昔話2
昔々あるところに、幽閉された身重の女がおりました。
女の閉じ込められた部屋は、四方がつるつるとした白い壁に囲まれ、床と一体になっているベッド、むき出しのトイレがあるだけの、無機質なものでした。
窓や電灯の類はないものの、部屋自体が薄く発光しているのか、暗くはありませんでした。
一つだけあるドアは壁と同じ材質と思われますが、継ぎ目も取っ手もありません。
部屋は暑くも寒くもなく一定の温度で、ひと月に週に一度、天井からシャワーのような放水があり、ベッドや床の汚れは洗い流される仕組みです。
身体はその時に洗う必要がありました。
日に3度、ドアの下からトレイに乗った食事が出てきます。
トレイの取り外しはできず、その場に座って食べるしかありません。
それも一定時間が経つと、食べていてもいなくても強制的に下げられてしまいます。
外部との接触はそれだけで、女はすでに外に出ることをあきらめていました。
やがて臨月になり、陣痛がはじまり、まさに出産という時も、誰も来ませんでした。
女はそんな状況下で、奇跡的に母親となりました。
生まれたのは双子の姉弟でした。
双子はとても元気がよく、決して子育てに適した環境とは言えないながらも、母親の愛情と献身を受け、すくすくと育っていきました。
双子は2歳、3歳と成長するうちに、言葉があることを知りましたが、正しい発音は知りませんでした。
それもそのはずで、言葉を学ぶべき唯一の手段である母親が、出産直後から声を失っていたのです。
しかし母親は双子に発声の際の口の形や、物体を指す名称とそれを表す文字があることを教えました。
母親と双子の間のやりとりには支障ありませんでしたけれども、部屋の物が少なすぎること、概念的な言葉や接続詞なども説明ができず、語彙は豊富とは言えません。
さらに時がたち、母親は一日のほとんどをベッドで過ごすようになっていきました。
永く孤独な幽閉に加え、出産で無理をしたことが追い打ちになり、双子が良く育つほどに痩せ、窶れていきました。
二人は母親を何とか慰めようと、いろいろとお話しをしました。
母親は愛おしそうにその様子を眺め、ときおり姉弟の、生まれてから一度も切っていない長い髪を、交互に手櫛するのでした。
二人が5歳になるある日、半身を起こした母親は、姉弟をベッドの脇に呼びました。
そうして、まず姉の手のひらを自分の左手でつつみ、右ひとさし指で撫でる、といった動作を2回しました。弟にも同じようにしました。
姉も、弟も、母親の撫で方が姉弟で異なること、それが自身を指す文字であることを知っていましたが、正しい発音は分かりませんでした。
また、ことあるごとにそのようにしていましたので、姉弟もその文字をすっかり覚えていました。
母親は弟を撫で終わると、二人に微笑みかけました。
それから横になって瞼を閉じ、その瞼は二度と、開きませんでした。
二人は死を理解できませんでしたが、徐々に腐敗し、毎週水で流され、原形が崩れていく母親の姿を見ることで、目の覚めない眠りがあることを知りました。
それから初めて半狂乱になってどうにかできないか、ゆすったり、たたいたり、ご飯を口に入れたり、眠れなくなるほどに一緒に寝たり、叫んだり、踊ったりしましたが、その甲斐もむなしく、ぐずぐずになっていく母親を、ただ見守ることしかできないことを悟りました。
そう悟って、初めて悲しくて泣くことを知りました。
姉弟は、慟哭と表現するに相応しいほど、目が溶けるほどに泣きました。
母親が完全に白骨化してから、姉弟は日に3度あった食事が、2度に減っていることに気づきました。
食事が2度に減ってからしばらく経って、轟音と、とてつもない地響きが何度かありました。
姉弟は今までにない経験に、急いで母親の骨をかき集め、そして抱き合うことしかできません。
姉弟は大きな音や揺れが恐ろしいことを知りました。
それから、食事は1度に減り、出る日が断続的になり、ついには出なくなりました。
その時には部屋の光は失われて真っ暗闇で、天井からの水もしばらく前からありません。
そして、初めて寒いということを知りました。
特に、二人は裸ですから、寒さをしのぐため、抱き合って暖を取るのですが、痩せていっていることを、お互いの身体を触ることで感じていました。
そして、近い将来、自分たちも母親と同じようになるという予感をしました。
再びとてつもない地響きが一度あって、直後ドアから、かちりという音がしました。
姉が手探りしながらドアをそっと触ると、あっさりと横にスライドして、完全に開放されました。
姉弟は部屋以外に世界があることを初めて知ったのです。
その先は薄暗く、先ほどの地響きが嘘のように静まり返っています。
2,3歩いった先はまた壁でしたが、その足元は淡く緑に光り左右に続いているようでした。
(以下は姉弟のやり取りを意訳しています)
「ここにいようよ」
「いや、ここにいるままだと、たぶんお母さんと同じになる」
「なら僕、お母さんと同じになり・・・痛いよ!!」
「ばか!」
「痛いよ・・・だって・・・」
「お母さんは何であの時、私たちの”文字”を書いたと思うの」
「・・・わかんないよ」
「同じになるなってことよ。私は同じになりたくないわ」
「でも、ここしか知らないよ。怖くないの」
「・・・」
「ここに残るからね」
「・・・勝手にして。私は、行く」
「ほんとに行くの?」
「うん。母さんの、どっちかの手、ちょうだい」
「どれかわかんない」
「じゃあ、これとこれ。あとは、良いわ」
「・・・」
姉は、骨の一部を落とさないように握りしめて立ち上がり、ドアから恐る恐る顔を覗かせます。
右も左も、向こうが見えなくなるまで、まっすぐ続いているようで、相変わらずしんとしていました。
一度ぎゅっと目をつぶり、息を「すう」と吸い、そして「ふう」と長く吐きました。
そして真っ暗で姿の見えない自分の半身を一瞥し「じゃあね」と言って、しっかりとした足取りで右側の外に出ていきました。
部屋に残った半身はドアの外の、ペタペタという足音とともに徐々に小さくなっていく影を、思わず追いますが、母親の骨につまずいて盛大に転んでしまいました。
その衝撃でいくつかの骨も折れてしまいました。
「う、う~~~」
うずくまって痛みに涙ぐんでいると、頭上から「やっぱり、いっしょに来なさい」と声がかかります。
「い゛く゛、」涙を腕でごしごしして立ち上がり「いくよ。一緒に行くほうが、ここに残るより、いい」
ふん、と鼻をならして、「じゃあ、母さん、全部は持ってけないから、はやく選んで」と散乱した骨を指さしました。
「わかった」少し残念そうにしますが、弟は先ほど自身が折ってしまった、おそらく肋骨の一部を拾い上げました。
「この母さんを持っていく」
姉と同じように握りしめました。
「どの母さんも素敵だわ。」微笑んで「行きましょう」
今度は弟の手をつかんで、駆け出すのでした。