ハートブレイク、ハートブレイク
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告白する勇気は湧いてこない。友だちになってやろうという意気込みすら湧いてこない。だってそもそもろくに――というか、まったくしゃべったことすらないからだ。その現象がこの先、改善? されるかどうかはわからない。重い病気のようなもので、たぶん、いっさい改善しない。そう考えるしかない。言わずもがな、自分の押しの弱さは嫌というほどわかってる。
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新聞配達のアルバイトでもしようかな――と最近考えている。帰宅部の一員にすぎないぼくには放課後、特にやることがないからだ――などという現実を眼前にしながら、小遣いを削って、近所の名店のカウンター席でラーメンを食べている。……おいしい。将来はラーメン屋に就職したい――とまでは思わないけれど、なんらか物を作るヒトって偉いなって、ぼくは思う。
らっしゃい!
威勢の良い店員の声が響き渡った。
十六時という中途半端な時間にもかかわらず、店内は客でいっぱいだ。
空いているのはぼくの左隣の席だけ。
――その席に座ったのは彼女で、ぼくが憧れる彼女で。
びっくりした、ドキドキする。
だけど、声をかける理由もなければ、やっぱり勇気も出ない。
速やかに店を出ようとする。
するとだ、「待って」と言われた。
美貌の彼女は「ウチの学校の生徒くんだよね?」と問いかけてきた。このあたりにはほかにも学ランの中学校があるけれど、このラーメン屋の最寄りはぼくが通う学校だ。だから言い当てられても驚かないし、ただ、「う、うん」と吃ってしまった。彼女は「なに緊張してるのよ」と言い、「あははっ」と明るく笑った。
「きみのお気に入りなのかな? このお店は」
「う、うん」
「また吃った」
彼女はくすくす笑った。
イラっとしたりはしない。
むしろ奔放な感じが心地良い。
きっとぼくは彼女のそんなところを好きになったのだろうと思う。
彼女が注文したラーメンがやってきた。彼女の隣にもう少し座っていたいなと思い、でもただ座っているだけではアレだから、ぼくは追加でチャーハンを頼んだ。彼女はラーメンを心底味わうようにしてゆっくり食べた。とてもおいしいものだから、ぼくはチャーハンを掻き込むようにして食べた。ぼくたちがほとんど同時に食べ終えた。彼女の「いただきまーすっ」も「ごちそうさまでしたーっ」もとにかく快活だった。
「そっちの坊主はしょっちゅう来るが、おまえさんは初めてだな」鉢巻をしている店の大将がそんなふうに言った。「将来は間違いなく美人さんになるな」
彼女はぷっくりと頬を膨らませると、「すでに美人です」とやり返した。大将は「確かにそうだな」と言って豪快に笑った。
「さあ、ゆくぞ、少年」
「えっ」彼女の言葉に当然驚いた。「少年ってぼくのこと?」
「この店に他に少年がいるかね?」彼女はにこっと笑んだ。「わたしの家まで送ってくれと言っている」
「ど、どうして?」
「それこそほら、わたしみたいな美少女が一人でそのへん歩いてたら危なっかしいでしょ?」
一つの疑問が浮かぶ。
だったら――。
「いままではどうしてたの?」
「決まってるじゃん。カレシに送らせてたんだよ」
カレシ。その言葉だけで大人びた感じがしたし、「ああ、彼女には恋人が――」と少し残念な気持ちになった。――って、なに嫉妬してるんだ。なにを期待しているんだ。ぼくは彼女にとって何者でもないのに。
「俯くな。わかった。たとえばきみがわたしに惚れていたとしよう」
「うん」
「だったらわたしがカレシ発言をしたのは残念無念だよね」
「うん」
「だけどわたし、『送らせてたんだよ』って、過去形を言ったんだよ?」
それはわかってる――という言葉を飲み込んだ。
ぼくは彼女にカレシがいたという事実だけでも悔しく思ったのだ。
ほんと、ぼくは何様なのか。
ラーメン屋から出た。
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ぼくの家と彼女の家は案外近くて、帰り道にある公園に寄った。彼女は弾んだ声で「ブランコに乗ろう!」と言い、だからぼくは付き従った――付き従ったは大げさか。
彼女はぐいぐいこいで、派手にブランコを前後に振る。短いスカートから覗く白い太ももが眩しい。ぼくは俯くことで視線を逸らし、ただ座っていた。結局のところ、ぼくはなにを求めているのだろう。よくわからない。
やがて彼女はこぐのをやめ、それからぼくに「ラーメン、おいしかったよね」などと言った。なんというかこう「いまさらかよ」と思ったけれど、ぼくは「うん」と答えるにとどめておいた。
「ねぇ、きみ、名前はなんていうの? ごめんね? 知らなくて」
一言で述べるとダサい、もう一言付け加えると野暮ったい。
そんなぼくを知っていたのだとしたら、それはそれで完全にびっくりだ。
「工藤だよ。工藤薫」
「へぇ。いい名前だね。かおるくんか。わたしも名乗ったほうがいい?」
ぼくは首を横に振った。
なにせ学校一の美少女だ。
彼女の名前は黒川さんちの恵さんだということは知っている。
「ねぇ、工藤くん。これからも家まで送ってほしいんだ」
「えっ」
「きみのことを気に入ったの」
気に入った?
ラーメン屋でちょっとしゃべっただけで?
「工藤君、やっぱりきみは、わたしに恋しちゃってるよね?」
胸がドキリとなった。
けれど、それは事実であり――。
「ほ、本気だってわかるの?」
「まったく、きみは吃るのが得意だね」黒川さんは微笑んでみせた。「恋のエナジーとでも言えばいいのかな。それがわかってしまうんだなぁ、わたしには」
ぼくはまた下を向き、それなりに恥ずかしく思った。
それから黒川さんは――どうしてだろう、少し悲しげな表情を浮かべたように見えた。
「でもね、言っておくよ、工藤くん。わたしはきみに恋することはないからね?」
なのに送ってくれ?
――よくわからなかった。
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言われたとおり、ぼくは毎日黒川さんを送るようになった。黒川さんはよく笑うヒトで、テレビで観た、ネットで見た、学校で仕入れた――そんな話をたくさんしてくれた。最初は見た目に恋しただけだったけれど、気持ちのいい性格にも魅力を感じるようになった。黒川さん、ほんとうに素敵な女の子だ。
そのうち、夜、電話で声を聞き合うようにもなった。だけどぼくは夜が弱いから、しょっちゅう寝落ちした。だからその翌日は学校でひたすら文句を言われるのだ。そう。ぼくたちは校内でも仲良くするようになった。
「どうやって近づいたんだよ?」
「おまえみてーな冴えない男がなんでだよ」
「ヤバいぜ、おまえ。いろいろヤバいぜ」
いろいろやらかしてんぜ。同級生からのその言葉を聞いて、正直ビクッとしたけれど、ぼくはいまを続けたい。
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ある日、上級生に体育館裏に呼び出された。なんの用事かは感覚的にわかったし、だったらなおのこと、潔く向き合おうと考えた。
もう知ってる。呼び出した男は黒川さんのカレシだった人物だ。あくまでもやはり過去形であり、だから黒川さんと仲良くしているぼくのことが気に食わないのだろう。
曇天。雨がぱらつき始めた中にあって、くだんの上級生とその仲間にさんざん殴られ蹴られした。結構キツくて、「ああ、あと十分も続けば死んでしまうかもしれないなぁ」などと、頭は至極冷静だった。ぼくはひょろひょろで背だけは無駄に高い。体育館の壁に背を預けていた。上級生連中の体格は揃っていい。勝てるはずもない、最初から。
「おまえ、工藤ってんだってな」黒川さんの恋人だったらしい男が言う。「あの女を抱くのは俺なんだよ。これ以上邪魔しやがったらぶち殺すぞ」
邪魔してるつもりはないけれど――どうやら黒川さんは男の手にかかったことはないらしい。ほっとした。とても安堵した、この上なく安心した。
そして、わかった、理解した。
どうあっても、こんな男と黒川さんは結ばれてはならない。
ひょろい身体をしっかりと縦にする。まだまだ動けないほどのダメージじゃない――と言うより、彼女のためだったらいくらだってがんばれる。
「な、なんだよ、テメー。やるってのか?」
「やるよ。こっちがぶっ殺してやる」
ぼくは男に殴りかかった。
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ぼくと黒川さんのあいだには暗黙の了解みたいなものがあって――。
ぼくは彼女に触れないし、彼女もぼくに触れてこない。けれど、彼女はいつも楽しそうだ。ラーメン屋では勢い良く麺をすする、スープも飲み干す。その様子を見て、ぼくはいつも微笑ましい気分に駆られる。
やっぱり思う。
手くらいつなぎたいなって。
でも、それを言い出せないまま、今日もブランコに座っている。
黒川さんは相変わらず勢い良くブランコをこぎ、きゃははと笑う。
ブランコが徐々に止まった。
「ねぇ、工藤くん、聞いてくれる?」
「なんでも聞くよ」
「前のカレシ、もうなにも言ってこなくなったよ」
「それはよかったね」
一生懸命にがんばった成果かなと思う。
「はい! そして残念なお知らせです!!」
あまりに大きな声で言ってくれたものだから、ぼくは両手を上げてどひゃっと驚いた。
「な、なに? 残念なお知らせって」
うふふと黒川さんは笑った。
「じつはわたし、癌なんです」
「えっ……」
驚き、瞬きすらできないぼくに、黒川さんはもう一度「癌なんです」と――。それから「今日が最後のラーメン。もうラーメンもダメなんだ」と言って、ぼくのほうを向いて、ぽろぽろ涙をこぼした。
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ぼくは一時も離れることなく黒川さんのそばにいたかった。中二の時間なんかどうでもいい。捨てていい。ぼくは彼女といたかった。だけど「お願い。学校には通って?」と言われ、そこにはどんな理由がるのかわからなかったけれど、泣く泣く言われたとおりにした。もちろん、授業が終われば彼女のもとに直行。日に日に痩せ細っていく彼女を見て、ぼくは病室で幾度も嗚咽を我慢した。
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やがて「いよいよ」という段になった。病床の黒川さんは、もう骨と皮しかない。ぼくは最後の瞬間まで彼女の手を握っていたかった――それはダメだと黒川さんは言った。
「触れ合っちゃダメだよ。わたしも工藤くんも忘れられなくなっちゃうから」
そうか。
だから、ぼくたちが肌を重ねることはなかったのか。
強い、ほんとうに強い、彼女の強さに比べてぼくの弱さ邪さときたら……。
「ねぇ、工藤くん、わたしとの時間は楽しかった?」
ぼくは涙を流しながら、「もちろんだよ」と答えた。
「わたしはきみが大嫌い」
そう言われ、ぼくは目を丸くした。
「わたしはきみを盛大にフッてやるの。きみが先に進めるように」
「それは黒川さんのエゴだよ。最悪で最低のエゴだよ」
苦しいよね。
恋って、苦しいよね。
その言葉を最後に黒川さんは昏睡状態に陥り、三日後、彼女は死んだ。
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黒川さんという美しい女性を失ってしまったものだから、ぼくはまだ、ほかの女性を好きになれないでいる。ぼくのことを好いてくれる女性はいるのだ。だけど――だけどなぁ、ぼくにはどうしたって、黒川さんのことを忘れるなんてできないんだなぁ……。
つまるところ、ぼくはフラれたんだ。
そこにあったのは間違いなく善意。
だけどぼくはフラれたんだ。
フラれた?
フラれたんだ。
どういうかたちにせよ、フラれたんだ。
黒川さんが亡くなって二年目の初夏、気持ちの整理がつき、ぼくはようやく彼女のお墓を訪れることができた。いたずらに苦しがっていたわけじゃない。ただただ、申し訳なかったんだ。そう。だって、そうだろう。自分のことを好きになってくれた女の子のお墓に、どんな言葉を向ければいいんだ。
お墓参りの折、ぼくは黒川さんのご両親に深々と頭を下げ、それを挨拶とした。するとお母さんのほうがぼくに声をかけてきた。「工藤さんですよね?」と。
びっくり。
――ってこともないか。
たしかにぼくには二年前の面影があることだろう。
「恵はいつも言っていました。おもしろい男性と出会ったのだと」
「彼女が、そう……?」
「そうです。だから、ですからあなたには、恵のことを覚えておいてほしいんです」
「それは、わかりますけれど……」
「お願いします、お願いします。恵のことを、どうか忘れないで……」
ああ、どうしてだろう。
どうしてここまで事はうまく回らないのだろう。
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もっとも重要なのは、ぼくが黒川さんを――恵さんを恋人に迎えることができなかったということだ。ああ。恋人などと言えば恐れ多いのかもしれない。でも、案外、ぼくたちは結ばれていたら、うまくやれたのかもしれない。
彼女は自分が長く生きられないと知ったとき、どんな思いを抱き、どんな顔をしたのだろう。一つ納得ができないのは粗暴で身体の大きなカレシを作ったということだけれど、それも寂しさゆえのことだったのだろうか。キスはした? セックスは? やっぱりしなかったのだと思う。
ぼくは心にぽっかりと空いてしまった穴を塞ぐことができず、ある日、山手線の内回りに乗り、ただひたすら、電車に揺られていた。ただただ悲しくて、「もっときみとあちこち行きたかったなぁ」と心に刻む。
黒川さん。ぼくもきみもおたがいを相手に恋愛して、だけどどちらも幸せになれなかったよね? きっとそうなんだよね?
なにもしてあげられなかったことを、悔しく思う。
だけどきみが自分の病気を顧みてぼくをフッてくれたのは、美しいと思う。
いつかぼくもそっちに行く。
そのとき、今度こそ、一生、愛し合えるとうれしいな。
ハートブレイク、ハートブレイク。