美貌を欲する女
じゃかっ、じゃかっ。
石壁をブラシが右往左往し、水が跳ねる。額についた汗を拭ったハンナは、塔の上を見上げる。まだまだ続く階段にうんざりしながら木桶にブラシをつける。ヒュリオは水に濡れるのを嫌って早々に寝台へこもってしまった。痺れる右手を解し、また桶からブラシを拾い上げる。捲った袖がずり落ちてきて、濡れる手を厭わずまくり上げる。壁から滴り落ちた雫が靴先に落ちた。朝からこうして塔を磨いているというのに、昼を過ぎても塔を昇りきれずにいる。またブラシを擦り付けると、水が滴り落ちた。一心不乱に壁を磨いていると、アミティヤがぴぴぃーっとハンナに突撃してきた。ハンナの後頭部に勢いよく激突し、階段の上に落ちる。
「アミティヤ、お客さま?」
ぴ、と弱々しい鳴き声が聞こえた。アミティヤは水で濡れた羽を重々しく持ち上げ、体を飛び起こす。ぴぴいっ!と勇ましく塔の上へ飛んでいった。
「ヒュリオをお願いねー」
その背中に声をかけ、ハンナは木桶を階段の端に寄せる。ブラシを木桶の中に落として、階段を駆け下りる。薔薇の海へ飛び出したハンナは、玄関門にたどり着く。巻きついた蔓が解かれるとほぼ同時に、華奢な体躯を覆い隠すように下品なほど大きなドレスを着こなした女が現れた。
「ようこそ、ねがいの庭へ」
女はなにも言わずハンナを見定めるような目つきで観察する。それをものともせずハンナはガゼボへ女を案内した。
「本日はどのようなご要件でしょう?」
「……あなた、名前は?」
「ハンナと申します」
女はハンナを無視し、ふんと鼻を鳴らし、手に持っていた鉄扇を勢いよく開いた。鉄どうしが擦れ合う甲高い音が鳴る。
「ここはどんな願いも叶えてくれる場所だとお聞きしましたの。わたくしの願い、かなえてくださるのかしら?」
「どのような?」
「わたくしを世界一美しい女にしてちょうだい」
女は紅茶を傾ける。なかなか美味しいじゃない、とひとりごちた。
「あなたの願いを叶える対価に、私はあなたな感情をいただきます。それでも?」
「その感情って?」
ハンナは女の手に触れ、読む魔法を使う。女の感情がハンナに流れ込んできた。棘のような形をした鋭い感情たちがハンナを次々突き刺す。まずはじめに刺さったのは野心。次に探究心、好奇心、悔しさ、少しの後悔。刺さった棘を抜くようにハンナは魔法を解いた。
「あなたの野心をいただきます」
「わたくしの野心? 奪えるとは思わないけれど……いいわ、お好きに持っていきなさい。その代わり、絶対に世界一美しい女にしてよね」
「お任せください。ねがいの庭のまじないが、あなたのねがいを叶えます」
ハンナは力強く言い切る。女は複雑な心境を吐露するような何とも言い難い表情をした。
「お名前を聞かせていただいても?」
「ベルーゼ=ホンフォート=レデアンビウ。ベルーゼとお呼び」
「では、ベルーゼさん。あなたが何故、美しくなりたいか、聞かせてほしいのですが」
ベルーゼはハンナに疑心の目を向けつつ、ため息まじりに語りだす。
「わたくしは元々、貧民の子として生まれたの」
雪が降るある街の小さな家。ベルーゼはそこに住む三人姉妹の末の子として生まれた。姉たちは美しかった。ベルーゼは反対に、頭が良く、しかし美しくはなかった。
「わたくしたち姉妹に亀裂が入ったのは、わたくしが十になったばかりのころ」
美しい姉たちに目を留めた貴族の人間が、ベルーゼを置いて姉たちを娶っていったのだ。ベルーゼは姉たちから置き去りにされ、一人出稼ぎに出て食いつないでいた。
「わたくしが美しくなかったから、置いていかれたの。でもその時、わたくしは美貌などどうでもよかった」
十六になったベルーゼは街の市場の看板娘として働いていた。その市場を毎日訪れるある貴族がいた。
「ホンフォート子爵、エルガ。わたくしの旦那が、毎日訪ねてきていたの」
ベルーゼの頭の良さに惹かれたというエルガは、毎日ベルーゼの元へ通い詰めた。やがて二人は恋人になり、結婚した。
「でもね、幸せな結婚生活など夢のまた夢であったの」
二人の結婚式に訪れた姉たち。彼女たちはいともたやすく、エルガの心を奪ってしまったのだ。エルガは毎日姉たちに会いに行くようになり、とうとうベルーゼの元に帰ってこなくなった。
「エルガは頭の良いわたくしでなく、美人なお姉様たちを選んだ。ならばわたくしはお姉様たちより美しくなって、エルガの心を取り戻すんですの」
それらを聞いていたハンナは、バレないようにため息をついてから、真剣な表情でベルーゼに向き合う。
「必ず、あなたを世界一美しくしてみせます。ですから、二日ほど時間をいただけますか?」
「美しくなれるのなら。二日後、またここを訪ねればよいの?」
「いえ。その時は私達から、ベルーゼさんの方へ向かいます」
ハンナの笑みに少しの安堵を浮かべたベルーゼはいそいそとねがいの庭を出て帰っていく。蔓が絡み、閉め切られた門の向こう側に彼女の背中が消えた頃、ヒュリオがひょこりと顔を出す。
「また、難儀な奴だな。どうするんだ? まさか正直に彼女の顔を変えるんじゃないだろうな」
「エルガの事を調べないとなにも言えないかな。ヒュリオ、出かけるよ。」
ハンナは踵を返し、塔の上へ戻っていく。その背中を見て、ヒュリオはなあくんと言った鳴き声を漏らした。
「お前も難儀なものよな」