翠
息を殺し、風下からゆっくり、ゆっくりと標的に近づいて行く。
草場の影から眼を凝らす。いた。数メートル先の木陰に、数匹の茶色い野うさぎが昼寝しているのが見えた。俺は身動き一つせず、音を立てないようにゆっくりと生唾を飲み込んだ。奴らはとにかく耳が良い。風上から近づけば一瞬でバレてしまう。
逃げ足も早い。うさぎの最高時速は80kmもある。良く『二兎を追う者は……』とは云うが、一兎を追う者ですら、一兎を得ることが出来るか、怪しいものだ。あのちっこいふわふわと、追いかけっこしても勝てる自信は正直なかったから、罠を仕掛けることにした。
罠は単純だった。針金を小さな輪っかにして、通り道に仕掛ける。野生動物は基本、罠にかかったら下がって外すという知恵がない。焦って前へ前へと逃げようとして、どんどん輪が締まり、自分の首を絞める。
子供の頃は兄と、良くこの方法で小動物を狩っていた。あのド田舎の、野生丸出しの暮らしが、まさかこんなところで役に立つとは。皮肉な運命に俺は苦笑した。
農家の両親の反対を押し切り、俺は無理やり都会の大学に進学した。都会の、何となくキラキラしたもの、とにかく田舎には無いものに憧れていた。ほぼ勘当同然で出てきたから、もう何年も連絡を取っていない。俺が今遭難しているということすら知らないだろう。こんなことになると分かっていたら、誰かに行き先くらい告げておくべきだった。
白い雲が早々と流れて行く。風向きが変わる前に、俺はわっ、と叫び声を上げ、草むらから勢い良く姿を現した。驚いた野うさぎ達が、一斉に首をもたげ、慌てて方々に駆け出した。走って追いかけると、案の定、輪っかを潜ったそのうちの1匹が、針金で自ら首を絞めて絶命していた。
俺は歓声をあげた。これで今夜はご馳走にありつける、と思った。昔は店頭でもうさぎの肉を売っていたと云う。味は鶏肉に似ていて、臭みはない。肉だけでなく骨や内臓、皮から目玉に至るまで、全部食用にされる。新鮮なうさぎなら刺身でも食べられる。毛皮は剥いだら防寒具にもなる。頭と尻の骨はちょっと硬いが、捨てるところは、腸に詰まった糞くらいである。
獲物を引っ提げ、俺は意気揚々と昨日の洞穴へと戻り始めた。可哀想だ、なんて気持ちはもはや微塵も湧いてこなかった。山の中では食べるか食べられるか、生きるか死ぬかなのだ。生きるためには殺さなくてはならない。全く生き物というのは、他の命をいただかなくては生きていけないのだと実感する。俺が死んだら、きっと熊にでも食べられるのだろう。別に哀しいとも想わなかった。それが山で生きるということだ。
そういえばコンビニでバイトしていた頃、四角いチキンを揚げて、売れ残った分は全部捨てていた。何百、何千という鶏の尊い命が、毎日食べられることもなくゴミ箱に直行していたのだが、不思議と誰からも「可哀想」だなんて言われたことはなかった。
クジラは可哀想。カンガルーは可哀想じゃない。
クマは可哀想。フライドチキンは可哀想じゃない。
人間は可哀想。鬼は可哀想じゃない。
子供は可哀想。大人は可哀想じゃない。
味方は可哀想。敵は可哀想じゃない。
まぁそれは良いとして。
突然そばの獣道から足音がして、可哀想じゃない俺は、急いで身を隠した。そのまま身を屈めていると、やがて前方から巨大な猪が姿を現した。猪の獣道だったのだ。俺は思わず呻き声を上げるところだった。猪は夜行性のはずだが。うさぎの血の臭いに惹かれて来たのだろうか?
いざとなったらうさぎを捨てて逃げよう。そう思った。獲物は惜しいが、自分の命はもっと惜しい。死んだ後に食われようが焼かれようが、別にどうでも良いが、俺はまだ生きている。
巨大な猪が鼻を鳴らし近づいてきた。俺は音を立てないように、ゆっくりと後退りを始めた。その時……不意に脇から、猪よりさらに巨大な、黒い影が飛び出してきた!
俺は思わずあっ、と声を上げるところだった。
そいつは……熊だろうか?……2mはあろうかという巨体を揺らし、突然猪に覆い被さった。こちらに背中を向けていて、顔は見えない。驚いた猪はイヤイヤするように首を振り、鋭い牙で敵を迎え撃った。猪の牙の鋭さを、俺は痛いほど知っている。子供の頃、兄が山で拾った猪の牙を、こっそりナイフ代わりに使っていたからだ。
猪が牙を光らせた。襲撃者の方はそれを避け、パッと後ろに飛び退った。巨体に似合わない軽やかな身のこなしに、俺は驚いた。距離を取った瞬間、今度は猪が、文字通り猪突猛進で突っ込んで行った。時速40〜50km。猪の走る速さである。全力を出したら猟犬でも追いつけないと云われる。
野生の本能に身を任せた、電光石火の攻撃であった。だがまたしても黒い巨体は、突っ込んでくる猪をさっと避けた。俺はおや、と思った。動き方が獣らしくない。何というか闘牛士を思わせるような、人間のような避け方だったのだ。
避けられた猪は、途中でくるりと方向転換し、再び襲撃者に向かって行った。『猪は真っ直ぐにしか進めない』なんてのは、フィクションで作られたイメージでしかなく、現実は急停止や方向転換も必要十分可能である。
俺が隠れているすぐ目の前で、激しい衝突音がした。今度は命中した。というより、避けなかった。襲撃者は、相撲取りのように猪をがっぷりよっつで受け止め。あろうことかそのまま逆さまに持ち上げた。俺は呆気に取られた。猪の体重は100kgは超える。その猪を、プロレス技よろしく頭から地面に打ち付けると、巨大猪は奇妙な嗚咽を喉から漏らし、絶命した。襲撃者が力強く雄叫びを上げた。大気が震えた。翠色の木々が騒めき、野鳥たちが一斉に飛び立つ。
その顔。
こちらを振り向いた、その顔。全身の毛を逆立たせるような、野生の咆哮にも驚いたが、何よりその顔から俺は目が離せなかった。その顔は……明らかに人間だったのだ。いや、人間離れした人間とでも言おうか。
熊じゃなかった。俺は驚いた。人間……とにかく元の作りは人間だ。それは間違いない。だが、俺が言うのも何だが、その表情からはすっかり人間らしさが失われていた。
草食動物のように、左右逆の方向を見ている瞳。
爛れた頬の皮膚から飛び出した、赤黒い骨。
欠けた歯の間からだらだらと溢れる涎。
体つきはボディビルダーのように筋骨隆々で、全身の毛深さと相待って、まさに熊と見間違うほどだった。服は着ていない。とても言葉が通じるようには思えなかった。それどころか、見つかった瞬間俺は殺されるだろう。そう確信した。そいつは、頭をかち割った猪を、あろうことかその場で解体し始めた。
ナイフ……いや、何らかの動物の牙をナイフ代わりにしている。道具を使っている。明らかに手つきは人間のそれだ。人だった時のそれ、だろうか。俺は金縛りにあったみたいに、その場から動けなくなった。
目が釘付けになっていた。猪は殺した後すぐ内臓を抜かないと、食用にできない。肉が腐ってしまうからだ。まずは体毛を抜く。毛を抜いた猪は、豚と見た目は変わらない。内臓を抜いたら、首を切り落とし、肉を切り分ける。猪は雑食だ。何でも食べる。昆虫、蝮、蛙……死体に湧いたウジですら喰う。
なのでその肉には、寄生虫がウヨウヨいる。生で食べたらあの世逝きかもしれない。襲撃者は巨体を屈め、黙々と、豪胆に作業を続けた。気がつくと辺り一面が真っ赤に染まり、饐えた鉄の臭いで、俺はむせ返りそうになった。
なんだこれは。何なんだこの状況は。俺は頭がくらくらしてきた。森は今や赤一色だ。血だらけの四肢が、猪の首が、無造作に地面に転がっている。やがてそいつは、綺麗に切り取った猪の心臓を拾い上げ、厳かな手つきで近くの岩の上に掲げて置いた。何かの儀式だろうか? 獲物を授かったお礼に、山の神に臓物を捧げる風習が、あるのはあるらしいが……。
兎狩りの高揚感はすっかり萎んでいた。殺人現場を目撃した気分だった。よく途中で吐かなかったと思う。そいつは食べられる分だけの肉を脇に抱えると、再び山の奥へと姿を消した。
俺はというと、しばらくその場から動けなかった。腰を抜かしていたのだ。声も出せないほどに怯えていた。少し時間が経ってから、全身を、寒気がするほどの震えが襲った。何処かでカチカチと変な音がすると思ったら、俺の歯だった。
化け物……。
そうとしか思えない。山で出会した、謎の巨大な化け物のせいで、俺はその晩、またしても寝付けなかった。




