第11章_翡翠の海路
朝の光が海底の藻へ差し込み、翡翠色の反射が水面から崖肌へ揺れていた。こはるたちは入り江の浜で支度を進めていた。潮はゆっくりと満ち、砂の上に置かれた縄と楔、乾いた樹脂粉、香草布が順に影を伸ばす。胸の内では、白・紅・薄青――三つの拍が小さく位置を取り合い、眠っていた鼓のように落ち着いている。
「安全索は二本。外すなよ」
海人は舳先から岩棚へ渡した縄の結び目を確かめ、掌で力を加えて伸びを読んだ。包帯は薄く巻き直され、指は試すように握っては開く。
「潮が変わったらすぐ上がる。合図は二短一長」
ディランが楔を打ち、岩の割れ目にかませる。動きに無駄がなく、合図の確認も短い。
タイは潜水袋の栓を外して圧を確かめ、こはるの腰に浮力帯を巻いた。締め具に触れる手は手早いが、最後の一押しだけ、ほんの少しだけ弱める。
「締めすぎると息が上がる。……ここまでだ」
「ありがとう」
こはるが頷くと、タイは視線を海へ戻し、風と波の筋を読み取るように瞼を細めた。
そのとき、岩陰から軽い足音がした。振り返ると、薄い緑の外套に薬瓶を吊した若い女が手を振る。
「間に合ったみたいね」
「ケイトリン!」
こはるが思わず声を上げると、彼女は息を整えながら鞄を下ろした。栗色の髪を高く結い上げ、額には汗。
「紅海から回り道になっちゃったけど、沿岸の商船に乗せてもらったわ。黒の灰に効く布も追加で持ってきた。それと――水中で咳が出ないように喉を広げる海藻のチンキ。苦いけど効く」
海人は目を細め、安堵の笑みを見せる。「助かる。出発の前に配合を教えてくれ」
「もちろん。比率は三対一。飲むのは潜る十五分前、口は少し渇くけど心配いらない」
言いながらケイトリンは紙片に簡潔な図を描き、瓶の栓を歯で抜いて香りを確かめた。乾いた海藻と柑果の皮、それに微量の樹脂の匂いが鼻に広がる。
ダルセが竪琴の弦を軽く撫で、四拍の余白を描く。「苦い拍は、後で甘い拍に変わる」
「詩人は便利ね」ケイトリンが笑い、こはるに瓶を渡す。「一口。喉で転がして」
こはるは言われたとおりに流し込み、顔をしかめた。舌の奥が痺れ、気道がひと筋広がる感覚がする。胸の三拍が、少しだけ深く呼吸に馴染んだ。
岬の外側では、薄い霧が海面に咲いていた。霧は潮の線に沿って花のように広がり、内側で光を砕いては消す。
「“霧咲くサンゴ礁”は東の浅瀬から伸びてる」海人が指で海図の余白に線を引く。「潮が上げに変わるまで二刻。戻りは追い潮に乗る」
ディランは頷き、錆びた釘の頭を短剣で撫でた。「合図は俺とタイ。こはるは海人の後ろ、ダルセは索の支点で待機。ケイトリンは浜で手当ての準備と火。霧が深まったらすぐ角笛で知らせろ」
「了解」ケイトリンは短く返事をし、薬包を並べはじめる。
こはるは膝をつき、手を海へ浸した。冷たさは鋭くない。翡翠の層を通った光が指の周りで震え、胸の薄青が一拍、柔らかく跳ねる。
(呼んでる。深くではなく、広いほうへ)
顔を上げると、ダルセがうなずいた。「広い拍で歩く。狭いところでは、余白を増やす」
一行は水際に並び、順に海へ入った。海人が先に潜り、こはる、タイ、ディランの順。ダルセは岩棚の上で索を持ち、弦ではなく指で四拍を刻む。ケイトリンは背後で火を起こし、霧の切れ目に赤を立てる準備を整えた。
水中は、森だった。枝のように広がる鹿角珊瑚、皿のような板珊瑚、光苔に似た微細な藻が、翡翠の光を千の粒に砕いている。小魚が音の代わりに銀の閃きを残し、こはるの頬に泡が触れて弾けた。
海人が手で“右”の合図を出し、岩棚の陰へ身体を滑らせる。こはるは後に続き、薄青の拍に呼吸を合わせた。胸が慌てて早まろうとすると、ダルセの刻む四拍が索を伝って戻ってくる――三拍目が長い。そこで息をため、四拍目で細く吐く。
タイは早すぎず遅すぎず、影のように前後の距離を保つ。ディランは後方で周囲の影を見張り、珊瑚の裂け目の角度を一度だけ指で図にする。
珊瑚礁の中央部、ひときわ大きな皿珊瑚の群体に、裂け目が縦に走っていた。光がそこだけ深く落ち、縁が淡い乳白に縁取られている。
こはるが近づくと、胸の白が一拍だけ速くなった。縁に手を置き、内側を覗き込む。裂け目の底には、薄い膜のような水の層が揺れ、裏側の空間を隠している。
海人が“待て”の合図を出し、指で問いを描く。〈息・持つ?〉
こはるは親指と人差し指で輪をつくり、〈大丈夫〉と返す。
タイが先に身を沈め、肩で膜を割った。水が一枚、音もなく裏返る。続いて海人、こはる、ディランが潜る。
裏側は、静かな鐘の中にいるようだった。音が丸まり、光が遠くから降る。壁面には渦の浅彫りがあり、外からは見えなかった石の台が低く据えられている。台の中央には、指先ほどの穴が一つ。黒海の祠で見たものと似ているが、こちらは縁に細い緑の苔が付着し、冷たいはずの水が、なぜかひどく清んでいる。
こはるは胸の薄青に触れ、ふっと笑った。(ここは、怖くない)
海人が台の周りを一周し、目で〈圧・安定〉を告げる。ディランは頭上の岩の接合を確かめ、崩落の気配がないことを示した。
こはるは両手を胸に当て、三つの拍を合わせるのではなく、横に並べる。白は浅瀬の道標、紅は体温の灯、薄青は水の奥行きを知らせる。
彼女は台の穴の上で掌を止め、息の間をひとつ広げた。すると、穴の底から風ではない柔らかな圧が上がり、掌の下で拍がひとつ、ふわりと浮く。
――その瞬間、潮が揺れた。
裂け目の膜が内側からしなる。珊瑚の外で、霧が花弁を閉じるみたいに寄り、微かな影が走る。
タイが手刀で〈退避〉の合図を切った。海人がこはるの肩を押し、ディランが最後尾へ回る。
膜を抜けて外へ出ると、海がわずかに重くなっていた。珊瑚の間を黒ずんだ潮筋が一筋、蛇のように走る。
こはるは胸の拍を整え、海人の腕へ指で〈寄る〉と描いた。海人はうなずき、索を一段、短く詰める。タイは潮筋の前へ出て、珊瑚の凹みに身を沿わせ、通り過ぎる揺れの癖を読む。
――やり過ごせる。
そう判断しかけた時、黒い筋の下からもう一つ、速い影が飛び出した。昨夜、砂上に現れた“足のない影”とは違う。こちらは水に溶けた布のように軽く、しかし縁が鋭い。
ディランが刃の角度を変え、直接は斬らず、影の進路だけを逸らす。タイが腹で水を押し、影の左右へ泡の壁を立てる。こはるは薬包の小袋をひとつ、指の間で潰して粉を舌に溶かし、肺の奥の焦りを抑えた。
影は泡の壁に触れて薄まり、潮筋に引かれて遠ざかる。
海人が胸前で〈戻る〉の円を描き、ダルセの索が上から二度、短く引かれた。合図は地上と一致している。
浮上すると、霧は少し濃くなっていた。浜ではケイトリンが角笛を手に立ち、赤い布で火をあおっている。
「霧が締まる。いったん上がって」
浜に足を下ろすと、ケイトリンが手早く布を肩に掛け、こはるの爪色と唇を指で確認した。
「大丈夫。……でも、今の影、黒海のものが薄まって入ってきた感じがある」
「見えた」海人が頷く。「潮目がもう一枚、外にある。拍を外さずに、もう一度潜れるか?」
こはるは胸の三拍を確かめ、軽く息を吐いた。「行ける。今度は“間”を長めに取る」
ダルセが弦の上で指を滑らせ、四拍のあいだに一つ、無音の長い谷を作る。「ここを通す」
二度目の潜行。霧咲く珊瑚の森はさっきより静かだった。裂け目の膜は薄く、台の穴の底では、水が鏡のようにわずかに膨らんでいる。
こはるは掌を差し出し、今度は言葉を持たない息で拍を渡した。白の拍が道を示し、紅の拍が体温を守り、薄青の拍が深度を支える。
穴の底から、薄い光が粒になってほどけ、彼女の掌へ吸い寄せられた。翡翠の色が水越しに揺れる。
その瞬間、珊瑚礁の外側で霧が裂け、何かの気配が遠くで身じろぎをした。タイの指が〈速やかに〉を描き、海人が身体を翻す。ディランは最後尾で泡の筋を調整し、影を寄せつけない。
浮上。霧は薄くなり、浜の火が赤く強い。こはるは水から手を上げ、掌を胸へ押し当てた。
――四つ目。
白・紅・薄青に、新しい拍が加わる。翡翠の拍は、他の三つに鋭く割り込まず、間に柔らかい橋をかけるように並んだ。
浜に上がると、ケイトリンがこはるの頬を軽く叩き、笑った。「よく戻った」
海人は濡れた髪を払って息を吐く。「戻った。その上で進める」
ディランは霧の先、沖のほうを見て言った。「黒海の帯が薄まっている。だが、遠くで別の渦が育っている」
タイは火の影の中で剣帯を締め直し、短く告げた。「今は戻る。明日、深みで“影”が獲りに来る」
こはるは火に掌をかざし、胸の四つの拍を静かに並べた。怖れは消えない。けれど、拍は増えた。
(合わせず、並べる。私が選んだ間で)
霧の花がひとつ開いて、ひとつ閉じる。潮の匂いは甘く、風は体の熱を奪い切らない。
午後の霧は一度薄れ、潮が折り返すと、またふわりと花のように咲いた。入り江の背後では、光苔が岩の継ぎ目を縫うように瞬き、浜の火は赤子を寝かしつけるみたいに一定の呼吸で揺れている。こはるは濡れた髪を布で押さえ、胸にそっと掌を当てた。白・紅・薄青・翡翠――四つの拍は、重なり合わず、縦列にもならず、同じ方角へ並んで進む列のように、静かに歩調をあわせている。
「体温、戻った?」
ケイトリンがこはるの指先を摘み、色と温度を確かめる。
「大丈夫。喉の苦いのも……少しだけ」
「それはよかった。帰ったら甘い薬を作るわ。蜂蜜と海草の寒天。ほっとする甘さ、ってやつ」
ダルセが笑い、「甘い拍は夜更けに効く」と弦を撫でる。
海人は小舟の舷側で濡れ具合を点検し、帆布の張りを調節していた。「今日はこれで終いにして、明朝もう一度“森”に入る。潮目の外側で黒が身じろぎしている。今は相手にしない」
ディランは岬の上へ登って視界を確保し、岩伝いに戻ると簡潔に報告する。「沖の雲は西へ流れ、風は午後から南。夜半に落ち着く。見張りは二人一組、交代を短く」
タイは刃こぼれの確認を終えると、火から半歩だけ離れた場所に腰をおろし、耳で風の筋を拾った。
夕餉は簡素だった。ケイトリンの鍋で温めた貝と根菜の煮込みは、海の匂いをやさしく思い出させる。器を受け取ったこはるは、ふう、と短く息を吹いてから一口飲んだ。四つの拍が、熱を迎え入れるように細くたゆむ。
「明日は神殿の中枢を探る。入口は今日の裂け目のさらに奥、珊瑚の“洞”になっているはずだ」海人が地面に指で図形を描く。楕円の中に渦の印、そして回廊を示す線。
「ここで曲がらない。真っ直ぐ行くと圧が増える。こはるは拍の“間”を増やし、合図は二短一長で戻す」
ディランが補足する。「帰り道の目印に光苔を傷つけない。代わりに紐を三か所に渡す。水面近くには匂いの薄い樹脂粉を撒いておく。迷っても匂いで戻れる」
ケイトリンは紙片に印を写し、薬包の残量を数えた。「肺の冷えには温石。ダルセ、温石を布に包んで拍に合わせてたたんでおいて」
「拍の折り目は任せて」ダルセは竪琴を膝に置き、温石の布へ四拍の折り目をつける。
火が低くなった頃、こはるは海へ向き直り、波打ち際へ近づいた。裸足で砂に立つと、翡翠の水が足首をくすぐる。黒海の鉄の苦さはない。代わりに、海藻の青と深い塩の甘みがある。
彼女の肩に、そっと上着が掛かった。
「冷える」海人だ。
「うん。……でも、怖くはない」
「怖くなくていい。怖いときは俺が言うから」
こはるは肩をすくめ、振り返らなかった。言葉の代わりに、胸の前で小さく四拍を刻む。海人が隣で同じ拍を重ねる音が、潮の気配と混じって鼓膜を撫でた。
不意に、岬の陰で水音が跳ねた。みな一斉に顔を上げる。タイは立ち上がり、音の高さと間を測るように目を細めた。
「魚の跳ねだ。……いや、違う。誰か、泳いでる」
ディランは剣に手をやりつつ、声を抑える。「火は落とすな。明かりを嫌うものも、寄ってくるものもいる」
波間から現れたのは、人影――ではなかった。鱗の光も鰭の震えもないただの影が、ぬらりと浅瀬を滑ってくる。昨夜、黒海で見た“足のない影”に似ているが、縁に翡翠色の濁りがあり、こちらの灯を試すように揺れた。
ダルセが竪琴の弦を押さえ、音を殺したまま四拍の空白だけを示す。こはるは香草布を鼻口へ当て、胸の四拍を細く均した。
「間を崩すな」海人の囁き。
タイは石を拾い、潮の節に合わせて二度、一定の間で水面へ投げた。波紋が影の前で重なり、影はわずかにたじろぐ。ディランが一歩だけ前に出て、刃を下げた姿勢で“通す”角度を作ると、影は潮の返しに乗って岬の陰へ消えた。
火に戻ると、ケイトリンが肩を落とした。「黒の気配が薄まってるのに、別の“混ざり”が来るのね」
「境が溶ける時は、必ず混ざる。いいものも、悪いものも」ダルセが温石の包みを持ち上げ、火から離した。
「混ざったものは、並べる。混ぜ返さない」
こはるは頷き、胸の四拍を指先で数える。彼女の中で、それぞれの拍が、混ざり合わずに仲良く並ぶ景色をもう一度、確かめる。
夜半。見張りの番が交代するたび、潮は少しずつ静かになり、霧は葉脈のように薄く広がった。こはるが短い眠りから目を覚ますと、タイが岬の端で風に背を預けていた。声をかければ振り向く距離、呼ばなければ孤独な背中。
こはるは呼ばなかった。ただ、火に温石を近づけ、その熱を両の掌に分けた。彼女の中の翡翠の拍が、遠い背に小さく届くようにと願いながら。
明け方、潮の匂いが変わる。海人が起き上がり、帆布を畳んで荷を結び直した。
「行こう。洞の奥を確かめる。戻り潮は正午を回る。間違えても焦らない」
ディランが合図の角笛を腰に差し、ケイトリンは海藻のチンキを順に配る。ダルセは弦を一度だけ、音にならないほど弱く撫でた。
磯の段を降り、海へ膝を浸す。翡翠の光が肌を走り、胸の四拍がそろって息を吸う。
「歩幅を合わせよう」海人の声に、皆が短くうなずく。
こはるは振り返らず、ただ一度、岬の火跡を見た。昨夜の温度が灰の下に残り、薄く煙の匂いがする。
水へ。胸の拍が、最初の一掻きでほどよく沈み、二掻き目で浮く。珊瑚の森は朝の光でやわらかく、皿珊瑚の縁に浮く小さな泡が道しるべのように光った。
裂け目の膜を抜ける。鐘のような静けさが耳を包み、台の穴が低く息をする。
こはるは掌を穴の上に差し、言葉のない“ありがとう”を息で置いた。彼女の胸で、四つの拍が同じ方角を向く。
(もう一歩。私が選んだ間で)
そのとき、遠い奥で水が軋み、珊瑚の影が一枚、遅れて揺れた。海人が振り向き、タイが身を低く構える。ディランの手が縄をたぐり、ダルセの四拍が索を伝って降りてくる。
来るのは渦か、影か、それとも――翡翠の神殿がひそやかに開く合図か。
こはるは掌を下ろし、胸の四拍を並べたまま、水の奥へ目を据えた。




