願いとは
「……ん……」
目を覚ますと、ハンナは寝台の上にいた。着ていたエプロンスカートは脱がされ、絹のネグリジェのようなものを着せられている。天蓋を眺めるのをやめて体を起こすと、そこにイリーナの姿。
「……イリーナ……?」
「起きたのね、ハンナ」
「……どうして……」
ヒュリオのバスケットがないことを不安に思いながらも、イリーナの瞳を見据える。そのまま膠着状態に陥っていると、扉が開き、ベルーゼが姿を現した。
「ベルーゼ様?」
「ごめんなさいね、管理者さま。流石に見ていられませんでしたので」
「私はベルーゼ様の侍女なの。ベルーゼ様の命をうけて、ハンナ、あなたを監視していたのよ」
イリーナの声色は冷たく冷淡だ。ベルーゼの瞳も鋭い。
(子爵に接触したのが不況を買ったのね)
「申し訳ありません」
「何をしでかしたか、理解してはいるようですわね。では、今なにをすべきかもわかるわね」
はて。ハンナは頭を捻る。ぼんやり思考を巡らせていると、それがまたベルーゼの怒りを買ったのか、ベルーゼは烈火のごとくハンナをまくし立てた。
「わからない、なんて顔をしていますわね!? 今あなたがやるべきことといえば、わたくしの願いを叶えることただ一つ! はやくわたくしを美しくして、そうでもなければ……」
ベルーゼはそこで一度深呼吸をして、イリーナに目配せする。イリーナは立ち上がると、部屋を出ていった。ハンナが黙りこくっていると、イリーナはすぐに小箱を抱えて戻ってきた。その小箱の蓋が開き、中が露わになると、ハンナは悟った。
「これであなたの喉を切られたくなければ、はやくわたくしの願いを叶えるのよ」
小箱の中身の銀のナイフはハンナの喉元に突き立てられる。ハンナは心のなかでため息を付いて、ナイフの持ち手に手をかけた。
「かしこまりました。貴方の願いを叶えます」
「それでいいのよ」
ベルーゼは大人しくナイフを引いた。ハンナは寝台から降りて、ベルーゼの前で頭を下げる。そして、掌を取る。
「まじないの魔法」
ベルーゼに魔力を流し込むと、彼女の顔は大きくうねりながら形を変えていく。びたびたと皮膚を押しながら筋肉が動いているのだ。そしてハンナは気がついた。ベルーゼは自分の顔を憎むあまり、美しい他人の顔になろうとしていたのだと。
顔が整い、落ち着くと、イリーナがハッと息を呑んだ。その様子にベルーゼは疑問を抱き、鏡を見る。その顔は、イリーナそっくりになっていた。
「な……どういうこと?」
ベルーゼは困惑を露わにして、ハンナに近寄る。ハンナは口をなるべく閉じて、淡々と答えた。
「私はベルーゼ様の願いを叶えただけでございます。ベルーゼ様は、イリーナになりたかったのですか?」
「え? 違うわ、わたくしは、ただあの人の不倫相手の、お姉様のようになりたかっただけで……ぅっ、」
そこまで口に出して、ベルーゼは息を呑み、イリーナを振り返る。イリーナの顔は激しく強張り、体を震わせている。
「まさか、貴方!!」
激しく鋭い、ガチャン! という音が聞こえて、ハンナは咄嗟に身をかがめた。イリーナの小さな悲鳴が聞こえた。ハンナが目を開けると、イリーナは額から血を流し、ベルーゼは肩で息をしている。その手には、先の割れた燭台。
「お前が、あの人の不倫相手だというの!?」
ベルーゼの怒声が劈く。右手を振り上げたのを見て、ハンナは魔法を放った。
「拘束の魔法!」
魔法で出来た太い紐がベルーゼの右手の自由を奪った。ベルーゼの瞳がハンナを睨む。先程の音に駆けつけたのか、エルガが姿をあらわした。
「何事だ!? ……なっ!?」
エルガはイリーナがイリーナに詰め寄っているという摩訶不思議な状況に目を丸くする。ベルーゼは自身の顔のことを忘れ、エルガの方に怒りを向けた。
「あなた! あなた、この女と不倫していたの!?」
「不倫!?」
ヒステリックにエルガに詰め寄るベルーゼ。その姿を見てハンナは嘆息し、寝台から降りた。
「あなたがこの女と不倫するから!! わたくしはこんな顔になってしまったのよ!」
「……まさか、ベルーゼ?」
「そうに決まっているでしょう!」
「なぜイリーナの顔に!」
「名前を呼ぶのもやめて! そこの女に変えてもらったのよ!」
ベルーゼの発言がだんだんと支離滅裂になっていく。感情が抜け落ちたゆえにしっかりと思考ができなくなっているのだ。エルガはベルーゼの言葉を聞いてハンナの方を向く。力なくエルガの胸を殴り続けるベルーゼの肩を抱き寄せていた。
「どういうことなんだ?」
「私はベルーゼ様から、子爵様の心を美しくなって取り戻したい、と言われ彼女の願いを叶えたのです。……どうやらベルーゼ様は、あなたが不倫をしているとお考えになり、その不倫相手と同じくらい美しくなりたい……と考えたのかと」
そこまで言い切ると、エルガの顔色が一気に青褪める。
「……不倫していたのね、イリーナ」
額から血を流したまま茫然自失としていたイリーナが、びくりと肩を震わせる。暫く手足を投げ出したまま床を見つめていたが、やがて緩慢に頷いた。
「そんな、そんな、酷いわ、酷いわ、あなた、お姉様だけじゃ飽き足らず、この女とも?」
「待ってくれ、ベルーゼ。確かに、イリーナと……不倫していたのは事実だが、」
「はぁ!?」
そのエルガの釈明に声を上げたのはイリーナだった。先程とは打って変わって、鬼のような形相でエルガに詰め寄る。
「エルガ様! 私は本気って言ってましたよね。嘘だったんですか!?」
「いや、その」
修羅場。その三文字が似合う状況にハンナは再び肩を落とした。困り果てたエルガがハンナに助けを求めてくる。ハンナは気になったことを聞くことにした。
「……子爵様。子爵様はなぜ、ベルーゼ様のお姉様のところに通っていたのですか?」
「それは……」
「私が娘だからよ!」
しどろもどろのエルガの声を切り裂いて、ベルーゼが甲高い声を上げる。
「私のお母様はベルーゼ様の姉なの!」
「イリーナ!」
「はあっ!?」
エルガとベルーゼの声が重なる。ハンナは彼らを見限ることにし、部屋を出た。部屋の前には侍女が待機していて、ハンナが着ていたエプロンスカートとヒュリオの入ったバスケットを差し出す。
「どうもありがとうございました。では」
侍女にそう声をかけて、ハンナは建物を出た。すっかり雨は上がり、夜空が出ている。
「帰ろっか、ヒュリオ」
なあうん、とヒュリオは鳴いた。