豹変した想い
男ことクリストファーとその恋人・エリスベンが住んでいたのは、ねがいの庭から山を二つ越えた場所にある小さな農村だった。農村の民たちは見慣れぬハンナに好奇の目線を投げ、なおかつそのハンナを連れるクリストファーに疑惑の視線を向けていた。なぜハンナとクリストファーがここにいるかというと、それはハンナが「生前のエリスベンを知りたい」と言ったからだ。まじないをかけるため、ハンナはここに来た。クリストファーがハンナを連れて行ったのは煉瓦造りの小さな平屋。エリスベンが住んでいた家だと言う。きしむ扉を押し開けると、埃っぽい空気がぶわりとハンナの鼻を掠めた。
「最後にここに来たのは?」
「エリスベンを殺した日です。そこに置いてある酒瓶で、殴りました」
クリストファーが指さした棚の上には、割れた酒瓶が転がっている。ハンナはそれを一瞥し、奥へ進む。
「ここにはエリスベンさんしかすんでいなかったんですか?」
「はい。」
「ご家族は?」
「親は死んでいます。弟は、他国に婿入りしました」
エリスベンの自室と見られる部屋。薄暗く窓はカーテンで塞がれ、下から漏れた光が厚く積もった埃を照らしていた。荒れた文机に近づいて、物をひとつひとつ改めていく。大量の紙や本の下に、日記帳を見つけた。
「読んでも?」
「はい」
クリストファーは生きていた痕跡を見たくないのか目を背けている。それを横目にハンナは日記を開いた。かなりの乱筆で読みにくい。日記に記された文字をなぞり、ハンナは魔法を使う。
「写す魔法」
途端日記の文字が青く光りながら浮かび上がった。光はハンナの瞳に、エリスベンの姿を写し出す。
エリスベンは幼い弟を守るため、一人で稼ぎに出ていた。クリストファーと出会ったのは、村一番の大きな酒場で働いていたときのことだった。
「ああ、いやだ! 申し訳ありません!」
エリスベンはクリストファーのシャツにワインを零してしまった。それをクリストファーは笑ったのだ。
「大丈夫。おかげで、この地味なシャツが素敵になったからさ」
クリストファーの優しさにエリスベンは救われた。それ以来、クリストファーは週に一度、エリスベンが働く日に酒場を訪れ、二人はとりとめのない会話をする。名家の息子であるクリストファーと、貧乏なエリスベンは誰もが釣り合わないと思っていたが、周囲の非難も厭わず二人は愛し合った。やがて、二人が成人し、結婚ができる年齢になると、クリストファーは毎夜エリスベンの家を訪れ求婚した。エリスベンは健気にもクリストファーを想い、しかし彼と私は釣り合わないと求婚を断り続けた。そんなやりとりを三度目の冬まで続け、とうとうエリスベンは折れた。クリストファーの婚約者となったエリスベンは、恋人としてクリストファーを愛するようになった。
しかし、そんな二人を妬むものがいた。ジェシカという、クリストファーの見合い相手だった。ジェシカはエリスベンを妬み、クリストファーの恋人は自分こそ相応しいとわめきたて、エリスベンを攻撃した。クリストファーの父親はジェシカに味方し、二人は引き裂かれてしまった。
ハンナはそこで一度日記を閉じる。強いめまいがハンナを襲い、右手を机について耐えた。
「あの」
「ああ、すみません。この魔法を使うとめまいして。……クリストファーさん、エリスベンさんと愛し合っていたのですね」
クリストファーは息を詰める。そしてまた視線を彷徨わせた。
「ああいえ、殺したことを責めているわけではありませんよ。ただ、どうして殺したのかな、と」
返事が返ってこないことを承知で聞いたハンナは、再び日記を開こうとする。その手をクリストファーが止めた。
「……聞いてくれますか」
ハンナはクリストファーを見上げる。後悔を含んだ色の瞳が切にハンナを見つめた。
「……聞かせてくれますか?」
「エリスベンがおかしくなってしまったのは、僕がエリスベンではない人間と結婚させられそうになったからです」
「それはジェシカ、という方ですか?」
「! ……はい」
クリストファーの脳裏に、エリスベンの姿が思い起こされる。
「エリスベンはある時から、僕を異常に傷つけるようになりました」
エリスベンは手を振り上げ、クリストファーの頬を強く叩いた。その場に崩折れるクリストファーを、冷たい目で見下ろしている。
「エリスベン、どうして?」
「どうして、ね。あなたがいけないんじゃない」
エリスベンは的を射ない虚ろな文章を口走りながら、クリストファーを何度も殴りつけた。
「痛い、痛いよ、エリスベン」
「私だって痛かったのよ」
「え?」
エリスベンのその悲鳴じみた声にクリストファーが勢いよく顔を上げる。エリスベンがぐにゃりと顔を歪ませて、クリストファーの腹を蹴りつけた。一通りクリストファーを痛めつけ、青黒い痣がいくつも体に浮かんだのを見て、エリスベンは泣き出し、ごめんなさいと繰り返し口に出した。
「そんなことが何回も続いたんです。もう限界でした。だから……殺してしまいました」
その悲痛な声に、ハンナはなにも言えなかった。いや、なにも言わなかった、が正しいかもしれない。何を言っても無駄だろうと、ハンナは日記を開く。ある頁を境に乱筆はさらに酷くなり、読めない。これでは魔法も使えないと、日記を机に放りだした。
「何か心当たりは?」
「……ありません。あるなら僕が知りたいくらいです」
クリストファーの背中を軽くさすり、ハンナは日記を振り返る。
「それではまじないをかける準備をいたしましょう。彼女のお墓へ、案内してくださいますか?」
「は、……はい」
クリストファーが肩を落としながら平屋を出ていく。ハンナはそれに無言でついて行った。