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 ……嗚呼、腹が減ったな。


 疲労で、足は棒のようだったが、それよりも空腹の方が堪えた。もう3日は何も食べていない。もっとも携帯電話も含め、時計のバッテリーはとっくに0%なので、正確な時間は分からないが。全く、何がスマートウォッチだ。俺はひとり悪態を吐いた。充電が必要な、わずか1日も持たない時計など、いざという時何の役にも立たない。


 特にこんな、山の中で遭難した時などは!


 横殴りの冷たい風が木々を揺らし、ごう、ごうと化け物のような雄叫びを上げている。山の神が俺を嘲笑っているようだった。聞くところによると山の神は、醜女(しこめ)で、嫉妬深く、コロコロと機嫌が変わると云う。俺は身を縮こめた。雨が降り始める前に、適当な洞穴を見つけなくては。重たい足を引き摺って、俺は山道を急いだ。


 夜が来た。山の中腹に良さげな洞穴を見つけ、俺は体を投げ出すようにしてそこに飛び込んだ。中は暗く、そして凍えるほど冷たかった。今日はもう、疲れた……が、そうも言っていられない。夏とはいえ、標高はおそらく2000m近く。急いで暖を取らなければ命に関わる。俺は重たい体を無理やり起こした。


 サバイバルでは、食事も大事だが、まずは体温の確保だ。

酸素は3分。

体温は3時間。

水は3日で、食料は3週間。

 いわゆる『3の法則』と言うやつだ。人間の限界は大体こんな感じで、それくらい体温の調節は大切なのだ。ここまで来て凍死はごめんだ。俺は入ったばかりの洞穴から顔を覗かせた。雨で濡れそぼってしまう前に火種を集める。ライターはとっくにガス欠だし、マッチもない。


 杉や松脂、枯れ枝など……何とか目的のものを集めて戻ると、間一髪、待っていたかのように雨が降り始めた。霧のカーテンが降りてきて、緑の森を白く染め上げる。俺は慌てて黒い穴の中に引っ込んで、人類が初めて手にした魔法……火と格闘を始めた。


 火種を並べる。顔を真っ赤にして、手が痛くなっても棒を擦り続ける。何とも原始的なやり方だった。永遠とも思える長い長い時間の果てに、ようやく小さな赤い揺らぎが顔を覗かせた時、俺は嬉しくて嬉しくて、思わず涙が出そうになった。まさに魔法だ。


 洞窟の中がたちまち明るくなった。幸い洞穴は奥まで深く長く続いていて、換気は大丈夫……なようだった。ここを見誤ると一酸化炭素中毒で死んでしまう。俺は焚き火の前で胡座を掻き、そこら辺で拾った、名前も知らない黒いキノコを炙って焼いた。あれこれ考える前に口に放り込む。毒があったらそのままお陀仏だ。全く、生と死が隣り合わせのような毎日だった。


 腹八分目……どころか腹一分目と言った具合だった。食べたら余計に腹が減った。肉が食いたい。明日は野うさぎを狩ろう。そう思いながら、俺は枯葉で作ったベッドの上にごろんと寝転んだ。目を瞑る。洞穴の底から、ごう、ごうと闇に手招く声が聞こえた。


 ……こんな生活を続けて、もう何日になるだろうか?


 いや、何週間、何ヶ月……か? 

 時間や曜日の感覚はとっくに無くなっていた。山に登ったのは8月11日。それは覚えている。日帰りの予定だったから、携帯食も水分も、そこまで多く持ってきていなかった。


 大学生で、夏だった。暇だった。何か碌でもない、身の丈に合わないことを考えるくらいには。山の頂上で日の出を迎えたらどんなに美しいだろう。そう思った。日の出の時間を逆算して、深夜、終電が終わった後に登山を開始した。いわゆるナイトハイクという奴だ。


 夜の山に入ったことはあるだろうか? 

 もう本当に、墨の中で溺れているかと思うほど一寸先が闇の中の闇で、自分の手すら見えない。頭に付けたライトの明かりが、そこだけ切り取られたみたいに白く浮かび上がって、視界はただそれだけである。頭上は鬱蒼とした木々に覆われ、星の光も届かない。下手なホラーゲームよりホラーしてる。


 何が恐ろしいって、その状況で、音だけはいつもより過敏に聞こえるのである。見えないだけに余計に鼓膜に響く。風の音、川の音、それから野生の獣の息遣い……近くでガサガサと足音がするたびに、俺の心臓はカエルみたいに飛び上がった。道の向こうに、オートバイほどの巨大な謎生物(イノシシだろうか?)を目撃した時は、さすがに寿命が縮まった。


 これは俺の持論だが、ホラー映画の恐怖要素の約4割は、あのおどろおどろしい『音』のせいだと思っている。現にミュートにしたり、BGMを変更すると恐怖が薄らいでるような気がする。それくらい、『音の恐怖』というのは、脳を直接揺さぶってくる。


 さらに登山道というのは、大抵が崖であった。山で亡くなる人も少なくないと聞くが、なるほど一歩踏み外したら奈落の底に転落するような道ばかりなので、さもありなんと言ったところだろう。地図を見れば大丈夫でしょ、と思うかもしれないが、結構雨などで、いざ登ってみると道自体が変わっていることも少なくない。文字通り道そのものが川になっていたり、昨日はなかったはずの倒木や岩が、道のど真ん中に落ちていたりする。


 そんな、昼間でも「そりゃ死ぬわ」と思える崖の脇を、視界不良の真夜中に登っていくわけだから、当然危険度は極まりない。早いとこ登ってしまいたい。その焦りが過ちを生んだ。気がつくと俺は足を踏み外し、崖から滑落していた。何だか遠くから悲鳴が聞こえると思ったら、俺の声だった。

 

 どれくらい落ちただろうか。ようやく落下が止まった時、俺はでんぐり返しのような体勢のまま、逆さまに(そら)を見ていた。頭が痛い。いや、身体中が痛みで悲鳴を上げている。泣き笑いのような呻き声が出た。服が破け、全身傷だらけの血だらけだったが、幸い致命傷には至らなかった。まだ生きている。この時ばかりは俺も神に感謝した。


 問題は此処からである。


 懐中電灯が壊れてしまった。視界は完全に闇に包まれた。危うくパニックになりそうになって、俺はひたすら深呼吸を繰り返した。落ち着け。落ち着け。自分にそう言い聞かす。山で遭難したら、無闇に降らず、山頂を目指せと良く言われる。闇雲に降りると、地図にも載っていないような谷間に迷い込んだりする。上に行けば視界も開け、方角も分かるからである。


 時計を確認すると、夜中の2時を過ぎたところだった。日の出まであと数時間……寒かったが、いたずらに動くべきではないと判断し、俺は此処で時間を潰すことにした。


 眠れなかった。当然だ。果たしてそのまま夜が明けた。野鳥の囀りが四方から降り注ぐ。明るくなって分かったのは、俺が落ちたのは、山の中腹の、杉が生い茂る窪みということだった。


 痛みと眠気で朦朧としながら、慎重に、ゆっくりと足を伸ばした。動く。骨が折れている様子もない。良かった……俺はホッとした。落ちた崖は反り立っていて、登れそうになかったので、迂回して登山道を目指すことにした。ザックの中に入っていた、空になったペットボトルやら弁当の包みやら、余計な荷物は置いていく。山を汚すのは気が引けるが、命を失っては元も子もない。


 ふと顔を上げると、ポツ、ポツ……と雨が降り始めていた。雨……山の神は血を嫌うのだと云う。山で殺生が行われると、雨が降り、血を洗い流すのだとか。他にも

「山で猿が騒ぐと雨が降る」

「野うさぎを昼間見かけると天気が崩れる」

「熊を殺すと雨が降る」

 といった口伝(くでん)もある。


 これは何も迷信ではなく、一般的に動物は雨を嫌うのである。嗅覚が効かなくなることや、体臭が洗い流されることを本能的に嫌っている。雨の前には動物は異常行動を取りやすい。熊が出没する時は大抵、奴らは天気が崩れる前に食い溜めをしておこうとしている。狩人(ハンター)はそこを狙うのだ。なので熊殺しの後は、往々にして雨が降るのである。


 俺はなけなしの勇気を奮い立たせて、よろよろと歩き始めた。しかし……だ。


 しばらく経っても、何処にも辿り着けない。峰にも、分岐点にも、自分が今何処を歩いているのかさえ、地図を見てもさっぱり分からなくなってしまった。


 簡単に言えば、遭難したのである。

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