表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/40

第11章_翡翠の海路

 朝の光が海底の藻へ差し込み、翡翠色の反射が水面から崖肌へ揺れていた。こはるたちは入り江の浜で支度を進めていた。潮はゆっくりと満ち、砂の上に置かれた縄と楔、乾いた樹脂粉、香草布が順に影を伸ばす。胸の内では、白・紅・薄青――三つの拍が小さく位置を取り合い、眠っていた鼓のように落ち着いている。

 「安全索は二本。外すなよ」

  海人は舳先から岩棚へ渡した縄の結び目を確かめ、掌で力を加えて伸びを読んだ。包帯は薄く巻き直され、指は試すように握っては開く。

 「潮が変わったらすぐ上がる。合図は二短一長」

  ディランが楔を打ち、岩の割れ目にかませる。動きに無駄がなく、合図の確認も短い。

  タイは潜水袋の栓を外して圧を確かめ、こはるの腰に浮力帯を巻いた。締め具に触れる手は手早いが、最後の一押しだけ、ほんの少しだけ弱める。

 「締めすぎると息が上がる。……ここまでだ」

 「ありがとう」

  こはるが頷くと、タイは視線を海へ戻し、風と波の筋を読み取るように瞼を細めた。

  そのとき、岩陰から軽い足音がした。振り返ると、薄い緑の外套に薬瓶を吊した若い女が手を振る。

 「間に合ったみたいね」

 「ケイトリン!」

  こはるが思わず声を上げると、彼女は息を整えながら鞄を下ろした。栗色の髪を高く結い上げ、額には汗。

 「紅海から回り道になっちゃったけど、沿岸の商船に乗せてもらったわ。黒の灰に効く布も追加で持ってきた。それと――水中で咳が出ないように喉を広げる海藻のチンキ。苦いけど効く」

  海人は目を細め、安堵の笑みを見せる。「助かる。出発の前に配合を教えてくれ」

 「もちろん。比率は三対一。飲むのは潜る十五分前、口は少し渇くけど心配いらない」

  言いながらケイトリンは紙片に簡潔な図を描き、瓶の栓を歯で抜いて香りを確かめた。乾いた海藻と柑果の皮、それに微量の樹脂の匂いが鼻に広がる。

  ダルセが竪琴の弦を軽く撫で、四拍の余白を描く。「苦い拍は、後で甘い拍に変わる」

 「詩人は便利ね」ケイトリンが笑い、こはるに瓶を渡す。「一口。喉で転がして」

  こはるは言われたとおりに流し込み、顔をしかめた。舌の奥が痺れ、気道がひと筋広がる感覚がする。胸の三拍が、少しだけ深く呼吸に馴染んだ。

  岬の外側では、薄い霧が海面に咲いていた。霧は潮の線に沿って花のように広がり、内側で光を砕いては消す。

 「“霧咲くサンゴ礁”は東の浅瀬から伸びてる」海人が指で海図の余白に線を引く。「潮が上げに変わるまで二刻。戻りは追い潮に乗る」

  ディランは頷き、錆びた釘の頭を短剣で撫でた。「合図は俺とタイ。こはるは海人の後ろ、ダルセは索の支点で待機。ケイトリンは浜で手当ての準備と火。霧が深まったらすぐ角笛で知らせろ」

 「了解」ケイトリンは短く返事をし、薬包を並べはじめる。

  こはるは膝をつき、手を海へ浸した。冷たさは鋭くない。翡翠の層を通った光が指の周りで震え、胸の薄青が一拍、柔らかく跳ねる。

 (呼んでる。深くではなく、広いほうへ)

  顔を上げると、ダルセがうなずいた。「広い拍で歩く。狭いところでは、余白を増やす」

  一行は水際に並び、順に海へ入った。海人が先に潜り、こはる、タイ、ディランの順。ダルセは岩棚の上で索を持ち、弦ではなく指で四拍を刻む。ケイトリンは背後で火を起こし、霧の切れ目に赤を立てる準備を整えた。

  水中は、森だった。枝のように広がる鹿角珊瑚、皿のような板珊瑚、光苔に似た微細な藻が、翡翠の光を千の粒に砕いている。小魚が音の代わりに銀の閃きを残し、こはるの頬に泡が触れて弾けた。

  海人が手で“右”の合図を出し、岩棚の陰へ身体を滑らせる。こはるは後に続き、薄青の拍に呼吸を合わせた。胸が慌てて早まろうとすると、ダルセの刻む四拍が索を伝って戻ってくる――三拍目が長い。そこで息をため、四拍目で細く吐く。

  タイは早すぎず遅すぎず、影のように前後の距離を保つ。ディランは後方で周囲の影を見張り、珊瑚の裂け目の角度を一度だけ指で図にする。

  珊瑚礁の中央部、ひときわ大きな皿珊瑚の群体に、裂け目が縦に走っていた。光がそこだけ深く落ち、縁が淡い乳白に縁取られている。

  こはるが近づくと、胸の白が一拍だけ速くなった。縁に手を置き、内側を覗き込む。裂け目の底には、薄い膜のような水の層が揺れ、裏側の空間を隠している。

  海人が“待て”の合図を出し、指で問いを描く。〈息・持つ?〉

  こはるは親指と人差し指で輪をつくり、〈大丈夫〉と返す。

  タイが先に身を沈め、肩で膜を割った。水が一枚、音もなく裏返る。続いて海人、こはる、ディランが潜る。

  裏側は、静かな鐘の中にいるようだった。音が丸まり、光が遠くから降る。壁面には渦の浅彫りがあり、外からは見えなかった石の台が低く据えられている。台の中央には、指先ほどの穴が一つ。黒海の祠で見たものと似ているが、こちらは縁に細い緑の苔が付着し、冷たいはずの水が、なぜかひどく清んでいる。

  こはるは胸の薄青に触れ、ふっと笑った。(ここは、怖くない)

  海人が台の周りを一周し、目で〈圧・安定〉を告げる。ディランは頭上の岩の接合を確かめ、崩落の気配がないことを示した。

  こはるは両手を胸に当て、三つの拍を合わせるのではなく、横に並べる。白は浅瀬の道標、紅は体温の灯、薄青は水の奥行きを知らせる。

  彼女は台の穴の上で掌を止め、息の間をひとつ広げた。すると、穴の底から風ではない柔らかな圧が上がり、掌の下で拍がひとつ、ふわりと浮く。

  ――その瞬間、潮が揺れた。

  裂け目の膜が内側からしなる。珊瑚の外で、霧が花弁を閉じるみたいに寄り、微かな影が走る。

  タイが手刀で〈退避〉の合図を切った。海人がこはるの肩を押し、ディランが最後尾へ回る。

  膜を抜けて外へ出ると、海がわずかに重くなっていた。珊瑚の間を黒ずんだ潮筋が一筋、蛇のように走る。

  こはるは胸の拍を整え、海人の腕へ指で〈寄る〉と描いた。海人はうなずき、索を一段、短く詰める。タイは潮筋の前へ出て、珊瑚の凹みに身を沿わせ、通り過ぎる揺れの癖を読む。

  ――やり過ごせる。

  そう判断しかけた時、黒い筋の下からもう一つ、速い影が飛び出した。昨夜、砂上に現れた“足のない影”とは違う。こちらは水に溶けた布のように軽く、しかし縁が鋭い。

  ディランが刃の角度を変え、直接は斬らず、影の進路だけを逸らす。タイが腹で水を押し、影の左右へ泡の壁を立てる。こはるは薬包の小袋をひとつ、指の間で潰して粉を舌に溶かし、肺の奥の焦りを抑えた。

  影は泡の壁に触れて薄まり、潮筋に引かれて遠ざかる。

  海人が胸前で〈戻る〉の円を描き、ダルセの索が上から二度、短く引かれた。合図は地上と一致している。

  浮上すると、霧は少し濃くなっていた。浜ではケイトリンが角笛を手に立ち、赤い布で火をあおっている。

 「霧が締まる。いったん上がって」

  浜に足を下ろすと、ケイトリンが手早く布を肩に掛け、こはるの爪色と唇を指で確認した。

 「大丈夫。……でも、今の影、黒海のものが薄まって入ってきた感じがある」

 「見えた」海人が頷く。「潮目がもう一枚、外にある。拍を外さずに、もう一度潜れるか?」

  こはるは胸の三拍を確かめ、軽く息を吐いた。「行ける。今度は“間”を長めに取る」

  ダルセが弦の上で指を滑らせ、四拍のあいだに一つ、無音の長い谷を作る。「ここを通す」

  二度目の潜行。霧咲く珊瑚の森はさっきより静かだった。裂け目の膜は薄く、台の穴の底では、水が鏡のようにわずかに膨らんでいる。

  こはるは掌を差し出し、今度は言葉を持たない息で拍を渡した。白の拍が道を示し、紅の拍が体温を守り、薄青の拍が深度を支える。

  穴の底から、薄い光が粒になってほどけ、彼女の掌へ吸い寄せられた。翡翠の色が水越しに揺れる。

  その瞬間、珊瑚礁の外側で霧が裂け、何かの気配が遠くで身じろぎをした。タイの指が〈速やかに〉を描き、海人が身体を翻す。ディランは最後尾で泡の筋を調整し、影を寄せつけない。

  浮上。霧は薄くなり、浜の火が赤く強い。こはるは水から手を上げ、掌を胸へ押し当てた。

  ――四つ目。

  白・紅・薄青に、新しい拍が加わる。翡翠の拍は、他の三つに鋭く割り込まず、間に柔らかい橋をかけるように並んだ。

  浜に上がると、ケイトリンがこはるの頬を軽く叩き、笑った。「よく戻った」

  海人は濡れた髪を払って息を吐く。「戻った。その上で進める」

  ディランは霧の先、沖のほうを見て言った。「黒海の帯が薄まっている。だが、遠くで別の渦が育っている」

  タイは火の影の中で剣帯を締め直し、短く告げた。「今は戻る。明日、深みで“影”が獲りに来る」

  こはるは火に掌をかざし、胸の四つの拍を静かに並べた。怖れは消えない。けれど、拍は増えた。

 (合わせず、並べる。私が選んだ間で)

  霧の花がひとつ開いて、ひとつ閉じる。潮の匂いは甘く、風は体の熱を奪い切らない。

 午後の霧は一度薄れ、潮が折り返すと、またふわりと花のように咲いた。入り江の背後では、光苔が岩の継ぎ目を縫うように瞬き、浜の火は赤子を寝かしつけるみたいに一定の呼吸で揺れている。こはるは濡れた髪を布で押さえ、胸にそっと掌を当てた。白・紅・薄青・翡翠――四つの拍は、重なり合わず、縦列にもならず、同じ方角へ並んで進む列のように、静かに歩調をあわせている。

 「体温、戻った?」

  ケイトリンがこはるの指先を摘み、色と温度を確かめる。

 「大丈夫。喉の苦いのも……少しだけ」

 「それはよかった。帰ったら甘い薬を作るわ。蜂蜜と海草の寒天。ほっとする甘さ、ってやつ」

  ダルセが笑い、「甘い拍は夜更けに効く」と弦を撫でる。

  海人は小舟の舷側で濡れ具合を点検し、帆布の張りを調節していた。「今日はこれで終いにして、明朝もう一度“森”に入る。潮目の外側で黒が身じろぎしている。今は相手にしない」

  ディランは岬の上へ登って視界を確保し、岩伝いに戻ると簡潔に報告する。「沖の雲は西へ流れ、風は午後から南。夜半に落ち着く。見張りは二人一組、交代を短く」

  タイは刃こぼれの確認を終えると、火から半歩だけ離れた場所に腰をおろし、耳で風の筋を拾った。

  夕餉は簡素だった。ケイトリンの鍋で温めた貝と根菜の煮込みは、海の匂いをやさしく思い出させる。器を受け取ったこはるは、ふう、と短く息を吹いてから一口飲んだ。四つの拍が、熱を迎え入れるように細くたゆむ。

 「明日は神殿の中枢を探る。入口は今日の裂け目のさらに奥、珊瑚の“洞”になっているはずだ」海人が地面に指で図形を描く。楕円の中に渦の印、そして回廊を示す線。

 「ここで曲がらない。真っ直ぐ行くと圧が増える。こはるは拍の“間”を増やし、合図は二短一長で戻す」

  ディランが補足する。「帰り道の目印に光苔を傷つけない。代わりに紐を三か所に渡す。水面近くには匂いの薄い樹脂粉を撒いておく。迷っても匂いで戻れる」

  ケイトリンは紙片に印を写し、薬包の残量を数えた。「肺の冷えには温石。ダルセ、温石を布に包んで拍に合わせてたたんでおいて」

 「拍の折り目は任せて」ダルセは竪琴を膝に置き、温石の布へ四拍の折り目をつける。

  火が低くなった頃、こはるは海へ向き直り、波打ち際へ近づいた。裸足で砂に立つと、翡翠の水が足首をくすぐる。黒海の鉄の苦さはない。代わりに、海藻の青と深い塩の甘みがある。

  彼女の肩に、そっと上着が掛かった。

 「冷える」海人だ。

 「うん。……でも、怖くはない」

 「怖くなくていい。怖いときは俺が言うから」

  こはるは肩をすくめ、振り返らなかった。言葉の代わりに、胸の前で小さく四拍を刻む。海人が隣で同じ拍を重ねる音が、潮の気配と混じって鼓膜を撫でた。

  不意に、岬の陰で水音が跳ねた。みな一斉に顔を上げる。タイは立ち上がり、音の高さと間を測るように目を細めた。

 「魚の跳ねだ。……いや、違う。誰か、泳いでる」

  ディランは剣に手をやりつつ、声を抑える。「火は落とすな。明かりを嫌うものも、寄ってくるものもいる」

  波間から現れたのは、人影――ではなかった。鱗の光も鰭の震えもないただの影が、ぬらりと浅瀬を滑ってくる。昨夜、黒海で見た“足のない影”に似ているが、縁に翡翠色の濁りがあり、こちらの灯を試すように揺れた。

  ダルセが竪琴の弦を押さえ、音を殺したまま四拍の空白だけを示す。こはるは香草布を鼻口へ当て、胸の四拍を細く均した。

 「間を崩すな」海人の囁き。

  タイは石を拾い、潮の節に合わせて二度、一定の間で水面へ投げた。波紋が影の前で重なり、影はわずかにたじろぐ。ディランが一歩だけ前に出て、刃を下げた姿勢で“通す”角度を作ると、影は潮の返しに乗って岬の陰へ消えた。

  火に戻ると、ケイトリンが肩を落とした。「黒の気配が薄まってるのに、別の“混ざり”が来るのね」

 「境が溶ける時は、必ず混ざる。いいものも、悪いものも」ダルセが温石の包みを持ち上げ、火から離した。

 「混ざったものは、並べる。混ぜ返さない」

  こはるは頷き、胸の四拍を指先で数える。彼女の中で、それぞれの拍が、混ざり合わずに仲良く並ぶ景色をもう一度、確かめる。

  夜半。見張りの番が交代するたび、潮は少しずつ静かになり、霧は葉脈のように薄く広がった。こはるが短い眠りから目を覚ますと、タイが岬の端で風に背を預けていた。声をかければ振り向く距離、呼ばなければ孤独な背中。

  こはるは呼ばなかった。ただ、火に温石を近づけ、その熱を両の掌に分けた。彼女の中の翡翠の拍が、遠い背に小さく届くようにと願いながら。

  明け方、潮の匂いが変わる。海人が起き上がり、帆布を畳んで荷を結び直した。

 「行こう。洞の奥を確かめる。戻り潮は正午を回る。間違えても焦らない」

  ディランが合図の角笛を腰に差し、ケイトリンは海藻のチンキを順に配る。ダルセは弦を一度だけ、音にならないほど弱く撫でた。

  磯の段を降り、海へ膝を浸す。翡翠の光が肌を走り、胸の四拍がそろって息を吸う。

 「歩幅を合わせよう」海人の声に、皆が短くうなずく。

  こはるは振り返らず、ただ一度、岬の火跡を見た。昨夜の温度が灰の下に残り、薄く煙の匂いがする。

  水へ。胸の拍が、最初の一掻きでほどよく沈み、二掻き目で浮く。珊瑚の森は朝の光でやわらかく、皿珊瑚の縁に浮く小さな泡が道しるべのように光った。

  裂け目の膜を抜ける。鐘のような静けさが耳を包み、台の穴が低く息をする。

  こはるは掌を穴の上に差し、言葉のない“ありがとう”を息で置いた。彼女の胸で、四つの拍が同じ方角を向く。

 (もう一歩。私が選んだ間で)

  そのとき、遠い奥で水が軋み、珊瑚の影が一枚、遅れて揺れた。海人が振り向き、タイが身を低く構える。ディランの手が縄をたぐり、ダルセの四拍が索を伝って降りてくる。

  来るのは渦か、影か、それとも――翡翠の神殿がひそやかに開く合図か。

  こはるは掌を下ろし、胸の四拍を並べたまま、水の奥へ目を据えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ