いっそのこと
風の冷たさに、目を覚ます。
布団を引き上げようとして、ああそうではないと気付いた。
夢を、見ていた。贅沢な当たり前に包まれていた頃の。眼裏にこびりついて剥がれない、確かにあった栄光の世界の。
世界は、色彩に溢れていた。それは視覚だけでなく。萌え出づる緑と、天上の青と白のコントラスト、一面に染まる黄と紅。白く化粧された視界にぽつりと咲く赤。見渡す限りの薄紅。足の裏に熱い白と、広く冷たい碧。視界に橙と紫が揺れて、かと思えば赤と緑の中で光が乱舞する。鳥の囀りが春を告げ、蝉の鳴き声が夏を主張し、虫の音が秋を誘い、荒ぶ風が冬を連れてくる。
空を映す水の青に映る山脈と、鬱蒼とした木々の合間に落ちる白光と、溜まる枯れ葉を踏み潰す乾いた音に、白く塗り潰された静寂。聳え立つ尖塔に、白と黒が鮮やかな壁に、朱色を刷いた屋根に、厳ついた灰色の砦に。
抜け出すのが億劫になるくらいの柔らかな毛布と、眠気を誘う陽気、寝汗に塗れて目を冷ます不快さと、つい眠るのが遅くなってしまう夜長に。見上げれば輝く月と煌く星とが柔らかい光を落として。
只管に移り変わる景色に、郷愁の念が湧いてしまうのを止められず。目が覚めて、体温を吸った毛布も、寝る前まで読み耽った本も、肌に心地よい衣類すらなく、夢の中との差異に落胆し。
日に日に鮮明になっていくかつての光景に、うんざりする。それなのに次はどんな光景を思い出すのかという期待とどんな光景を見せられるのかという緊張とが綯い交ぜになる。夢に期待すればするだけ、厭いた現実がより重く圧し掛かるだけだというのに。
夢の中の記憶にしか希望が無いというのなら、何故。己だけに。
寝具だというには粗末だと、記憶の中の意識が告げる薄布を手繰り寄せる。衣服だというには襤褸切れだとしか思えなくなったそれの胸元を握り締める。
嘗ては在った四季など今は無く、ただ毎日寒く薄暗い世界で目が覚めて、闇の中で眠りに就く。常に天に座す分厚い雲は、星は愚か月や太陽さえ隠してしまう。夢に見るまで、あの灰色の昊の向こうに明るいものがあるだなんて、想像すらしなかった。そもそも昊はそういうものだという認識しかなかったというのに。
嘗ての記憶が、鮮やかな色彩と共に、絶望を連れてくる。
幸でも不幸でもなかった生が、思い出してしまった記憶の所為で不幸だと認識されてしまって。
ああ、この鮮やかな世界を見せてくれるのならば、いっそのこと。
夢から目覚めなければいいのに。