地上で索を持ち、拍の間を送る役に回っている。
洞の内側は外よりも明るかった。光苔が壁に宿り、翡翠の光が内から満ちる。足元は砂より細かな石粉で、踏めば微かな煙のように舞い、すぐに水へ溶けた。
こはるは掌を広げ、壁の渦に触れず、ただ近さだけを測る。胸の薄青が深度を、白が道筋を、紅が体温を、翡翠が間を――それぞれがそれぞれの役を守る。
しばらく進むと、洞が大きな空洞へ抜けた。天井は高く、中心に丸い開口があって、そこから逆円錐の光が落ちている。床には低い祭台が三つ、三角形をつくるように配置され、周囲に海草を模した欄干が巻いていた。どこかで、水が歌のように小刻みに鳴っている。
ディランが手を挙げ、三つの祭台を順に指した。〈左――浄〉〈右――流〉〈奥――結〉
海人が頷き、こはるへ視線を送る。
こはるは奥の「結」の台に近づき、欄干の手前で止まった。胸の四拍が、ふっと歩幅を狭める。焦りではない、整列だ。台の中央には、指先ほどの円孔――黒海の祠、霧咲く珊瑚の洞で見たものと同型だが、ここは孔の縁に細い銀砂が敷かれている。
海人がそっと囁くように指を動かす。〈無言〉
こはるは頷き、言葉を持たない息だけで、拍を孔の上へ置く。三拍目を長く、四拍目で浅く吐く。孔の底に薄い光が芽吹き、孔の縁の銀砂が、ひと粒ずつ内側へ転がった。
そのとき、空洞の天井――逆円錐の光の縁を、影が横切った。細い、しかし速い。水が微かに下がり、耳の奥で低い唸りが擦れる。
タイが即座に体を半身にし、刃を抜かずに進路を切る角度を作る。ディランはこはるより一段後ろに位置を取り、海人は祭台の手前で掌を広げた。〈間を保て〉
影は降りてこなかった。上を、旋回する。天井の開口の縁に沿って、黒い花びらのような群れが、開いては縮む。その拍は、こちらの四拍をわずかにからかうように、半拍早い。
(乗らない。合わせない。並べる)
こはるは胸の中で、四つの拍の間に薄い膜を敷いた。息を急かすものを膜の外へ流し、自分の拍だけを足下に沈める。孔の底の光がいったんしぼみ、次の瞬間に、静かな強さで広がった。銀砂がさらさらと音もなく崩れ、孔のふちに小さな輪ができる。
左の「浄」の台で、海人が手早く器の位置を整え、孔の縁に指で印を置く。右の「流」ではディランが楔を石と石のあいだに軽く挟み、帰り道の目印を作った。三つの動きは、言葉を使わず、拍だけでつながる。
天井の影が一度、降りた。花びらがほどけ、水面に見えない手を伸ばす。
タイが前へ滑り出て、刃の腹で水を二度打つ。規則正しく、間を空けて。影の群れはその間に躓き、一枚、また一枚と形を崩した。
海人が短く頷き、こはるへ〈今〉を送る。
こはるは孔の上に掌を重ね、四拍の三つ目を深く沈めた。
――来る。
孔の底から、翡翠の粉が立ち上がり、掌へ、胸へ、吸い込まれていく。薄い冷たさと、海藻の青い匂い。四つの拍の列に、翡翠の拍が柔らかい橋をかけ、隊列がたしかに歩幅をそろえた。
その瞬間、天井の開口部で、影が形を変えた。花びらが集まり、細い輪が鎖のようにつながる。黒海で見た鎖の影――だが、ここでは翡翠色の濁りを帯び、名ではなく〈間〉を食おうとする。
ディランが低く息を吐き、刃をほんのわずかに立てる。「間」を切らずに、近づく「間」だけを逸らす角度。タイが横から泡の壁を立て、海人がこはるの背へ掌を添えて拍を戻す。
影の鎖は、こちらの余白に食いつけず、開口の縁へ引かれていった。上で、かすかな震え。天窓の外――海面側に、何かが待っている。
海人が〈撤〉の円を描く。ディランが先に移動し、退路の楔を確かめる。タイは最後尾で、影が降りる角度を読み、こはるの肩越しに一瞬だけ水を押した。
洞を離れるあいだ、こはるは振り返らなかった。背中で、空洞の歌が遠ざかる。胸では、四つの拍が同じ方角を向いて歩く。
裂け目の膜を抜け、珊瑚の森へ戻ると、霧が花のように開いていた。外の光はやわらかく、浜の火が赤で道しるべを作っている。
浮上。ケイトリンの角笛が短く二度。こはるが浜へ足を下ろすと、ケイトリンは頬と唇の色、爪の血色を確かめ、薬包を一つ差し出した。
「よく戻った。……上で何かが待ってる。影が形を変えてる」
海人がうなずく。「天窓の外だ。今は相手にしない」
タイは火の縁で剣の水気を拭い、遠い沖へ視線を細めた。「あれは“呼ぶ”。次は、呼びながら奪う」
ディランが簡潔に言う。「今日の探索はここまで。明日の朝、別の入口から中枢へ回り込む。退路の紐は二重に」
夕刻、岬の上に赤が灯る。潮は穏やかに見えるのに、海の底で何かが痩せたり太ったりしている気配が消えない。こはるは浜の端で膝を抱え、胸の四拍に指を当てた。
(揃えない。並べる。私の間で、歩く)
ダルセがそっと隣に座り、竪琴に手を置くが鳴らさない。
「音を出さない歌もある。いまはそれがいい」
こはるは笑って、小さく頷いた。
夜、見張りが交代で空を仰ぐ。灰は降らず、星は淡い。だが、天の近くで黒い花びらがひとつ、遠慮がちに開いてはしぼむ。呼ぶ声は聞こえない。拍だけが、こちらへ探りを入れてくる。
海人が囁く。「明日は、拍を奪いに来る。……でも、渡さない。名も、拍も」
「うん」こはるは胸に手を当て、目を閉じた。「渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ」
遠くで、波が一度だけ深く鳴った。岬の火が小さく応え、翡翠の海が息を整える。四つの拍は眠りへ歩調を合わせ、夜の底で静かに並び続けた。
夜は浅く、岬の火は灰の下でぬくもりを保っていた。交代の合図が低く二度鳴り、海人が浜辺に線を引いて風の向きをもう一度確かめる。こはるは毛布から起き上がり、胸の四拍に指先を置いた。白・紅・薄青・翡翠。四つは揃わない。けれど、同じ方角を向いている。
未明、潮の匂いがひと息だけ甘くなり、霧が葉脈のように広がった。ディランが角笛に触れ、「行く」と短く告げる。ケイトリンは温石を布に包み、喉のチンキを一人ずつの掌へ落とした。
「戻ったら甘い薬。今は苦いのを」
ダルセが微笑み、「苦い拍は帰り道を覚えさせる」と応じる。タイは海へ向き直り、舳先に視線を据えた。
水へ。翡翠の光は朝の薄金に混じり、珊瑚の陰影がやわらぐ。索の手応えは軽い。裂け目の膜をくぐると、昨日の空洞よりもさらに深い回廊が、右へ折れながら下っていた。壁の渦は小さく密で、間の刻みが細かい。
(早い拍では歩かない。間を、広く)
こはるは胸の四拍を横一列に並べ、三拍目の底へ余白を置いた。
やがて回廊は小さな間へ開けた。天井に丸い天窓、床は滑らかな石、中央に低い台がひとつ。台の上には何もない。孔もない。ただ、周囲の欄干に埋め込まれた銀砂が、潮の呼吸に合わせてごくわずかに揺れていた。
「“結”の副座だ」ディランが示す。「ここは空。主座は別にある」
海人が視線で〈進〉を送り、タイが先行して左手の狭い通路に身を滑らせる。
通路の奥、ほのかな光苔がみっしりと壁に宿る広間に出た。中央に円形の盆地、その縁は浅い渦に彫り込まれている。盆地の水は鏡のように凪いで、底に薄く砂が沈む。
こはるが近づくと、胸の薄青が一拍だけ深く沈んだ。
(ここが—)
彼女は言葉を持たずに膝を折り、盆地の縁へ掌を置く。白が道を、紅が体温を、薄青が深度を、翡翠が間を支える。四つの拍は揃わず、並んだまま進む。
盆地の水面が、息を吸ったようにわずかに膨らむ。沈んだ砂の一部が、細かい光の粒になって浮き上がった。光はすぐには上がらず、盆地の真ん中で渦の形に歩みをそろえる。
海人が短くうなずき、ディランは退路の紐を二重に。タイは広間の縁に身体を沿わせ、上の天窓へ眼差しを投げた。
――そのときだ。
天窓の縁に、黒い花びらが三つ、ふわりと浮かんだ。翡翠色の濁りを帯びた輪郭が寄り合い、やがて鎖のかたちになる。昨夜、天窓の外に見えたもの。今度は内へ、ゆっくり降りてくる。
鎖は名を食わない。〈間〉を食う。こちらの余白を嗅ぎ、切り取り、拍に歪みを作るための形。
こはるは胸の四拍のあいだに薄い膜をもう一枚敷いた。余白は減らさない。増やす。
「渡さない」声は出さず、息だけで言う。
ダルセの索が上から二度、短く引かれる。〈四拍・長三〉—余白を深く。
鎖は天窓から垂れ、盆地の真上で止まった。銀砂がかすかに鳴り、盆地の渦が半拍だけ早くなる。
海人がこはるの背に掌を添え、タイが鎖の進路に泡の壁を立てる。ディランは刃を立て過ぎず、鎖の“入って来る角度”だけを切る構えを取った。
鎖が一段降り、余白へ歯を立てた瞬間、こはるは拍をわずかに左へずらした。四つは揃わない。ずれたまま並ぶ。余白だけを深くする。
鎖の歯が空を噛み、音もなく空振りする。翡翠の濁りが一瞬薄れ、天窓の縁で花びらがほどけた。
盆地の底から、光が一粒、二粒と立ち上がる。
(大丈夫。私の“間”で)
こはるが掌を差し出した、そのとき――盆地の外縁、闇と光の境で影がひとつ“人の形”を取った。輪郭は水、顔は空洞、肩には渦の文様。黒海の眷属が、翡翠の広間の空気を吸って形を保つ。
ディランが即座に位置を詰め、海人がこはるの前へ半身で入り、タイは横から進路を払う。
影は人の速度で踏み込み、空洞の顔をこはるに向けた。呼ばせようとする。名ではなく、間違った拍を。
こはるは胸の拍を一段 “遅く” した。遅いのではない、深い。
ダルセの四拍の三拍目が、索を通じて彼女の背へ落ちる。
「ここ」
息の中で言葉にならない印を置く。影の空洞がわずかに軋み、踏み込んだ足が半拍ぶれる。
タイの刃の腹が水を打ち、ディランが肩で進路を外へ逸らす。海人は盆地の縁を蹴り、こはるの腰を支えながら半歩、後ろへ引いた。
鎖がふたたび降りる。今度は盆地の光そのものを奪おうと、まっすぐ。
こはるは両掌を盆地の前で重ね、四つの拍を横一列に並べたまま、三拍目の底へ静かに身を沈めた。
(私の“間”だけを渡す)
光が掌へ吸い寄せられる。冷たさと青い匂い。四つの拍の列が、翡翠の薄い橋でふたたび結び直される。
鎖の輪が空を嚙み、甲高く軋んだ。食むべき余白を見失い、花びらへほどけた輪が天窓の外へ退く。
眷属の影は形を保てず、渦の文様だけを床に残して崩れた。銀砂がさらりと鳴り、盆地の水は鏡に戻る。
こはるは胸へ掌を当て、息を長く吐いた。
「……いけた」
海人が頷き、短く微笑む。「いけた。よく保った」
ディランは退路の紐を引き、目で〈撤〉の合図。タイは最後に天窓を一度だけ見上げ、無言で広間を出た。
回廊を戻り、裂け目の膜をぬける。珊瑚の森の光は少し固く、潮の線に翡翠の影が混じる。外へ上がると、ケイトリンが角笛を半分持ち上げて止めた。
「無事。……でも、見張られてた」
「天窓だ」海人が短く返す。
ダルセが火をあおぎ、温石を布から解いた。「拍は守られた。なら進める」
岬の火を囲んだ夕刻、港からの伝令が舟で着いた。『白海—黒海南東の帯、渦の核が一度沈静』『王都—潮位が下がり、船だまりの一部座礁』という板札。
人々の顔に緊張が走る。海はここで静かでも、別の場所で痩せている。
海人が地図に新しい線を引き、ディランが王都への最短帰路と物資の再編案を簡潔に並べる。
「四つ、集まった。だが潮枯れは進む。最後の欠片を急ぐ」
ケイトリンが薬包を揃え、こはるの前へ置いた。「体を守って。役に立ちたい人は、長く立っていられなきゃいけない」
ダルセが弦を軽く弾き、四拍の間に細い灯を吊るす。「帰る拍、進む拍、どちらも同じ歌の中」
タイは火の外で剣帯を締め直し、低く短く言った。「明日、神殿中枢。……そして、誰かが奪いに来る」
その夜、こはるは寝返りを打たずに空を見ていた。星は薄く、翡翠の海は寝息をたしかに立てる。胸の四拍は、並んだまま歩調を合わせ、眠りへゆっくり入っていく。
(名は渡さない。拍も渡さない。渡すのは、私が選んだ“間”だけ)
指先で確かめる。四つの拍が、確かにそこにある。明日も、並べられるように。




