イリーナとハンナ
カルビア邸を後にし、丘を下る。冷たい秋風が全身に吹き付け、外套の隙間からハンナの体を冷やす。空は秋晴れが姿を潜め、鉛色の雲で覆われていた。寒さに腕をさすりながら歩いていると、街の方からイリーナが走ってくる。
「おーい! ハンナー!」
「イリーナ?」
イリーナは慌てた様子でハンナの元まで来ると、ぜえはあと肩で息をする。
「はあっ、はあ……もうすぐ雨が降るから、心配で見に来たの」
「そうなの」
「とりあえずウチにこない? 泊まってもいいからさ」
お言葉に甘えて、とイリーナに手を引かれついていく。イリーナの家は海が一望できる小高い場所にある煉瓦の家だった。中に入ると、赤いソファの上に初老の男が腰かけ本を読んでいる様子が目に入った。
「ただいま、パパ!」
「おかえり、イリーナ。……その子は?」
パパと呼ばれた男は眼鏡の向こうの瞳でハンナを不思議そうに見てくる。
「始めまして。ハンナです」
「さっき友達になったのよ」
イリーナがハンナの肩を持つ。イリーナの父は二、三度瞬き、それからゆっくりと破顔した。
「そうかい、イリーナの友達か。大したおもてなしはできないけど、ゆっくりしていくといいよ」
「ありがとうございます」
「私の部屋はこっちよ」
イリーナが自室へと案内してくれた。二階の階段に繋がるベランダから中へ入る少し珍しい構造だった。ベランダは海に面していて、気持ちいい冷たい潮風が吹き込んでくる。イリーナは扉を開け放し、部屋の中央のソファに音を立てて座った。ハンナもイリーナの向かいのロッキングチェアに腰掛ける。
「それで? カルビア夫人はなんて言ってたの?」
イリーナが好奇心を隠さないまま聞いてくる。ハンナは少し苦笑いしたあと、バスケットを膝に置いた。
「あんまり教えてくれなかったわ。強いて言うなら、ホンフォート夫人は自分の顔がお嫌いらしいってこと」
「ええっ、あの自信家のホンフォート夫人が?」
イリーナは驚いて聞き返す。ハンナが緩慢に頷くと、足を大きく投げ出して、「信じられなーい」と天井を見上げた。
「そんなに?」
「うん、そんなに。ホンフォート夫人って、すっごく堂々としてるのよ。自分の顔が嫌いだったら、あんなに自信はないと思うわ」
イリーナの言葉にハンナはまた考え込む。
(カルビア夫人は、ベルーゼ様が自分の顔が醜く思えると言っていた。あの言い方なら、醜い自分の顔を好きだとは思っていないはず)
思考を巡らせるハンナに、イリーナは身を乗り出した。
「ね。ハンナって、どこに住んでるの?」
「え?」
唐突な質問に、ハンナは思わずイリーナを見た。イリーナは不思議そうにバスケットを見ている。
「わざわざホンフォート夫人を調べに来るってことは、何かあるんでしょ? ハンナ、探偵さんとか?」
「探偵ではないわね」
イリーナがちぇ、と口を尖らせる。
「私は……人の願いを叶えることを仕事にしているの」
「なにそれ?」
「イリーナ、なにかやりたいことはある?」
そう聞くと、イリーナは戸惑いをあらわにした。
「そうね、魔法が使えるようになりたい!」
「ふふ。私はね、イリーナのその願いを叶えることができるの」
「魔法が使えるようにしてくれるの!?」
イリーナがバッと起き上がり、ハンナに顔を近づけてくる。
「ええ。でも、代償として、依頼人が持っている感情の一つを貰うことにしているの」
「感情?」
「そう。例えば後悔、喜怒哀楽、野心、他にもたくさん。」
「それってとても危なくない?」
「どうしてそう思うの?」
イリーナの疑問にそう聞き返すと、イリーナは眉を顰め、言語化に悩みながらも言葉を押し出し始める。
「だって感情がないって、人としての何かが欠損しているのと同じではないの?」
「どうかしら。それは私にもわからないわ」
「取っているのに?」
「取っているからよ」
ふうん、とイリーナは佇まいを直す。
「じゃあ、ハンナはその……願いをかなえられる場所に住んでるの?」
「そう。ここから船に乗って半日、ずっと南の方にあるの」
「へえ。遠いのね」
「そうでもないわ。船旅はなかなか楽しいもの」
「あ、それわかる!」
ふと気がつくと、大雨が窓を叩き始めていた。
「わ……凄い雨」
「本当ね」
ハンナが窓に近づくと、大通りの方にやたらと豪華絢爛な馬車が懸命に走っているのが見えた。
「……イリーナ、あれは?」
「ん? ああ、ホンフォート子爵の馬車よ。帰ってきたのね」
「ホンフォート子爵……ごめんイリーナ、すぐ戻るわ!」
「え、ハンナ!?」
イリーナが驚いている間に、ソファの上にバスケットを放りだしてベランダへ飛び出す。柵を乗り越え、屋根から玄関前に飛び降りると、イリーナの母親らしき女が驚いて仰け反った。冷たい雨がじんわりとハンナの体温を奪っていくのにも構わず、ハンナは急いで大通りへと出る。雨のおかげで大通りに人は少なく、軒下で漁師が雨宿りしているばかりで馬車がよく見えた。走って馬車を追いかけ、ホンフォート子爵、エルガの姿が見えるところまで追いついた。御者が異変に気が付き、馬車を止める。
「……君は?」
エルガが驚いて窓を覗き、ハンナを見つけた。ハンナは馬車の中に目をやるが、ベルーゼは乗っていない。
「ホンフォート子爵……」
「何か用か?」
「……いえ、夫人に用があったのですが」
「ベルーゼに? 言伝か?」
「あ……その、夫人が……顔を……」
なんと聞いていいかわからず、ハンナはしどろもどろになる。エルガはそれを黙って聞いていた。
「……夫人が自分の顔をどう思っているか、ご存知ですか?」
「いや、聞いたことがないな」
「そうですか……ありがとうございました、失礼します」
ハンナは肩を落とし、馬車から離れる。雨が一層強くなり、ハンナの服をじっとりと濡らした。エルガの馬車が去っていったのを見て、ハンナは踵を返す。そこに、イリーナ。
「イリー、ナ!?」
がつん、と頭に強い衝撃が来る。ハンナはその場に崩れ落ちた。じんじんと痛む後頭部を抑えることもできず、首の動きだけでイリーナを見る。
「……ヒュリオ……」
ハンナの意識はあっというまに暗闇に転がり落ちていった。