第1章_海辺で目覚めた少女
春の夜明けは、淡い朱色の光を水平線の向こうに描き出していた。潮の匂いと波音が耳を満たし、冷たい砂の感触が肌に伝わる。こはるはその上に横たわっていた。
目を開けた瞬間、胸の奥で強い違和感が弾ける。――ここは、どこ? 呼吸と共に吸い込む海の匂いは鮮烈で、現実感を削ぎ落とすようだった。
身体を起こそうとしたとき、耳にかすかな足音が届いた。砂を踏む音、そして声。
「おい、大丈夫か!」
声の主は、日焼けした顔に短い黒髪を揺らす青年だった。腰には短剣、胸元には小さな徽章。巡視隊の徽章だと、こはるは何故か知っていた。
青年――海人は躊躇なく駆け寄り、彼女の肩に手を置いた。
「意識はあるか? 立てそうか?」
こはるは頷こうとしたが、足に力が入らず膝を折った。
「無理しないで。少し待て」
海人は自分の上着を脱ぎ、彼女の肩に掛ける。その仕草は慣れているようで、寒さよりも安心感が先に胸に広がった。
彼は周囲を見回し、表情を引き締める。
「この時間に浜辺に倒れているなんて……。とにかく医務室だ、歩ける?」
こはるは小さく頷いた。
ふらつきながらも海人に支えられて歩き出すと、視界に広がる街並みに息をのむ。石畳の路地、色鮮やかな布を張った市場、海鳥が飛び交う音。潮風に混じる焼き魚や甘い果物の香りが鼻をくすぐる。――知らない景色。けれど懐かしい感覚が胸をかすめる。
海人は歩きながらちらりと彼女を見た。
「名前、言えるか?」
「……こはる。たぶん」
自分の声が、少し震えていた。
海人は微笑んだ。「たぶんでもいい。こはる、ね。俺は海人、巡視隊士だ。人の役に立てるなら、何でもするのが仕事でさ」
軽い調子で言いながらも、その視線は真剣だった。
医務室に着くと、こはるは柔らかい寝台に横たえられた。窓から差し込む朝日が白いカーテンを透かし、部屋全体を黄金色に染めている。
こはるは瞼を閉じ、心の奥で呟いた。(――ここは夢じゃない。じゃあ、私はどうしてここに?)
医務室の扉が開き、白衣を着た年配の女性が入ってきた。灰色の髪を後ろで束ね、冷静な目をしている。
「巡視隊士、何事です?」
海人は軽く頭を下げた。「浜辺で倒れていたんです。体温が少し低いようで」
女性は頷くと、手際よく体温を測り、脈を取った。「軽い低体温。意識はしっかりしているようね。休めば回復するでしょう」
こはるは診察を受けながら、心臓の鼓動を確かめていた。自分が誰で、なぜここにいるのか――記憶は断片的だった。ただ、名前だけは鮮明に思い出せた。それが唯一の拠り所だ。
診察が終わり、海人は彼女の傍に立ったまま言った。
「なにか思い出せることはある?」
こはるは首を横に振る。「ごめんなさい」
「謝ることじゃない。浜辺で生きていただけで奇跡だ。焦らなくていい」
その言葉は、心の奥深くに染み込むようだった。
海人は少し迷いながらも続けた。「君の格好、見覚えがある。祭祀服に似てるんだ。もしかして、王宮関係者?」
こはるは自分の服に目を落とした。淡い水色のワンピース。布地は繊細で、波の刺繍が施されている。
「……わからない。でも、何か意味があるのかも」
医務室の外から、硬い足音が響いた。扉が開くと、甲冑姿の衛兵二人と、その後ろに立つ若い男――王太子の姿があった。金髪に碧眼、威厳を纏った立ち居振る舞いは、場の空気を一瞬で変えた。
「巡視隊士、報告を」
海人は背筋を伸ばし、簡潔に状況を説明した。王太子はこはるをじっと見つめると、目を細めた。
「……聖海の乙女、なのか?」
こはるは戸惑い、言葉を失った。
「違います。私はただ――」
「黙れ」王太子の声は冷ややかだった。「乙女が行方不明になって久しい。なのにそっくりな娘が浜辺で倒れている? 偶然では済まされぬ」
海人が一歩前に出る。「殿下、彼女は混乱しているだけで、怪しい者には見えません」
「証拠があるのか?」
「ありません。ただ――」
「ならば、猶予を三日だ」王太子は命じるように言った。「三日以内に己の素性を証明しろ。できぬならば、偽者として裁く」
こはるは息を詰めた。記憶が曖昧なまま、自分が罪人扱いされるとは思ってもみなかった。
王太子が去った後、海人はこはるの肩に手を置いた。
「……大丈夫。三日あれば、何とかできる」
彼の真剣な瞳に、こはるは小さく頷いた。
窓の外では、港のカモメが鳴き、潮風がカーテンを揺らしていた。
その日の午後、海人はこはるを連れて王都の港湾区を歩いていた。潮の香りが濃く、港には大小さまざまな船が並び、荷を運ぶ人々の声が飛び交っている。
「三日で証明するって言われても、何をどうしたらいいのか……」こはるは視線を落とした。
「焦るなよ。とりあえず情報を集めよう」海人は軽やかに歩きながら言った。「この国では、潮が異常に引く現象が起きている。それと聖海の乙女の失踪は時期が重なる。おそらく無関係じゃない」
港の先端で、年老いた漁師が網を修理していた。海人が声をかける。
「親方、最近の潮はどうです?」
漁師は顔を上げ、深く刻まれた皺の間から苦笑を見せた。
「潮が枯れていくんだよ。海底が見えるなんて、俺の五十年の漁師人生で初めてさ。まるで海が死んでるみたいだ」
その言葉に、こはるは背筋が寒くなるのを感じた。
海人は軽く礼をして離れると、こはるの方を向いた。
「この潮枯れを止める方法を見つければ、君の立場もきっと変わる」
「でも、私は何も覚えてないのよ?」
「覚えていなくても、やれることはある。君にはあの腕輪があるだろ」
こはるは無意識に自分の右手首を見る。そこには波の模様が彫り込まれた銀の腕輪がはまっていた。朝、王太子に指摘されるまで存在を意識していなかったものだ。
港を離れ、二人は王立図書庫へ向かった。
図書庫は白い石造りで、柱には海を象徴する貝殻や波のレリーフが刻まれている。中に入ると、薬草の香りと古い紙の匂いが混ざり合い、静かな空気が満ちていた。
そこには、栗色の髪をきっちりと結い上げた女性がいた。ケイトリンと呼ばれる薬師で、王宮付きの研究員でもある。海人が声をかけると、彼女は眉をひそめた。
「海人、また厄介ごと?」
「情報を探してるんだ。潮枯れと海を癒やす真珠に関する記録を」
ケイトリンはため息をつきながらも棚から巻物を取り出した。
「このあたりの伝承ならここにあるわ。読むのは自由だけど、難しい古文書だから覚悟してね」
こはるは巻物を広げ、文字を指でなぞった。波と真珠、そして「五つの海域」という言葉が何度も出てくる。
「……五つの海域に散った〈海を癒やす真珠〉……これが潮枯れを鎮める鍵?」
ケイトリンは腕を組み、こはるを見た。「行くつもり?」
こはるは顔を上げて言った。「行きます」
その瞳に迷いはなかった。記憶を失っていても、ここにいる理由を見つけた気がした。
こはるの言葉に、海人は小さく笑った。
「やっぱり、そう言うと思ったよ」
ケイトリンはため息をつきながらも、その瞳の奥にわずかな興味を浮かべた。
「本気なら、準備は怠らないことね。五つの海域はどこも過酷よ。特に最初の藍海は、海賊の出没で有名だもの」
その言葉にこはるの背筋が伸びる。しかし恐れはなかった。むしろ胸の奥に、熱いものが灯っていく。
「ありがとう、ケイトリンさん。助かります」
「礼はいいから、無茶しないで」
海人はこはるを外に連れ出すと、夜空を仰いだ。王城の塔が星の光を受けてきらめいている。
「こはる、無罪放免の条件を王太子から引き出せるように交渉する。出発は一週間後になると思う」
「一週間……」
「焦るな。まずは旅の準備だ。それに、俺たちはまだ互いをよく知らない」
その夜、こはるは王城にある客間に宿泊することになった。豪奢な調度品に囲まれても落ち着かず、窓から見える海を眺めながら深呼吸を繰り返した。
(私、なんでここにいるんだろう……でも、考えても仕方ない。今は目の前のことに集中しよう)
翌朝、海人に呼ばれて王城のバルコニーに立った。朝日が水平線を黄金色に染め、海面に反射する光が揺れている。
「王太子に会ってきたよ」
海人は軽く笑いながら報告した。「条件はこうだ。〈海を癒やす真珠〉を見つけて潮枯れを止めれば、君の疑いは晴れる」
こはるは拳を握った。「やります。絶対に」
その日の午後、海人はこはるを市場に案内し、必要な旅支度を揃えた。食料、薬品、簡易テント、そして航路図。市場は色とりどりの布や果物であふれ、商人たちの呼び声が活気を生んでいた。
「こういう場所、好き?」海人が尋ねる。
「ええ、なんだか懐かしい気がする」こはるは布地を触りながら微笑んだ。
準備を終えた二人は、王城の庭園で夕暮れを迎えた。潮風が花の香りを運び、空は茜から群青へと移り変わっていく。
「出発前に、一つ約束しよう」海人は手を差し出した。「俺は必ず君を守る」
こはるはその手を握り返し、真っ直ぐに頷いた。「私も、できることは全部やります」
星々が瞬く空の下、二人は静かに視線を交わした。これから訪れる未知の旅路が、どれほど困難でも進んでいけると確信できる瞬間だった。