伯爵夫人、夫の不倫と浮気を疑い探偵を雇うも、非常に惜しい結果となった
昼食時から少し経ち、落ち着いた雰囲気の昼下がり。
伯爵夫人シンディ・ハーバースは邸宅に一人の客を招いていた。
ダレット・キャノン。城下町で一番とも言われる探偵である。ベレー帽をかぶり、グレーのコートを着たその姿は、いかにも敏腕探偵を思わせる。
ダレットは帽子を脱いで挨拶する。
「初めまして、奥様。探偵のダレット・キャノンと申します」
「こちらへどうぞ」
シンディがリビングに案内する。
シンディはまだ若いが、上質な木細工を思わせる美しい茶髪と、澄んだ瞳の持ち主で、社交界でも一目置かれる存在だった。
「お飲み物はコーヒーがお好きなようだから、コーヒーにしましょうか」
この言葉にダレットは問い返す。
「なぜ、私がコーヒー好きだと?」
「コーヒーの匂いがしたものだから。あと、シュークリームも食べたでしょう?」
ダレットが苦笑する。
「これはこれは、探偵顔負けの推理力ですな」
「私、鼻がきくのよ。特に甘い物には目がないの」
シンディは得意げに鼻を動かす。
ソファに座り、テーブルを挟んで向き合う。
「奥様、ご用件をうかがいましょうか」
「主人のことを調べて欲しいの」
「主人……というと、ライネル・ハーバース様ですね」
シンディの夫ライネルは伯爵位を持ち、若くして王城にて政務にも参加するほどの逸材である。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、三拍子揃った貴族の鑑のような男であった。
「ライネル様に何か御不審な点でも?」
「はっきり言うわ。私は主人の不倫や浮気を疑ってるの」
「……」
ダレットは目を細める。
「何かお心当たりでも?」
「最近、帰りがやたら遅いのよ」
「城での業務がお忙しいのでは?」
「だけど、この一ヶ月ぐらいで急によ? 国内で大きな問題があったなんて話も聞かないし……」
現在、彼らが暮らす王国は平和である。
城に遅くまで残ってこなすような業務があるとは思えない。
「それに……香水をつけて帰ってくるの」
「ほう、香水を……」
「とてもいい匂いのする香水よ。昔は香水なんかつけてなかったのに」
「……」
ダレットとしても、ライネルに疑念が生じてくる。
いずれにせよ、ここでなぜ帰りが遅いのか、なぜ香水をつけているのか、議論をしても何の結論も出ない。
「分かりました、この依頼引き受けましょう」
「ありがとう」
「調査は一週間ほどかかるでしょう。一週間後、報告書を持ってうかがいます」
「お願いね」
ダレットはハーバース邸を後にした。
***
その夜、やはり遅い時刻にライネルは帰宅した。
「ただいま」
「お帰りなさい」
鼻がきくシンディは、夫が香水をつけていることがすぐに分かった。
ライネルが上着を脱ぎながら、シンディに話しかける。
「もうすぐ夏だね」
「ええ、そうね」
「一緒に海に行く約束をしてるけど、そうしたら君に泳ぎを教えてあげるからね」
「そうね、あなたはスポーツ万能だものね! 楽しみにしてるわ!」
「任せてくれよ!」
夏に向けて盛り上がる夫に対し、シンディの心は冷えきっていた。
なにしろ身辺調査を依頼してしまっているのだから。
***
一週間が経った。
ダレットが再び邸宅に訪れる。
「どうも、奥様」
「お待ちしてたわ」
不安で一杯という表情のシンディ。
リビングに案内するなり――
「で、どうだった? 夫は?」
「……」
「お願い! この一週間、不安で不安で……」
「奥様……」
ダレットは言った。
「私は探偵です。ここですみやかに結果を報告するのが正解なのでしょう。しかし――」
「しかし?」
「実際に旦那様のことを、あなたも見てみませんか?」
真剣な眼差しでこう言われる。
「ふざけないで」「もったいぶらないで」などと一蹴するのは簡単だった。
だが、シンディもどうせならば“自分の目で見たい”と思ってしまった。
夫が自分に何を隠し、何をしているのかを。
「見られるものなら……お願いするわ」
こうしてシンディはダレットと共に出かけることになった。
***
王城の近くまでやってきたシンディとダレット。
夕刻になり、城からライネルが出てくる。
これを見て、シンディが眉をひそめる。
「やっぱり! この時間には仕事が終わってるのよ……!」
ライネルは馬車に乗り、明らかに家とは違う方向に向かう。
馬車の速度は決して速くない。ダレットとシンディはそのまま徒歩で後を追うことにした。
まもなく馬車はある一軒家にたどり着いた。
「あれは……お菓子屋?」
「ええ、ライネル様は毎日のようにここに通っていました」
「毎日……!」
菓子屋からは、若い女が出てきた。
コック着を身につけた、快活そうな美女である。
「あの女は? 誰なの?」
「マリンという店の主人で、菓子職人……パティシエールでもあります」
「やっぱり……不倫だったんだわ!」
「落ち着いて、奥様。中の二人の様子は窓から見られるので、覗いてみましょう」
「分かったわ!」
ダレットとシンディは慎重に移動し、中の様子を覗ける場所に来た。
このあたりの位置取りの上手さはさすが探偵といったところか。
夫ライネルと菓子職人マリンはキッチンで料理をしている。
「これは……?」
「どうやら、ライネル様はお菓子作りを学んでいるようです。それもプリンを……」
「プリン……!」
プリンといえばシンディの大好物であった。
まさか私のために――そんな思いがシンディの中によぎるが、やはり不安も残る。
「二人きりであんな風に料理をしてたら、恋が芽生えてもおかしくないわ!」
「では二人の会話を聞いてみますか?」
「え? そんなことできるの?」
「これをお使い下さい」
ダレットは耳栓のような道具を取り出した。
「これは聴覚拡張器といって、これをつければここからでもあの二人の会話を聞き取れるようになります」
受け取ったシンディだが、少し考え込んでしまう。
「会話を盗聴するってこと? なんだか夫の秘密を探ってしまうようで……」
「私を雇っておいて、それは今更だと思いますが」
「それはそうね……」
ダレットの指摘はもっともだったので、シンディは聴覚拡張器を耳につけた。
すると、屋内にいる彼らの会話が聞こえてきた。
『なんですか、その卵の混ぜ方は!?』
『も、申し訳ない』
『こんなことでは誕生日までに、奥様を満足させられるプリンは作れませんよ!』
『その通りですね……』
『いいですか、プリンは一日にして成らずなのです!』
『分かりましたぁ!』
予想に反して、ライネルは非常に厳しく指導されていた。
シンディが思わず同情してしまうほどだった。恋など芽生える余地はどこにも見えなかった。
「ライネル様はあなたの誕生日に手作りのプリンをプレゼントするつもりだったようです」
「そうだったの……」
夫の真意を知り、うつむくシンディ。
しばらくして、菓子屋からライネルが出てきた。
再び会話を盗聴する。
『今日もありがとう』
『いえ、私の指導によくついてきましたよ』
『また明日もよろしく頼むよ』
ライネルは服に香水をつけ始める。
『そういえば、なぜいつも香水を?』とマリン。
『妻は鼻がいいものでね。プリンの匂いをつけて帰ったら、もしかしたらプリン作りの特訓をしてるとバレてしまうかと思って』
『そういうことでしたか』
ライネルが香水をつけ始めた理由も分かった。
シンディにプリン作りの特訓をしていることを悟られたくなかったのだ。
これでライネルは帰宅する――と思いきや、馬車でまたもや家とは違う方角に向かう。
「どうしますか、奥様?」ダレットが尋ねる。
「ついて行くわ……ここまで来たら、とことんあの人のことを知りたい」
ダレットとシンディもついていく。
ライネルはある施設に到着した。
「ここは……プール?」
「ええ、プールです」
城下町には、水を蓄えたプール施設が存在する。
兵士が泳ぎの訓練に使ったり、時には市民に開放されたり、用途はさまざま。
伯爵であるライネルは、もちろん問題なく使用できる。
「プール……トレーニングでもしてるのかしら?」
「我々も入ってみましょうか」
二人もこっそり中に入ると、シンディは衝撃的な光景を見た。
「じゃあ、今日もバタ足から始めましょう」
「はいっ!」
海パン姿のライネルが、コーチから特訓を受けている。
それも浮き輪をつけて。バタ足はぎこちなく、まだまだ泳ぎの初心者ということがうかがえる。
シンディは目を丸くしてしまう。
「これは……どういうこと?」
「ライネル様はどうやら、カナヅチだったようですね」
「カナヅチって泳げないってこと? 嘘よ、あの人はスポーツ万能よ! 足は速いし、乗馬だって球技だって完璧で……!」
「陸上のスポーツが得意でも泳げない人なんかいくらでもいますよ」
「でもなんで、泳ぎの特訓なんて……」
シンディは思い返す。
ライネルは自分に“泳ぎを教える”と言っていたことを。
彼はそれを叶えるために、自分が泳ぎをマスターするつもりなのだ。夏までに。
「あなた……!」
シンディの目が潤む。
「どうしますか、奥様?」
「このまま帰るわ……。今日見たことはもちろん、あの人には話さない。胸にしまっておく」
「分かりました」
こうして探偵ダレットの調査報告は終わった。
シンディは夫の不倫や浮気を疑っていたが、真相はまさかの『プリンや浮き輪』だったのだ。
***
数週間後、シンディの誕生日。
ライネルがそわそわしつつ、妻に話しかける。
「やぁ、シンディ! 君にプレゼントがあるんだ!」
「あら、なあに?」
「これ……」
小さな箱を手渡されるシンディ。
開けると、中にはプリンが入っていた。
美しい光沢をまとい、カラメルソースからも香ばしい匂いが漂う。
シンディの鼻を瞬く間に満足させる一品だった。
「まぁ、おいしそう!」
「実はこれ、私が作ったんだ」
「え、そうなの?」
「たまには手作りのプレゼントもいいかもと思ってね……」
照れ臭そうに話すライネル。
シンディはさっそくスプーンですくって食べる。
「どうかな?」
「ええ……とっても美味しいわ! お菓子屋さんで売ってもいいくらい!」
この褒め言葉にライネルも喜ぶ。
夫の努力の結晶を、よく味わい堪能するシンディだった。
「ああ、そうそう。夏には海に行くけど、その時は私が泳ぎを教えるから! 楽しみにしておいてくれよ!」
「ええ、楽しみにするわ!」
夫は必ずこの約束を守るだろう。
シンディは満面の笑みを浮かべた。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。