第10章_黒海の漂流村祠
夜の白さが薄れ、白海の町に灰青の朝が落ちた。湯屋の戸口に並んだ木鉢から湯気が立ち、老女が黙って一人ずつに手拭いを渡す。こはるは掌を温め、香草布を首元に結び直した。胸の欠片は静かな拍を守り、指先の温度と歩幅の合図をそっと揃えてくれる。
港では、番屋の若者たちが小舟の締め具を最終確認していた。ディランは樽の重心を整え、タイは舳先から艫まで釘の頭を押さえて緩みを確かめる。海人は積み荷の上に帆布を張り、濡れを避ける工夫を加えた。
「地下の祠には海穴が繋がっている。潮が跳ね上がる前に入って出たい」
「往路は午前、復路は午後の落ち潮を掴む」ディランが短く言葉を重ね、順路の印を指頭で示す。
ダルセは竪琴の弦を軽く撫で、四拍の空白を描いた。「息の数を数える。怖れの分だけ空白を増やす」
こはるは頷き、舷側をまたいだ。
沖へ出ると、黒と白の境は昨日より細く、波は低いが節の間に硬い歪みが残っていた。香草布越しの息は落ち着き、胸の欠片は白と紅の拍を重ねて、わずかに速い。
タイが顎で南を示す。「廃村はあの岬の陰だ。午前のうちに地下へ降りる」
海人は櫂を緩め、「欠片の拍、乱れたらすぐ言え」とこはるに囁いた。
黒砂の浜に着くと、昨日見た廃屋の骨組みが、朝の光の下でより鮮やかに崩れを露わにしていた。戸口だけが不自然に立つ家々の間を抜け、広場の石標の前で足を止める。渦の文様はかろうじて海に開き、潮の匂いが細く上がってくる。
「行こう」
ディランが先に半壊した階段へ身を沈め、楔を打ち込みながら下降の角度を作る。こはるは海人の声に合わせて足を運び、タイは殿で無言のまま風の筋と上から落ちる小石の数を数えた。ダルセは最後に降り、弦を抑えて音の出ない拍を空へ描く。
地下室は思ったより広く、壁は湿り、床は滑る。奥壁の裂け目からは海の光がわずかに覗き、そこだけ潮の呼吸が生きていた。
こはるは膝をつき、掌を石へ当てた。冷たさの下で、細い振動が走る。胸の欠片が、とくん、と低く応え、次の瞬間に半拍だけ速まった。
「近い……でも、急かされてるみたい」
海人が肩に手を置く。「急がない。呼吸を広げろ」
こはるはダルセの四拍を思い出し、三つ目と四つ目の間に余白を作る。拍は戻り、胸の奥の焦りがほどけた。
裂け目をくぐると、緩い下り坂の先に低い天井の回廊が続いていた。壁いっぱいに浅い渦の刻みが連なり、古い潮汐の記録のように強弱をつけて波形が刻まれている。足音は水に吸われ、声はすぐに短くなる。
「ここで大声を出すな。天井が落ちる」ディランが指で口を押さえ、膝を曲げた姿勢で進む。
やがて回廊は小広間に開け、中央に石の槽が据えられていた。槽の底には水が薄く張り、表面に黒い砂粒がゆっくり渦を描いている。槽の縁には拳ほどの穴が三つ。
こはるは胸から白と紅、二つの欠片を片手ずつにのせ、槽の上へ差し出した。白は静かに、紅はわずかに速く――二つの拍が槽の渦と合わさりかけ、すぐに弾かれる。
「違う。……順番と、間」
こはるは白を引き、紅だけを穴のひとつの上へ持っていく。今度は渦が一拍遅れて追いかけ、底の黒砂がわずかに沈んだ。
「紅、右。白、左。真ん中は……空ける」
海人が頷き、ダルセが指で四拍を描く。三拍目を長く――こはるが息を合わせると、槽の水が音もなく下へ吸い込まれ、床下のどこかで低い響きが生まれた。
壁が薄く鳴り、奥の壁面に亀裂が走る。氷ではない、岩の乾いた音。渦の文様の一部が回転し、わずかな隙間が縦に開いた。
ディランが体を差し入れ、内部を覗く。「通れる。狭いが、崩落の気配は薄い」
順に体を横にして滲み入る。通路の先は小さな祈りの間で、中央に低い祭台、周囲に海草を模した浮き彫り。天井には古い鎖が一本、垂れていた。
鎖の先に、黒い珠のようなものが吊られている。珠は光を吸い、周囲の色を暗くして見せた。胸の欠片が、とくん、と一度深く沈み、そこから速さを増していく。
「近づくな」タイの声が低く落ちる。「それは……」
彼は言葉を切り、鎖の根元を見上げた。そこには小さく刻まれた渦の文、そして細い文字が連なっている。こはるは顔を寄せ、指先でなぞった。
「『鎖は名を食う。名を渡すな。拍を渡せ』」
海人が短く息を呑む。「名を呼ばせて、縛る仕掛けか」
こはるは一歩前へ出た。胸の中で拍が跳ねる。怖れも跳ねる。けれど、その上に余白がある。
「私の名は渡さない」
彼女は息を長く吐き、ダルセに目で合図を送った。ダルセが四拍――三拍目を深く沈める。こはるはその間に、両の欠片を胸の前で重ね、珠とは視線を合わせず、鎖の影だけを見る。
「拍を渡す」
言葉は低く、短く。次の瞬間、小広間の空気が少しだけ軽くなった。黒い珠の周辺で、闇が一枚薄く剥がれ、鎖の軋みが緩む。
だが、鎖は完全には解けない。天井から伝う冷気が集まり、珠の表面に新しい陰りが根を伸ばした。
「足りない。……もうひとつ、拍がいる」
こはるは振り返り、仲間の顔を順に見た。タイは何も言わず、視線だけで返す。海人は頷き、ディランは位置をずらして崩落に備える。
「俺の番だな」ダルセが微笑み、竪琴を抱え直す。「短い歌で、長い余白を」
ダルセの指が一度だけ弦を鳴らす。音は祈りの間で伸びず、すぐに沈む。彼は歌詞を持たない旋律で、拍の間だけを積み重ねた。二拍、空白。三拍、深い空白。四拍目は置かず、余白のまま、こはるの呼吸へ渡す。
こはるは眼差しを落とし、欠片を胸に当てた。白と紅が、歌のない歌に合わせて早さを揃える。
「拍を渡す」
彼女が二度目の宣言を置いた瞬間、鎖の根元がほどけ、黒い珠は自重でわずかに落ちた。鈍い音。床に触れず、空中で止まる。珠の下に、薄い青の光――粒のような、欠片の反応が覗いた。
そのとき、回廊の奥から水音が一つ、跳ねた。細い飛沫が祈りの間の入口に散り、黒い影がぬらりと立ち上がる。昨夜入江で見た、足のない影とは違う。こちらは鎖の輪郭を身に巻き、渦の文様を肩に食い込ませている。
「下がれ」ディランが真っ先に動き、半身で入口を塞ぐ。タイは鎖の下から珠を外そうと手を伸ばし、海人はこはるの前へ出た。
影は音もなく近づき、空洞の顔をこちらへ向ける。こはるは香草布を押さえ、胸の拍を一点に集めた。(名前を、渡さない。拍だけ)
ダルセが弦を押さえ、四拍の前だけを空へ描く。海人が低く囁く。「吸う前に、返せ」
こはるは頷き、呼吸を半分だけ空け、胸の奥の拍をなんでもない息に紛れ込ませる。影の空洞がわずかに揺れ、返すように空気が吐き出された。鎖の歪みが緩む。
「今だ」
タイが鎖の根元を捻り、石の溝から外す。鎖が一気に緩んで床へ落ち、黒い珠は鈍く転がって祈りの間の隅へ逃げた。珠が触れていた空間に、薄青の光が花粉のように舞い、こはるの掌へ吸い寄せられる。
冷たさと温かさが同時に走って、胸の欠片が三つ目の脈で揃った。
「……取れた」
こはるは息を吐き、手の内の光を胸に押し当てる。拍は、恐ろしいほど静かに、しかし確かに増えていた。
影は鎖を失い、輪郭を保てなくなる。渦の文様だけが床に薄く残り、やがて水に溶けるように消えた。
ディランが入口から視線を外さず言う。「潮が向きを変える。戻るぞ」
海人は頷き、こはるの肩を軽く叩いた。「よくやった」
タイは鎖の最後の輪を足で払い、目を伏せる。「……まだ、ここは終わらない」
その声に、こはるは彼の横顔を見上げた。問いは、やはり飲み込んだ。今は、戻るべき拍がある。
回廊を引き返し、槽の間を抜け、裂け目へ体を滑らせる。地下室に戻ったときには、潮の呼吸が一段深くなっていた。石段を上がり、廃村の広場へ出ると、空は鈍い銀に傾き、沖の黒がわずかに高さを増している。
「舟へ」
駆け足で浜へ降り、小舟を押し出す。舳先が水を掴むと同時に、ダルセが四拍を短く数え、五つ目を空けた。波がその空白に遅れて入り、舟は余計な揺れを貰わず前へ滑る。
港への帰路、こはるは胸に重なった三つの拍を確かめた。白、紅、そして今の薄青。三つは完全に同じ速さではない。けれど、互いを乱さずに並んでいる。
(怖れは消えない。でも、並べられる。私の中で――)
白海の灯が遠くに滲み、灯台の火が昼の色を飲み込む準備を始める。こはるは香草布を外し、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
白海の灯が近づくにつれ、港のざわめきが風に乗って届いた。桟橋には番屋の若者たちが待機し、合図の旗が二度、三度と揺れる。小舟が岸に触れると、タイが最初に飛び降り、舳先の縄を杭へ掛けた。ディランは荷の重心を崩さないよう樽を押さえ、海人はこはるの手を取って舷側を渡らせる。
湯屋へ戻る前に、こはるは広場の石標の前で立ち止まった。胸の内で、白・紅・薄青の三つの拍が順に顔を上げる。完全には揃わない拍を、彼女は息でそっと並べた。
「三つ、集まった」
海人が小さく頷く。「すごいことだ。……でも焦るな。拍は揃えるものじゃなく、合わせて歩くものだ」
ダルセが弦を撫で、三拍の後に長い余白を置く。「間が息になる。息が道になる」
湯屋の老女は何も聞かずに湯と食事を用意してくれた。温かな湯気に包まれると、こはるの指先から強張りが解けていく。海人は傷の手当てを任せ、ディランは番屋へ向かって巡回の変更と港の見張り線の修正を伝えた。タイは一人で倉庫に入り、縄・楔・火打金の予備を無言で点検する。
湯屋の片隅、こはるは薄青の拍の由来を仲間に簡潔に伝えた。鎖、珠、そして「名を食う」の文。
「名を渡さず、拍を渡したら、鎖が緩んだの。珠は逃げたけど、下に薄青い光があって……それが、欠片だった」
海人は眉を寄せる。「鎖は“名”を餌にする。なら、これから先も“呼び名”で縛ろうとする仕掛けが出てくるかもしれない」
「名は渡さない」こはるは香草布をたたみながら言った。「呼ばれても、返事は私の言葉で」
ダルセが穏やかに微笑む。「名付けるのは、いつも自分だ」
夜。広場では小さな焚き火が点り、灯台の火が遠くで応える。人々は灰雪の収まりを確かめ、港の板札には『黒海南東の渦・弱』の文字が新しく刻まれた。
こはるは海人と桟橋を歩いた。潮の匂いはまだ硬いが、昨日より金属の苦さが薄い。
「海人」
「うん」
「もし“聖海の乙女”にまつわる誰かが現れて、私を『戻せ』って言ったら……そのとき、私は、ここで決めたことを言う」
海人は欄干に指を置き、四拍を作る。「言えばいい。君が決めた拍で。俺は隣で合わせる」
その確かさは、冷えた空気よりも透明で、胸の奥へまっすぐ落ちた。
翌朝、出立の準備が整った。目指すは翡翠色の海路――翠海だ。白海の人々に見送られ、彼らは港を発つ。潮は穏やかで、空の薄雲が朝日に溶ける。
岬を回ったところで、タイが舳先から身を起こした。
「進路、南南東。途中で黒海の帯を横切る。……その前に、一つ話す」
こはると海人、ディラン、ダルセが動きを止める。タイは視線を海へ投げたまま、短く息を吐いてから言葉を置いた。
「俺は昔、黒海の“鎖”に名をかけられた。孤児の頃だ。『潮の節を踏め』と教えられ、呼ばれる名で答えれば餌が出る。答えなければ、渦の底へ落ちる。拍を外せば殴られ、当てれば褒められた。……ある夜、渦の中心で“海帝”の声がした。『名を寄越せ』。俺は――呼ばなかった」
船上に風の音だけが残る。
「呼べば楽になれた。けれど、楽になるのが怖かった。だから逃げた。逃げた先で剣を覚えた。金で動くのは、拍を他人に握られないためだ」
タイはそれ以上語らず、顎をわずかに上げた。「以上。進む」
こはるは胸の拍を整え、小さく頷いた。(あなたは呼ばなかった。だから、今ここにいる。拍を他人に渡さないために)
海人は櫂を押し、言葉ではなく一定の打ち込みで返事をした。ディランは短く「了解」とだけ言い、舳先の角度を修正する。ダルセは弦に触れず、四拍の空白を長めに置いた。
昼前、黒海の帯に差しかかった。昨日より細いが、内側で何かがうごめく気配は消えない。こはるは香草布を口元に当て、欠片の拍を丹念に確かめる。白は道筋を、紅は体温を、薄青は深度を伝えるように、ひとつずつ違う場所を叩いている。
「行ける」
こはるが短く告げると、海人が拍に合わせて櫂の間を伸ばした。舟は黒と白の境を斜めに切り、舟底を舐める渦の指先をやり過ごす。タイが舷側を軽く叩いて二拍分の空白を作り、ディランが舳先の角度を半度だけ戻す。
黒の帯を抜けると、海の色がゆっくりと翡翠へ変わり始めた。光が海底の藻に反射し、水面は内側から淡く明るむ。ダルセが短い旋律で景色へ挨拶をし、こはるは胸の欠片が一拍柔らぐのを感じた。
「翠海が見えてきた」海人の頬に、久しぶりの余裕が差す。「ここからは浅瀬が増える。潮目は読めるが、岩礁に注意だ」
ディランが地図に新たな線を引き、タイは舳先で潜る光を追う。
最初の寄港地は、翡翠色の岬の陰にある小さな入り江だった。入江の奥には、崩れかけた石の鳥居が海に半ば沈み、周囲の岩には光苔が緑の火を灯している。
こはるが舷側から身を乗り出すと、胸の薄青が微かに跳ねた。
「ここにも、祠が」
「今日は確かめるだけだ」ディランが判断する。「上陸、補給、野営地の確認。明日、潜る」
海人が舫いを取り、ダルセが浜に立って音の反響を確かめる。タイは岩陰から岩陰へ視線を移し、見えない足跡をたどるように動く。
上陸してすぐ、こはるは水際に屈み、手を浸した。冷たさは鋭いが、黒海の鉄臭はなく、藻の青い匂いが微かに指へ残る。胸の欠片が、応えるように小さく脈を弾ませた。
(行ける。ここで、四つ目を)
彼女は顔を上げ、仲間たちを見た。
「準備を整えて、明日、神殿に入ろう。拍は――揃えず、合わせて」
海人が笑い、ダルセが親指の腹で弦を軽く弾く。ディランは簡潔にうなずき、タイは短く「了解」と言った。その声音は、黒海で話したときより、ほんのわずかに柔らかい。
夕暮れ、岬の上に小さな火が灯った。潮の匂いは甘く、風は体温を奪い切らない。こはるは海辺に立ち、水平線の向こうに薄く残る黒の帯を見やった。怖れは消えていない。けれど、その上に置ける拍は、昨日よりも増えている。
(名は渡さない。拍を渡す。私の言葉で進む)
波が足元に寄せ、翡翠の光を一瞬だけ残して退いた。胸の三つの拍が、同じ方向を向いて息をする。




