ナナさんのふしぎなケトル
やわらかな早春の太陽が、キッチンの床に、玉子色の光のすじを落としています。
まだほんのりと甘い香りの残るオーブンレンジに背を向けて、ナナさんはケトルに水をさし、お湯をわかしはじめました。
ちらりと壁の時計を見上げると、もう八時。
朝の六時から、書きかけの童話を夢中で書いていたので、時間のことなど、すっかり忘れていました。
きっと今ごろ、孫娘のリリ子は、チョコレートクッキーの入った大きな袋をかかえて登校しているころでしょう。
「ねえ、コウさん、あのね」
ナナさんはゆっくりとコウさんの方を向くと、口を開きました。
「今日はバレンタインデーでしょう? 今どきの女の子たちの間で流行ってるのは友チョコなんだって。お互い、友だち同志で、手作りのクッキーやチョコをやりとりするらしいのよ。だから、ほら、昨夜、リリ子もここでびっくりするほどたくさん、焼いて帰ったでしょ?」
そうなのです。昨夜ずいぶんおそい時間に、オーブンの調子が悪いと言って、リリコは、祖母のナナさんに、SOSを求めてやって来たのでした。
「たくさんのお友だちに配るのも楽しいでしょうけど、たったひとりの人にだけにあげるっていうのも……」
本当にうれしいものなのよと言いかけ、ナナさんはゆっくりとふりかえりました。
ナナさんの視線の先。キッチンの飾り棚の上に置かれた写真立ての中で、ひとりの男の人がほほえんでいます。
金ボタンのついた紺の制服に紺の制帽。もと鉄道マンのだんなさんのコウさんです。
昨年の春、コウさんが遠いところへ旅立ってしまってからというもの、ナナさんは一日のほとんどを、こんなふうにコウさんに話しかけながら過ごしていました。
やがて、ケトルがシュンシュンと歌い始めました。
「ね、コウさん。リリ子ったらね、まるで一人前みたいな口をきくのよ。おばあちゃんのキッチンに入ると、気持ちが華やぐわねだって……」
そう言って、ナナさんは少女のように首をすくめて笑いました。
赤と白のギンガムチエックでまとめられた、テーブルクロスにクッション。スリッパ。
かわいい絵柄のそろったマグカップやお皿。そして、ナナさんが、何よりも大切にしている真っ赤なホーローのケトルは、大好きなコウさんからの贈り物でした。
「このケトル、ときどき、大きなトマトかりんごに見えてしまうんだよなあ」
そのケトルを見るたび、コウさんは、きまってつぶやいたものです。
本当に、そのケトルは、もぎたてのりんごや、とれたてのトマトのように、みずみずしい色でしたから、みじんも汚れがつかないよう、ナナさんは、いつだって手入れを怠らなかったのです。
赤いケトルの注ぎ口からは、どんどん湯気がたちはじめました。お湯がわいたようです。
ケトルを見やったナナさんは、いつもより湯気の出方がはげしいなと首をかしげました。
注ぎ口から立ち上る湯気は、みるみるキッチン全体を白く包み、ケトルの赤さだけがあやしく浮き上がってみえました。
そうするうちに、
「ナナさん、いっしょにホットココアが飲みたいね」
とつぜん、背後からコウさんの声が聞こえてきたのです。
背中を向けたまま、うなずくナナさんの肩が、小刻みにふるえています。
寒い冬の日、よく二人で飲んだホットココア。その甘さが、舌先にまではっきりとよみがえってきます。
「コウさん!」
ナナさんは、思わず写真立てに顔を向けました。そして、あたたかな湯気が、もわんと顔にかかった瞬間、ナナさんは、まるでひっぱられるようにコウさんの写真たての中に吸い込まれていきました。
どのくらい、時間がたったのでしょう……。
「ここは、いったいどこ?」
ナナさんが、キョロキョロとあたりを見まわすと、
「やあ! 久しぶり!」
背後でなつかしい声がしました。ふりかえると、写真のままのコウさんが、すぐ後ろに立っているではありませんか。
「コウさん!」
離ればなれになってから、ずっと、ずっと逢いたくてたまらなかったコウさん……。
けれども、どうしてとつぜん、こんなことに……?
混乱しているナナさんの気持ちをさとったかのように、コウさんが口を開いたのです。
「ごめんね。ナナさん。ケトルの湯気が見えたから、思わず、もう一度いっしょに、ココアが飲みたいなあと願ってしまったんだ。……ごめん。まだきみをこちらによぶつもりは、まったくなかったんだけれど……もしかして、きょうがバレンタインデーのせいかな」
コウさんは、オロオロしながら、ナナさんに向かって何度も頭を下げました。
「いいのよ。コウさん。わたしには……」
ナナさんの口が、すなおに動きました。
「最高のバレンタインデーよ。もうずうっとここにいたいわ」
「いいや。ナナさんはまだまだ、しなきゃいけないことがたくさん残ってるはずだ」
コウさんは、きっぱりと首をよこにふってみせました。
「リリ子だってきみをたよりにしてるし、何より、書きかけの作品を完成させてしまわなきゃ!」
ちょっとためらったあと、ナナさんは、おそるおそるコウさんにたずねたのでした。
「わたし、もとの世界に帰れるの?」
『それはもう無理だろうね』……心のどこかで、コウさんがこう言ってくれることを期待しながら……。
なのに、コウさんときたら、
「そんな元気な人に、ここにずっといられても困るよ。さあ、送っていこう」
そう言って、いそいそと立ち上がります。
「コウさん、送っていくって……いったい?」
「ナナさん、ぼくがいつも話してた夢を忘れたのかい? これでもぼくは、五十年近く鉄道マンだったんだよ」
コウさんは、ナナさんの手をとると、ケトルの上に置き、上から包み込むように、自分の手のひらを重ねました。
「あいかわらず冷たい手だね」
小さなナナさんの手がすっぽりと、コウさんの大きな手のひらの中にかくれます。
ケトルのほのかなぬくもりも手伝って、ナナさんの手は、だんだん、ほっこりとあたたまってきました。こうやって、コウさんにあたためてもらった想い出が、いったいどれほどあることでしょう……。
ナナさんの目頭は、自然に熱くなってくるのでした。
そのうち、ナナさんは、あることに気がつきました。
赤いケトルが、だんだん大きくなっているようなのです。
重ねた二つの手のひらが、まるでケトルにはりつく小さなイチョウの葉のように見えてきたとき、ナナさんは思わず目を疑いました。
赤いケトルは等身大よりさらに大きくなっていたのです。
「コウさん、このケトル……いったいどうして?」
「ようし、これで手を離してもだいじょうぶだ」
コウさんは、ケトルを乗せた台をゆっくりと押しながら、部屋の外に出ました。ナナさんもあとに続きます。
「あら、まあ……」
頭上を見上げたナナさんは、思わず声をあげました。
漆黒の空にきらめく、満点の星、星、星。
その降り注ぐような銀河を突き抜けるように、一本のレールが、ぼうっと光りながら伸びています。
車輪のマークの金ボタンをつけた制服に、同じ記章の制帽。黒色のひさしをクイッと下げ、コウさんが、片手をあげてみせたとたん、彼方から、するするとすべるように、光のかたまりが近づいてきました。
それは、一両きりの客車でした。ケトルを乗せた台のすれすれまでやって来てストップすると、ごくあたりまえのように、台と客車は、がちりと連結しました。
ナナさんが固唾をのんで見守る中、次に台の底には、みるみるりっぱな車輪が下りたのでした。
まっ白な蒸気を、注ぎ口から煙のようにモクモクと噴き出すケトル。まさに真っ赤なケトル列車です。
ピーーーーーーーーーーッ
ケトルは思いきり大きな音をたてて、出発の合図を送りました。
ナナさんの手をとり、コウさんが乗り込みます。
ケトル列車は、ゆっくりゆっくり車輪の回転を速めていきました。
無数のきら星が、どんどん後方に流れていきます。
暗い静寂の中を、シュッシュッというケトルの音だけが響きわたります。
レールは、光の帯のように、途切れることなく、どこまでも続いているのでした。
「レールがあっても電車が通る時期は決められているんだ。今日は特別。ナナさんのケトルのおかげで、臨時便ができてよかったよ」
コウさんは、ホッとしたようにそう言いました。
しばらくして……。
「できたよ。はい、どうぞ」
コウさんが手わたしてくれたものは、ほかほか湯気の立つ、赤いマグカップでした。
「これ、覚えてる?」
ナナさんは、こっくりうなずきます。
いつかまた、いっしょにお茶を飲みましょうと、ナナさんが最後に、コウさんに送った、赤い二つのマグカップとスティックのココア。コウさんは、ずっと大事にとっておいてくれたようです。
「着くまでに、ゆっくり飲みなよ」
とびきり熱いココアを、ナナさんはゆっくりゆっくりと口に運びました。
話したいことは山ほどあります。けれどもコウさんが目の前にいてくれるということだけで、ナナさんの心は、十分満ち足りていたのでした。
今の幸せが、小指の先ほどもどこかに行ってしまわないように、ナナさんはひたすら、コウさんの背中を、じっと見守っていました。
紺色の制服に包まれた、張りのある後ろ姿。
ナナさんと出会ったばかりのコウさんのようです。
「ぼくは、列車の音を聞くだけでわくわくするんだ」
「私も好きよ。列車に乗ると、どこまでも旅したくなるわ」
思いがけず口から飛び出した、小鳥のように軽やかな声に、ナナさんはおどろきました。
客車の窓ガラスに映っているのは、まだ二十代になったばかりのナナさん。たっぷりとした黒髪が、肩でゆれています。
「そうだよね。列車っていうのはさ……」
何度も聞かされたはずのコウさんの鉄道話が、再び始まります。
ナナさんは、耳をかたむけながら、ココアをゆっくりと口に運びました。
「今夜も待ってるかな……」
そうつぶやくコウさんの背中が、いちだんと大きくなったような気がしました。
父親となったコウさんのどっしりとした後ろすがたです。
窓ガラスには、三人の子どもの母親になったナナさんが映っていました。
「あなたの背中で汽車ごっごするの、子どもたち、待ちきれないのよ」
「途中で、脱線ゲームすると、喜ぶんだよな」
ナナさんの心に、キャアキャア歓声を上げてはしゃぐ、幼い子どもたちの姿が浮かびます。
こくりと音をたてて、熱いココアがナナさんの喉を過ぎていきました。
ゴトゴト ゴトゴト
白い蒸気をあげながら、二人を乗せた列車は銀河を走り続けます。
「ぼくが、病気になってるってわかったとき、ナナさんは仕事をやめろって言わなかったね」
半分になったココアのカップから、顔を上げ、ナナさんはコウさんの後ろ姿を、じっと見つめました。
少しやせて、髪に白いものが混ざり始めたころのコウさんでした。
重い病気が見つかり、すぐにでも仕事を辞めるかどうかで悩んだ時期がありました。
窓ガラスに映るナナさんは、すっかりやつれています。心配のあまり、幾夜も眠れない日が続いていたのです。
悩み抜いたあげくに、ナナさんがコウさんに出した答え。それは、そのままずっと、鉄道マンとしての仕事をやりとげることでした。
「きみに許してもらえなかったら……」
大きく呼吸を整えて、コウさんが言いました。
「ぼくは、自分の人生に満足できないままだったな。最後の最後まで、鉄道マンでいられて……うれしかったよ。とても……」
それは、身体こそやせ衰えても、自信と充実感にあふれた、コウさんの後ろ姿でした。
あふれそうな涙をこらえて、ナナさんは最後のひとくちのココアをぐいと飲み干しました。
やがて、車内に金色の光が射しこんできました。
窓の外は、いつしか、まばゆいほどの明るい世界へとかわっていました。
「そろそろ到着だからね」
ナナさんの赤いケトルは、どんどん小さくなりはじめています。
ほとばしるような勢いだった蒸気も、ほぼ、おさまりかけていました。
やがてコウさんは、すっかりもとにもどったケトルをナナさんに手わたしました。
「コウさん、また、きっと逢える?」
ナナさんの問いかけに、コウさんはだまってうなずき、ほほえみました。
コウさんが片手をあげ、列車に合図を送った瞬間、ケトルに残っていた最後の蒸気が、もわっとナナさんの顔を包み込みました。
「おばあちゃん、おばあちゃん、ただいま」
いつ帰ってきたのか、リリ子がそばに来ています。
赤いケトルを握ったまま、ナナさんはガス台の前に、じっと立ちつくしていたのでした。
「どうしたの? ボーッとしちゃって……」
不思議そうに、顔をのぞきこんでくるリリ子を見つめているうち、ナナさんは、ハッとあることを思いついたのでした。
「ねえ、リリ子。おばあちゃん、新しいお話、書こうと思うの」
「へえ、どんなお話? 聞かせて。聞かせて」
りり子が、そばにすりよってきます。
「あのね。ケトルのお話。おじいちゃんとおばあちゃんのためだけ走るケトル列車のお話よ」
「聞きたい!けど、そのまえに、おやつ食べよう。みんなにもらったクッキーがあるんだ」
「じゃあ、あったかい紅茶を入れようね」
赤いケトルに、いそいそと水をさすナナさんを、写真のコウさんがやさしく見守っていました。