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第一章:未だ見ぬ春――一九二一年、蘇州。

「あの曲をやって」


 どこで手折ってきたものか、私の衣裳の桃色より一段濃くあかい梅の花が七分以上開いている枝を一本、傍らの花瓶に挿して腰掛けると、あの人は、蒼白い顔のやや黒目の小さな切れ長い瞳を細めると、低く太い声に反してどこか幼い感じの蘇州話そしゅうごで告げた。


「ええ」


 頷きつつ思わずこちらは顔が綻ぶ。


 二月ほど前からちょくちょくこの妓楼を訪れている日本人のこのお客は、漢文の読み書きはむしろ漢人以上に出来るのだが、いざ話す段になると、まるで十歳くらいの子供のような調子になるのだ。


 年の頃は三十前後で十六歳の私の倍近い大人だが、この人が語るのを聞くと、何故か生家にいる弟を思い出す。


 六つの時にこの娼家いえに売られてから会っていないが、あの赤ちゃんの弟も生きていれば十一歳のはずだ*1。


「それでは」


 二胡にこと弓を取り上げる。


 梅の香りが漂う部屋の中を低い女の歌声に似た楽器の音色が流れ出す。


“山青水明幽静静”


 この人が来る度、私は二胡を弾いてこの「太湖船」を歌う。


 楽器で弾くのを覚えたのは娼家に売られてからだが、歌そのものは父親が船頭をしていた生家にいた時から知っていた。


“湖上飄来風一陣”


 この「風一陣」の箇所で客はいつも寂しいような、懐かしいような笑いで切れ長い目を細める。


 そうすると、常は鋭く、どこか恐ろしげな面差しが和らいで本当に優しげな顔になるのがこちらも温かい気持ちになれて好きだ。


 同時に、今までの客にこんな気持ちになったことはないとも思う。


 この苦界くがいに沈められてから、扱いやすい客、扱いにくい客の別はあったが、接していて心の温まる客はいなかった。


 まして、外国人で、本当の所は素性も良く分からない相手に。


“呀 行呀行 進呀進”


 この下りでいつも低い小声で私に合わせて歌う。いつも歌うような漢語なので、歌の時の方が却って自然に聞こえる。


 生家の父さんもよく抱っこして水路を見せながらこんな風に歌ってくれた。その朧げな思い出の歌声と重なる。


 両親から「招弟しょうてい」と名付けられた私は泥の匂い漂う水路沿いの貧しい家の中でもむしろ可愛がられた。


 六歳で名前通りに弟が生まれて売られるまでは。


“黄昏時候人行少”


 あの人は今度は口を閉じて今しがた自分が折ってきた紅梅の枝を見やった。


 これはどこから持ってきたのだろう。この妓家の窓からは雪じみた白梅の枝しか見えない。


 その向こうにはまだ冬の高さを残した冷たく青い空が広がっている。


“半空月影水面揺”


 はらりと丸いくれないの花びらが一枚、花瓶の脇にこぼれ落ちる。


 つと濃く切ない匂いが二人の間を通り過ぎた。


“呀 行呀行 進呀進”


「ありがとう」


 耳に届いたのは温かな声であったにも関わらず、弓を持つ手が思わず固まった。


 何故今日は途中で打ち切るのだろう。


「明日、日本くにに帰る」


 耳の中が一瞬、凍り付いた風に物音が消えた。


 次の瞬間、胸の奥に刺されたような痛みを覚える。


「そうですか」


 いいや、いつかこの日が来るのは知っていた。この人はもともと他所から来て、一時いっときだけここに居て、また元の場所に帰る人なのだから。


 だが、今日、今この瞬間であって欲しくなかった。


「君とはとても楽しく過ごせた」


「ありがとうございます」


 この人にはきっと本国に立派な奥様がいらっしゃるのだ。


 日本にも自分のような稼業の女はいるだろうし、物慣れた様子だから、恐らくこうした場所で初めて馴染みになった相手でもないのだろう。


 むしろ、この人は優しいから表に出さないだけで「泥臭い支那しなの芸者だ。やっぱり日本の女の方がいい」とすら思われているかもしれないのだ。


「また会いにいらして下さいね」


 私はあなたの唯一でもなければ、最初でも最後でもないけれど。


 相手は穏やかに微笑むと小綺麗な身なりに比してそこだけややバサついた黒髪の頭を頷けた。


「きっと来るよ」


 この声の温かさを耳にしただけでも約束は果たされたと思おう。


 相手が席を立つ。


 出ていくのだ。こちらも思わず立ち上がった。


 予想に反して、あの人はこちらに歩み寄る。


 そして、懐を探ると黒い絹の小さな包みを取り出した。


「記念にこれを」


 開いた包みというより漆黒の絹の手巾ハンカチの上には深い藍色の瑪瑙めのうで出来た珠玉の耳飾りが一対並んでいた。


 光を受けると、深い青のたまに白や緑の渦模様が浮かび上がった。


「きれい」


 額にすればどの程度の宝飾か、この身綺麗な日本人にとってはどの程度の出費かは分からない。


 それでも、この人が私に選んで贈ってくれた物だと思うと、掛け値なしに輝いて見える。


 あの人は右手に目立つたこのある、蒼白い顔に比して武骨な感じの手で耳飾りを取ると、私の耳に片方ずつ着けていく。


 左、右と耳朶みみたぶに微かな痛みが走るのと同時に頸に飾り珠のぶつかる感触がした。


 あの人の胸にずっと入っていたせいか瑪瑙の珠玉はまだほんのり温かい。


 胸が早打つのと同時に外の空気に晒されて直に冷えてしまうであろうことが切なかった。


「待春の可愛い耳にはぴったりだ」


 この妓楼で客を取るようになった私に新たに付けられた名前は「待春たいしゅん」という。


 窓の外で花が咲こうが散ろうが、変わらずこの名で呼ばれ続ける。


「ありがとうございます」


 明るく言おうとしたのに、妙に上擦った、間の抜けた声になった。


「じゃ、元気で」


 飽くまで穏やかな笑顔で告げたあの人の目が、鴛鴦おしどりを刺繍した絹靴を履いた、纏足をしたこちらの足元を見やった瞬間、さっと影が差したように曇るのを私は見逃さなかった。


 折ってきた紅梅の枝と新たな耳飾りをした娼妓を残してあの人は去っていく。


 窓の外から琵琶びわの音色が聞こえてきた。近くの別の妓家みせで私と同じ生業なりわいをする女が客に請われて弾いているのだろう。


 花瓶の枝から紅い花びらがまたはらりと零れ落ちる。


 縛った足で体を支えて立つのにもくたびれて私はまた腰を下ろす。


 白髪の女将かあさんがやってきた。


「あの日本人は帰ったのかい」


「ええ」


 もう日本に帰るから二度とここには来ないって。そこまで口にするのは嫌だったし、女将さんにも言わなくても察せられているだろうという気がした。


「いい耳飾りを貰ったわね」


 女将さんがこんなに上機嫌で頷いているということは、多分値打ちのあるものなんだろう。


 でも、何故か嬉しくない。


 こちらの思いをよそに相手は笑顔の奥の目を冷たく光らせて続けた。


「今夜は知県様のお座敷があるから」


「分かりました」


 こう答える以外は許されていない。


 逃げることも拒むことも出来ないのだ。


 ここでこの身を売って少しでも高い金にするしか、私には生きる術がない。

*1 当時は数え年なので生まれた年を一歳として計算します。このヒロインは満年齢では四、五歳で売られて劇中のリアルタイムでは十四、五歳です。

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