碧
一刻も早く此処から抜け出さなくては。
化け物にあったその日から、俺の頭はそんな想いで一杯になった。何となく……今までは、やっぱり油断していたと思う。別に今すぐ死ぬわけじゃない。少々山の知識は齧っているから、狩りをしたり、山菜やキノコを採ったり……雨風を凌いでいれば、生き延びることはできる。そう思っていた。
そうではなかった。自然に取って、やはり人間は敵なのだ。いや、敵だとすら認識してもらえていないかもしれない。別に意識することもなく、気がついたら足元で踏み潰していた、蟻のような存在……それが今の俺だった。
今まで良く見つからなかったものだ。もう悠長なことは言っていられない。このまま此処にいては、またいつあの化け物と遭遇することになるか。俺は震え上がった。
とはいえ闇雲に道を下っても、やはり出口に辿り着く可能性はかなり低いだろう。この山、この時期、かなり雨が多く、毎日のように道の表情がコロコロ変わる。倒木や落石もしょっちゅうだった。
……やはり頂上まで登ってしまおう。
焚き火が燻る洞穴の中。俺はそう決断を下した。雲の上まで登り、そこで火を起こし助けを待つ。でなければ延々と緑の迷路を彷徨い歩くこととなる。問題は……俺は唇をギュッと噛み締めた。結局あの化け物だった。アレを何とかしない限り、俺が生き残る道はない。
何とか見つからずに救助を呼べれば良いが、それは楽観視が過ぎると言うものだろう。万が一の時は、戦わなくては生き残れない。相手は人間離れしたあの巨漢。熊を狩るようなものだ。俺は震え上がった。当然そんな経験はない。
そもそも一人で狩れるような相手でもなかった。たとえば秋田のマタギだと、親方を筆頭に、数名の射手、さらに獲物を追い立てる複数の勢子で熊狩りに臨む。険しい山道を一日に数十キロ歩き回ることになり、泊まりだと数日から数十日に及ぶこともある。
古来、平地に住む人々は、山に住むマタギを異種族のように見ていたと云う。それくらいマタギの世界は独特である。彼らは、山の中では里の言葉を忌み、独自のマタギ言葉、山言葉を使う。たとえば、
熊のことは「イタズ」や「黒毛」、
猿のことは「すね」、「山の人」、
狼のことは「おきゃく」、「ヤセ」、
などと云う。天狗は「今の人」で、河童は「旅の人」である。一説によると、山の動物たちに自分たちの会話を聞かれないようにしているのだ、とも云われている。
山で「殺す」や「死ぬ」といった言葉を使ってはいけない。口笛は許されないし、歌を歌ったり、猿の話や夢の話をしてもいけない。酒や博打は御法度で、妻の月経や、家族に祝い事があると猟は中止される場合もあった。
他に変わったルールとしては、ご飯に汁をかけて食べるのも禁忌である。ただ、汁の中にご飯を入れて食べるのはアリだと言うのだから面白い。これは要するに手順の問題なのだ。しっかり手順を守らなければ、山の中では死に至る危険性があることを、彼らは普段から意識しているのである。
あの化け物を狩る。
いざとなったら、戦う必要がある。俺は覚悟を決めた。だとすればまず手順として、武器がいる。夜明けとともに、俺は洞穴を抜け出した。慎重に、猫のように足音を立てないようにして、昨日の獣道に向かった。案の定、まだ生々しい殺害現場に、禍々しい異臭と、腐った猪の首が転がっていた。目玉や肉は多少烏に喰われていたが、牙は残っていた。
俺はホッとした。黒い邪念みたいに集まっている蝿の群れを、手で追い払い、俺は猪首から牙を引っこ抜いた。歯肉が腐っていたから案外簡単に抜けた。牙は血に塗れ、赤黒く輝いていた。刃渡は15センチといったところだろうか。これを護身用の刃にするつもりだった。牙を大事に大事にベルトに引っ掛け、俺は早速、山道を登り始めた。
目指すは山の頂上だ。見上げると、雲の流れが早かった。ざらつく岩肌を、俯き加減に、足元を確かめながら慎重に歩を進める。
熊狩りの話に戻そう。熊を追う時は、足跡や糞が手がかりとなる。糞を穿ってよくよく観察すると、食べた餌の種類や順番が分かる。狩人は山の何処に、どんな木が生えているか把握している。手がかりを元に、探偵よろしく、獲物の行動を推理して追いかける。
運良く足跡を見つけても、まだ油断は禁物だ。見つけた足跡を追っていくと、道の途中で忽然と消えてしまうことがある。まさにミステリー小説である。熊や兎などの一部の野生生物は、追っ手から逃れるため、自分の足跡を逆に辿って後戻りし、途中で草むらなどに方向転換することもある。狩りは肉弾戦だけとは限らない。野生生物との頭脳戦でもあるのだ。
しばらく歩いた頃だった。山中、どうやらあの化け物らしき痕跡を発見して、俺は思わず立ち止まった。巨岩の角に、夥しい量の血と、喰い散らかした肉や骨が残されていた。アドレナリンが、一気に緊張が高まっていく。まだ近くにいるかもしれない。真っ赤に染まった前方を大きく迂回して、俺は別の道を探った。
峡谷は避ける。熊は、登山用語でタルミやコルと呼ばれる、山の鞍部を通り道にしている場合が多い。俺は昨日の惨劇を思い出した。あれほどの巨きさの化け物だ。折れ枝や足跡を注意深く観察すれば、運が良ければ、向こうに見つかる前に発見できるかもしれない。
もちろん俺に、化け物を狩った経験などあるわけ無いから、また熊狩りの話で喩えると。運良く熊を発見出来たとしよう。追い詰められた熊は、大抵、弱い方を狙って逃げ切ろうとする。熊を駆り立てる役が前述の勢子だ。勢子は親方の指示で、山の中を縦横無尽に動き回り、射手の元へと熊を誘導していく。
勢子にはコマタギと呼ばれる、比較的若い猟師がなる。文字通り命がけの鬼ごっこだ。当然体力がなければやっていけない。射手は射手で、タツ場と呼ばれる場所で身を屈め、ひたすら獲物を狙い待ち続ける。身動き一つ取れず、タバコ休憩もトイレ休憩も許されない。何時間で済めばまだ良いが、野生生物の動きなど、得てして読めないのもまた事実である。下手したら丸一日、その姿勢のまま待たされることもある。
熊の姿を見かけても、決して無闇に撃ってはならない。狙うのは頭か心臓だ。実際に撃ったことのある人は分かると思うが、銃と言うのはずっしり重く、また強い反動で中々狙いが定まらない。素人は5m先の標的にすら当たらないだろう。手負いの獣は死に物狂いで暴れ回る。確実に、一発で仕留められなければ、次の瞬間、死んでいるのは自分の方である。
あいにく今の俺に鉄砲はなかった。あるのは猪の牙だけだ。途中、拾った木の枝を括り付けて、槍のようにしてみた。心許ないが、いざとなったらこれで抵抗する他ない。
しばらく歩くと、ようやく尾根へと辿り着いた。空は白白と雲が広がり、山頂までの見通しは悪かった。もう何時間歩き続けただろう? 周囲を警戒しながら歩いていたので、随分と時間がかかった。此処で一旦体を休めよう……そう思った、まさにその時だった。
前方でがさり、と音がして、俺は身を強張らせた。髪の毛が逆立ち、心音が一気に跳ね上がる。慌てて身を屈め、草陰に隠れた。槍を前方に構え、俺はゆっくりと岩の向こうを覗き込んだ。
鹿だった。
まだ幼い子鹿が、アゲハ蝶を追っかけて岩場で跳ね回っている。俺はホッと胸を撫で下ろした。顔を上げると、次の瞬間、子鹿の姿はなくなっていた。代わりに、いつの間に現れたのか、巨大な黒い影が突然目の前に聳え立っていた。
出た!
あの化け物だ。口元から、折れ曲がった子鹿の首がはみ出している。気がついた瞬間、頭に昇った血がサッと引いていくのを感じた。悲鳴を上げる寸前で、俺はどうにか、何とかその場に踏み止まった。
逃げ出したい衝動を必死に抑える。化け物は、その場にどかっと腰を下ろして、ムシャムシャと子鹿の頭を喰べ始めた。勘弁してくれ。俺は泣き出しそうになった。現実離れしたグロテスクさが、底無しの恐怖と混じり合って、視界をぐにゃりと歪めていく。
幸い化け物は鹿に夢中で、血の臭いがそこらじゅうに蔓延しているためか、まだこちらには気づいていないようだった。
どうする?
このままやり過ごすか?
それとも……自然と槍を握る手にも力が入った。殺るなら奇襲しかない。今が絶好のチャンスだ。それは分かっていた。分かっていたが、どうにも体が思うように動かない。
改めて見ると、ますます人間離れした生き物だった。巨きいなんてもんじゃない。まるで熊と融合した人間みたいだ。座った状態でさえ、俺の身長より高いんじゃないかと思った。この山の中で、一体どんな修羅場を潜ってきたのか、全身に痛々しい生傷が見え隠れしていた。
その眼は灰色に濁り、忙しなく小刻みに動き回り、舐めるように獲物を貪っていた。なんと素手で鹿の肉を引き千切っている。そんなばかな。運良く無事に救助されても、こんな話、きっと誰も信じないだろう。俺自身、今目の前で起きていることが俄かに信じられなかった。
しばらくすると、子鹿を粗方喰い散らかした化け物が、満足そうに大きなゲップをした。そのままゴロンと横になると、目を閉じ、何とも邪悪な音のいびきをかき始めた。
どうする……?
俺の掌をつうと汗が滑った。風が強く俺の頬を撫でて行った。風上だ。こんな絶好のチャンスがあるだろうか? 今しかない。動け。動け動け動け。俺は自分に何度もそう言い聞かせ、ガクガクと震える足を無理やり動かした。ゆっくり、ゆっくり……足音を立てないように、息を殺し、慎重に化け物に近づいて行く。
鉄砲がない時代は、罠はもちろんだが、タテと呼ばれる槍で熊を狩っていたと云う。かつて冬場など、収入が途絶えた時期、狩人は熊を狩って生活の足しにしていた。1匹につき、5人家族が約1ヶ月暮らせるほどにはなったようだ。
可能な限り近づいて、確実に急所を狙わなくてはならない。近づくに連れ、もう何日も風呂に入っていないような、独特の酸味のある異臭が漂ってきた。それは俺も同じか。臭いで気付かれないのは有難い。涙目になりながら、3m……2m……俺はゆっくりと相手に忍び寄った……もう1m……行ける……行ける! 化け物の息がかかるくらいの懐に飛び込んで、俺は槍の切先を奴の胸元に向けた。
その時だった。
ポツリ。
ポツリ……と、天から雨が降ってきた。『熊を殺すと雨が降る』。冷や水をぶっかけられたみたいに、全身から血の気が引いた。固まった俺の前で、化け物が、雨に気が付いてゆっくりと目を開けた。
目が合った。その瞬間、丸太のように太く長い手がギュンと伸びてきた。俺はぎゃっと悲鳴を上げた。槍の切先を掴まれ、まるで小枝みたいに、いとも簡単に折られてしまった。のっそりと、寝起きで不機嫌そうな化け物が顔を持ち上げる。しくじった。失敗だ。俺は慌てて踵を返し、悲鳴を上げながら、転がるように逃げ出した。
ごう、ごうと、まるで山の神が逃げ惑う俺を嘲笑うかのように、突風が周囲に吹き荒れた。
追いかけっこは、残念ながら勝負にもならなかった。化け物は足の速さも異常だった。山道を、岩場や木々を物ともせず、まるでロードローラーみたいに障害物を破壊しながら強引に迫ってくる。俺はあっという間に、崖の端に追い詰められた。
もうダメだ。ヘナヘナと腰を抜かした俺の目前で、化け物が仁王立ちして、唇の端を奇妙に歪めていた。嗤っているのか。さっき子鹿を喰べたばかりだから、見逃してくれるかもしれない、なんて淡い期待はすぐに吹き飛んだ。
化け物は両手をがっしりと組み、大きく振り被ると、ハンマーのように俺の顔めがけて叩きつけた。
その衝撃。
地面がミシミシ揺れるほどの馬鹿力で、俺は、頭蓋骨が割れたと思った。鼻が顔の中にめり込み、眼球は片方潰れ、片方は飛び出した。そのままもう1発。さらにもう1発。鼓膜が破れたのか、耳が聞こえない。ただ頭の中に、キー……ンと、宇宙と交信してるみたいな高音が鳴り響き続けている。今度は腹に。昨日食べたうさぎの肉が、胃液とともに口から飛び出してきた。
雨が強くなってきた。死ぬ。⭐︎€○&⁈♦︎⩱〠。化け物は、嗤っていた。死ぬ……意識を失いかけた、その時……不意に化け物が俺にのしかかってきた。いや、違う。倒れたのだ。山頂から突風が吹き下ろしてきて、奴はバランスを崩した。俺は突如体がふわり、と宙に投げ出されるのを感じた。落ちている……化け物ごと、俺たちは真っ逆様に崖から滑落した。
……。
………。
…………。
……次に目を覚ました時、俺は暗い、暗い、暗い谷の底にいた。
暗いのか、それとも、俺の目がもう見えていないのか……身体中が痛みを限界まで訴えている。生きているのが奇跡だった。右手の感覚がない。それでも何とか上半身を起こすと、俺のすぐ横に、あの化け物が横たわっているのが朧げに見えた。死んでいる。こちらは打ちどころが悪かったのか、パックリと割れた頭から、脳漿とともに、大量の血が流れ出ていた。
俺は呻き声を上げた。急に喉が渇いて、俺は水を求めてジリジリと這いつくばった。水。とにかく水だ。水が欲しい。幸い谷底には水溜りが点在していた。碧色に濁った水溜りに、俺は勢い良く顔を突っ込んだ。
舌先の痺れる、何とも奇妙な味の水だった。しかしこの際、贅沢など言っていられない。ごぼごぼと、溺れるみたいに水を口に含み、俺はその場に倒れ込んだ。助かった。とにかく助かったのだ……そう思うと、今度は急に腹が減ってきた。嗚呼、腹が減ったな……。
ふと、水溜りに映った顔が目に入った。
その、顔。
水面に映った俺の表情からは、すっかり人間らしさが失われていた。
草食動物のように、左右逆の方向を見ている瞳。
爛れた頬の皮膚から飛び出した、赤黒い骨。
欠けた歯の間からだらだらと溢れる涎……。
……アア、ハラガヘッタ。ナニカタベタイ。ナニカ……モウロウトスルイシキノナカ、オレハホンノウノオモムクママ、ノソリトカラダヲオコシタ。




