1.PKとの出会い
私、家族に売られたんだ。
直感的にそう分かったのは、今まで家族に冷遇され、いないもののように扱われていたからである。
「わっ」
左腕を乱暴に掴まれ車から降ろされると、きつく縛られた目隠しが解かれる。
横にいたのは黒い服とマスク、サングラス姿の大男。
昼間のはずだが目を開いても眩しくはない。
あたりを見渡すとそこは薄暗くて汚い路地裏で、目の前には落書きだらけの汚いコンクリートのビルがそびえたっていた。
「入んな」
「ここに…?」
「早く」
入口から先が暗くて見えない。躊躇していると背中をドンと押されて足を踏み出す。
「ひっ」
もうなんなの、嫌だな…そう思いながらも歩みを進めると、そこには煙草を咥えたチャイナ服姿の女性が重厚な椅子に腰掛けていた。
否、男か?
「連れてきました」
「あぁ、ご苦労」
声で男だとわかるチャイナ服は、私たちの存在に気付くなり煙とともに紅い口を開く。
「お前は下がっていいよ」
「はい」
「あんたは持ち物全部出しな」
煙草を灰皿にこすりつけ立ち上がるとヒールを鳴らして歩み寄り、筋肉質な腕で背中の黒いリュックをは剥ぎ取った。
出しなと言いつつ、盗るんじゃん。
リュックの中から手にしたのは唯一の所持品である財布。一円も入っていないはずだ。
だが、彼の目的は金ではなかった。
「あーあった。コレあんたの身分証、預かるから」
硬くて四角いそれを人差し指と親指で挟み、ひらひらと振る。
冷たい視線で見下され、睨むように吐き捨てた。
「どうぞ」
「ふーん?あんた、名前シカっていうの。変わってるー」
先ほどからの冷たい態度が少し和らぎ、彼はへぇと驚いた顔を見せる。
「綺麗な名前ね。じゃあ鹿、こっちおいで」
私はこの時、彼に少しだけ心を許してしまったのかもしれない。
表情を曇らせながらも、どうせ逃げられないのだろうと諦め、薄暗いコンクリートの空間さらに奥深くに、誘導されるがままに足を踏み入れた。
階段を上がり2階にあったのは、デスクと来客用の机が置かれた事務所のような空間だった。
誰もいない...。
そこを横目で通り過ぎ、3階、4階...とひたすら上がり続ける。
最初のうちはなんとなくカウントしていたが、数分経つ頃にはここが何階なのか分からくなっていた。というのも、床にも壁にも階数が表示されていないのである。足がしんどくなってきたが、チャイナ服がスピードを緩めることはなく、私は必死に追いかけるように足を動かした。
「しんどいでしょう。その足筋肉がないもの」
彼は振り返ることなく露出した背中で笑う。確かにその通りで、ショートパンツからのびる私の足は筋肉もなければ青白くて健康的でもない。すらりと細いわけでもなく、残念な脂肪が階段を上がる衝撃で揺れる。誰でも引き込もっていれば手に入れることができる足だ。
「普段食べ過ぎないけど人並みに間食をして、運動しない足ってところね。男はそれくらいの方が好きだけど」とチャイナ服は知ったような口を叩く。
その通りなのは言うまでもないが、言い返そうとしたところで彼は足を止めた。
目の前にはシルバーが所々、茶色く錆びたドア。
「ここよ。ピーくん!でてきなさい!」
膝に両手をつき肩を上下させる私とは異なり、チャイナ服は一ミリも呼吸を乱さず声を張る。
体力ヤバいんだけど、この人何者...?ていうか、ピーくんってだれ?
返事はない。
そう思ったがしばらくすると部屋から小さく物音が聞こえ、ドアが乱暴に開かれる。
出てくるのは先ほどのようなガタイのいい大男か、それともピーくんの名前に似つかわしい可愛い男の子か、そう考えた私の予想はどちらもハズレだった。
「...何」
「あらピーくんごきげんよう。今日もいい男ね」
20代半ばくらいだろうか。
ダメージの入ったグレーのジーパンに黒T姿の細身の男だ。
気だるそうにドアに寄りかかり、クマができた目で一瞬だけ私を見たが、すぐに興味をなくしたようにチャイナ服を見据えた。
「寝てんだけど」
本当か?
寝起きには見えないし、たとえ寝ていたとしても不機嫌そうな理由はそれだけではないような気がする。
そもそも呼び出されること自体を嫌がっているような、そんな印象を受けた。
「そう、起こしてごめんなさい。紹介するわ。彼女、鹿よ。今日来たの」
「鹿...?」
「そして彼は13階の主、PK君よ」
「PK...?」
挨拶し合うわけでもなく、お互いがお互いの名前に眉をひそめ、場は変な空気になる。
一瞬だけ「よろしくお願いします」と頭を下げようか迷ったが、そもそもここに連れてこられたこと自体が不本意で、結局言葉にはならなかった。
それよりも気になるのは、彼が「PK君」と呼ばれて肯定も否定もしないことだ。
さすがに本名ではないと思うが、そのおかしな名前は自ら名乗っているのだろうか。
それとも私が「鹿」と呼ばれてスルーしているように、どうでもいいのだろうか。
まぁどっちでもいいけれど、どういえばココが何階か判明したな、などとどうでもいいことに気が付いたところで、さっそく本題とチャイナ服が私の肩を掴んだ。
「この子、犬よ。あんた使わない?」
とっておきの獲物を披露するように、いやらしく「いぬ」を強調してウィスパーボイスで囁く。
それに対するPK君の反応は冷めきっていた。
「いらね。そんだけなら部屋戻るわ」
「ちょっ、まってまってピーくん!」
慌てて引き留める声を振り切って、彼は踵を返す。
その肩をチャイナ服が両手でがっちりと掴み、PK君が気の毒になるほどの勢いでこちらを向かせた。
「あんたが仲間を作らないのはわかるけど!とりあえずこの子がどっか入るまで面倒見てやってよ」
「悪いけどそういうのやんねーから」
「お願い」
「むり」
「P君!」
自分の目の前で、私の面倒を見るだ見ないだの攻防戦が繰り広げられる。
そんなことよりもチャイナ服の言葉が胸に引っかかった。
どっか「入る」ってどういうこと?
一体ここはどこで、私は何をさせられるんだろう。
知らない男の人に面倒みられなきゃならないのも意味わかんないし。
急に連行されて、最初からこの状況、ほんとに意味わかんない...。
でも売られたことだけわかるから、この先悪い予感しかない。
人体実験や人身売買だったらどうする?
目の前のチャイナ服とPK君は、“そういう”人かもしれない。
自分はこの先どうなってしまうんだろう。
本当は怖くておかしくなりそうだ。
2人の言い合いはチャイナ服の言葉で決着がついた。
「じゃああたし忙しいから、行くわね。その子よろしく」
ただの押し付けである。
「え?」
「おい」
彼はヒョイと片手を挙げると、真っ赤な裾をテロテロと翻し、逃げるように物凄い速度で階段を降りていった。
えー嘘!?
「.......」
「.......」
追いかけないのかよ、という男の視線を感じる。
しかし残念なことに、この足にはもう階段を駆け抜ける力が残っていないのだ。
あれ、残念...なのかな...
この時私は、少しほっとしている自分に気が付いた。
なぜならチャイナ服よりも、この人の方が安全なのではないかと思ってしまっていたからである。
そんな根拠どこにもないのに。
けれどドアに寄りかかったまま不満そうにこちらを見るPK君は、文句を言うでもなく、私を追い返して部屋に戻ろうという素振りを見せるわけでもなかった。
どうして。
拒絶されていないと分かると、一層安心が増してしまう。
この人が悪い人だったら、たぶんめちゃめちゃショックだ。
そう思った。