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川嶋真帆の隠しごと

作者: まに

 繚蘭学園高等部の授業は原則的に六校時までだが、特別な事情によって五校時までに短縮されたり、逆に七校時目が追加されることもある。例えばそれは職員会議によるものであったり、楽興行事の打ち合わせであったりと、理由はまちまちで、一概にどうしてと言い切るのは難しい。

 五月も半ばに差し掛かったこの日は、その〝特別な事情〟によって七校時目が実施される日であった。とはいえ、何も机に縛り付けられて受験のために必要な知識を叩き込まれるわけではない。この手の追加授業ではホームルームを行い、何らかの行事の準備を進めるのが常だ。

 今日の内容は五月末に控える体育祭の種目決めである。

「……あー、めんどくさっ」

 胸に溜まった気だるさに耐えかねて、瑞原(みずはら)勇馬は机に突っ伏した。頬に触れた机の冷たさが悄然とした気持ちを和らげてくれるが、それも一時の気休めにしかならない。

 体育祭が憂鬱なのではない。むしろ身体を動かすのは勇馬が最も好み、得意とする分野である。学業の分野では日々苦しめられているので、この日くらいは活躍してやろうと意気込んでいるほどだ。

 にも関わらず、こんな気分に陥っているのは――。

「瑞原くん」

 頭上から声をかけられた。女子のものだが、高校入学一ヶ月にしては随分聞き慣れた声だった。となると、声の主は中学時代からの同級生に限られる。そう確信し視線を上げた先には、やはり見知った間柄の少女がいた。

 やや小さめの背丈、ボブ風のショートカット、化粧っ気のない顔、ほのかにはにかんだ表情――勇馬と最も親しい異性と言える人だった。

「……真帆(まほ)か」

「寝不足?」

「いや、ちょっと気が重いというか……」

「わたしで良ければ相手になるよ?」

「真帆は優しいなぁ」

 相談ごとの類を人に聞いてもらうのはあまり得意ではないが、幸いというべきか、今回の件は大して重い話でもないし、むしろ誰かに話を聞いてもらった方がもやもやした気持ちが晴れるような気がする。真帆の厚意を無碍にするのも悪いので、思い切って聞いてもらうことにした。

「この間、体力テストがあったろ?」

「あったね」

 繚蘭学園高等部では、毎年四月の中旬に丸一日を費やして全校一斉に体力テストを実施する。校内にいくつかあるグラウンドや体育館などに各種目のブースを設置し、生徒たちは好きな順序でそれらを巡っていくのだ。名目上はあくまでも体育の授業の一環であるものの、学内遠足としての側面が強いため、新たなクラスメイトたちとの親睦を深める上で大きな役割を持っている。

 そんな楽しいイベントであるはずの体力テストだが、勇馬にとっては少し異なった意味合いを孕んでいた。

「一五〇〇メートル走の結果さ……学年で二位だったんだよ」

「らしいね。知ってるよ」

「で、最近知ったんだけど、全校でも二位らしいんだよ」

「……らしいね。知ってるよ」

 一年生が各四十人ほどの七クラスなので、学年の生徒数は二八〇人程度になる。学年ごとに多少の誤差がある可能性も考えると、全校生徒はおおよそ八五〇人前後といったところか。その中で一年生が二位というのはむしろ快挙に思える。しかもこれは勇馬の専門とする短距離ではなく、中長距離での成績だ。誇りこそすれ、落ち込む要因はないはず。

 しかし、川嶋(かわしま)真帆は知っていた。それだけの成果を遂げていながら、勇馬が落ち込む、その理由を。

「一位の人も一年生なんだよね」

「ああ」

「しかも、瑞原くんと同じレースだったんだよね」

「そんな情報まで出回ってるのか」

「うん……瑞原くん、有名だから」

 あの瑞原勇馬が、走りにおいて遅れを取った。そんな報せというか噂のようなものを聞いた時の衝撃と戸惑いを、真帆は忘れていない。恐らく目撃者は、勇馬が何某かの背中を追いかけ続け、ついには追いつくことなくレースを終える姿をその目で見ていたのだろうが――真帆にはその光景が全くイメージできない。

 瑞原くんが負けるなんて、あるはずがないと思っているから。

「まぁ、こんなこと言いたくはないけど、ショックだったよな」

 自分が短距離走の部門でそれなりの知名度を博していて、それを周りの生徒たちが話のネタにしている。勇馬はそれ自体は気に留めていない。良いことで有名になる分にはむしろ大歓迎だ。しかし、そうなると困るのが――今回のように、自分を凌駕する存在に遭遇してしまい、敗北を喫した時である。野次馬どもはこの手のネタができると嬉々として噂を撒き散らしたがる。さして人目を気にするタイプではない勇馬でも、陸上関連となると少なからずプライドがある。そこを色んな人に何度も抉られるのは少々痛い。

「後からタイムだけ知らされて『実はおまえより速く走ったヤツもいたんだよ』だったらまだ良いんだよ。でも、アイツはおれの前を走り続けていたからな」

「……」

 何を返せば良いかわからない。「元気出して」と宥めるのも、「次頑張ろう」と励ますのも何か筋違いな気がした。中学の頃ならともかく――今の真帆は陸上から退いた身だ。今更、勇馬の心に響く台詞なんて言えるはずもない。

「……」

 それでも何とかならないかと気の利いた一言を探している内に、七校時目の始まりを告げるチャイムが鳴ってしまった。

「あ――」

「もう時間か。何かありがとな、聞いてもらえてスッキリしたわ」

「うん。また何かあったら遠慮せずに話してね」

 勇馬は笑ってくれたが、真帆は自分の不甲斐なさが情けなくて仕方なかった。大好きな人が落ち込んでいて、自分を頼ってくれたのに、何も力になれなかった。そんなカッコ悪い現実が内側から責め立てるから、思わず俯いて席に着くしかなくなる。

 実はふたりで話せた段階で勇馬の心は晴れていたなんて、真帆には知る由もない。




「それではこれより、体育祭の出場種目を決めたいと思います」

「女子は教室前方、男子は後方に集合して下さい」

 クラス委員長を務める(たちばな)(みき)(ひさ)菅井(すがい)美希(みき)が息の合った調子でクラスに指示を出す。

そういえば二人は中学の同級生で、その頃から揃ってクラスをまとめる役に就いていたらしい。幹久と美希ということで『ミキミキコンビ』なんて呼ばれていた――という小ネタまで含めて全て勇馬の親友である安東(あんどう)慶彦(よしひこ)から聞いた情報である。アイツは一体どこでその手の情報を仕込んでいるのだろうと不思議に思わずにはいられない。

ともあれ、勇馬はそのミキミキコンビの指示に従って教室の後方へ移動する。程なくして男子全員が揃い、早速話し合いが始まった――のは良いが、

「みんな何やりたい?」

「玉転がしとか楽だよな」

「おれ障害物競走! これ確定な」

「騎馬戦出るヤツ、上半身脱ぐらしいから鍛えとけよ」

「てかそもそも一人何種目まで出られんの?」

 ――全く進展する気配がなかった。この一年一組は知り合ってひと月のメンバーにしてはかなり仲が良いクラスで、それについては喜ばしいことなのだが――どうにも騒がしい連中が多くて困ったものだと教師陣もほとほと手を焼いている。

 半ば諦めつつことの運びを静観しようと思っていたその時、教室前方からよく通る女子の声がした。

「男子はリレー誰が出るの?」

 やけに聞き覚えのある声だと思ったら、女子の群れから黒髪ロングの長身少女、真島(ましま)有沙(ありさ)が出てきた。上半身はワイシャツ姿で、脱いだカーディガンは腰で結んである。時折見かけるスタイルだが、それがイケてる女子高生のファッションなのかどうなのか、勇馬には判断しかねる部分があった。

 それはさておき――流石は人気者の美少女といったところだろうか。彼女が一言聞いただけで、クラスの男子どもがピタリと雑談を止め、その視線が磁石のように吸い寄せられていく。こればかりは鈍感な勇馬でもわかった。

「今決めてる!」

「てか真島さん出るの?」

「真島さん足速いらしいしなぁ。これは頼りになるぞ!」

 男たちが少しでも真島有沙に近づこうと必死に返答するさまが、勇馬には若干哀れに思えた。

 勇馬は知っている。有沙が男に色目を向けられることを何よりも嫌うことを。そして、そうした下心を見せた男が最終的にどういう風に拒絶されてきたかを。

 もちろん昔の有沙と今の有沙を等号で結ぶのは短絡的すぎるだろう。彼女が大々的に『男嫌い』を公表していたのはあくまでも中学二年生前後であり、それが若さゆえの過ち、すなわち中二病の類であった可能性も大いにある。

 しかし、そう容易く人は変わるだろうかという疑問もある。現に勇馬自身、小学校の頃からひたすら走ることにしか興味がない。周りの奴らが勉強に励んだり、恋をしたり、ギターを握ったりしても、それらに憧れることは一切なかった。

 今、頑張ってるクラスメイトたちもいずれはフラれてしまうのだろうか――勇馬は愚かにも真島有沙との何かを狙っていそうな男子たちを冷ややかな目線で見守る。

 野郎どもの騒ぎ声を一斉に浴びた有沙は困った風に苦笑し、

「そんなにいっぺんに話しかけられてもわからないわ」

 なんて愛想よく返している。相樂(さがら)みたいな真似をするんだな、と思う。いや、正確に言うと相樂実里(みのり)は常々男への営業スマイル全開であるのに対し、有沙は下心さえ覗かせなければ男女分け隔てなく仲良くするタイプなので少し違うのだが。

 それにしても、色別対抗リレーのメンバーは少し気になる。具体的には――、

「真帆は出るのか」

 ――ふとした関心だったのだが、つい口を衝いてしまった。さっきからあれこれ心の中で思いすぎていて、呑み込める容量を超えてしまったのかもしれない。

「真帆? もちろん出るわよ」

 男子たちの相手をしていたはずの有沙が即座に答えた。同時に野郎どもが恨めしそうに勇馬に視線を向ける。中学から一緒だから仲が良いものだと勘違いされていなければ良いなぁと他人事のように思う。あるいは、もっと単純に――必死に有沙の気を引こうとしていたところに横槍を入れられて、しかも有沙が容易くこちらに流れてきたのが気に入らなかっただけか。

「ていうか瑞原くんもリレー出るでしょ?」

「あー、うん……どうだろ」

「絶対出た方が良いわよ! 得意分野じゃない!」

 得意なのは短距離走であって、リレーではない。一人で自由にトラックを駆け抜けるのと仲間同士で一つのバトンを繋いでいくのとでは、同じ走るにしても意味合いや重圧が大きく違ってくる。

 とはいえ、瑞原勇馬の名が学年――いや、学園全体に知れ渡っているのは勇馬自身もよく弁えている。ここで無意味に謙遜して辞退なんてしたら、その印象は悪くなるに違いない。

「よし、出るよ」

「そう来なくっちゃ!」

 有沙が嬉しそうに指を鳴らす。全く、名が知れるのも困りものだ――そう愚痴る代わりに、胸の中に溜まった諸々をため息と一緒に吐き出した。




 結局のところ、勇馬は短距離走、色別対抗リレー、騎馬戦の三種目に出場することになった。我ながら花形ばかりに偏ってしまった気はするが、これも有名人の宿命とやらかと受け入れた。

 七校時目も終わったし、今日は部活もないので、早速部室に行こうと席を立つ。部活がないのに部室へ行くのかという疑問が出るかもしれないが、部活がないだけで自主練をしてはいけないわけではない。このまま帰っても退屈だから、グラウンドかトレーニングルームにでも行って汗を流そうと思い立ったまでだ。幸い、予備の練習着は部室のロッカーにある。

 部室の着替えを取りに行くため、教室を出ようとした時だった。

「瑞原くん」

 背後から声をかけられた。女子のものだが、高校入学一ヶ月にしては随分聞き慣れた声だった。となると、声の主は中学時代からの同級生に限られる。そう確信し視線を上げた先には、やはり見知った間柄の少女がいた。

 やや小さめの背丈、ボブ風のショートカット、化粧っ気のない顔、ほのかにはにかんだ表情――勇馬と最も親しい異性と言える人だった。

「真帆か」

 今日はよく話しかけられると思ったが、よく考えてみるとそうでもなかった。中学の頃に比べて話す機会が減ったからそう感じるだけだ。

「どうした?」

「えっと、もう帰るのかなって」

「いや、これから部室へ行こうと思っていてな」

「そっか」

「……何か用か?」

「あの……今日この後部活ないって聞いたから、良かったらこの後一緒にトレセンでも行きたいなぁって思ったんだけど……」

「あぁ――」

 トレセンとはトレーニングセンターの略で、冬木市の市民体育館の地下にある体力トレーニング施設を指す。使用料はかかるが、学内のトレーニングルームよりも一回り大きく、施設内が充実していて使いやすい。

「でも、部室行くなら仕方ないよね」

「そんなことないぞ。ただ何となく身体を動かそうと思っただけで、別に誰かと約束がある訳でもないし」

「え、じゃあ――」

「うん、行こうぜ」

「あ、ありがと!」

 真帆が頭を下げる。おおげさな気はするが、それだけ喜んでくれているのだろうと思うと悪い気はしなかった。

「さて、それじゃあ――」

 一度言葉を区切って考える。市民体育館はいつもの通学路から少しだけ外れたところにある。一度自宅へ帰ってしまうとまた出るのは億劫になるので、

「着替え取りに部室に行ってくるわ」

「やっぱりそこに落ち着くんだね」

「悪いな、校門で待っててくれ」

 真帆に軽く手を振り、勇馬は駆け足で部室へ向かった。




 部室の前の扉にたどり着くと、ドアの鍵は開いていた。もしかして先輩でもいるのだろうかと思い、

「お疲れさまです」

 様子を窺いながらゆっくり中へ入ったが、そこには同期が二人いるだけだった。

「お、勇馬じゃん」

 先に勇馬に気づいたのは門倉(かどくら)(いつき)だった。今日も綺麗な角刈りは健在である。部活があるわけでもないのに制服ではなく運動着を着ていた。ということは、

「自主練でもするのか?」

「おお。体力テストの結果じゃおまえと諜廼(ちょうの)に大きく後れを取ったからな。おれも駆流(かける)も気合い入れ直さないとなって思って」

 樹がそう語る隣では河口(かわぐち)駆流がしみじみと頷いている。樹の角刈りもさることながら、駆流の中途半端に伸びかけた、先っぽだけ微かに赤い坊主頭もなかなかに面白い。

「駆流はそのまま伸ばすのか、髪の毛」

「当たり前だろ! おれは元々坊主じゃねぇ!」

 知っている。入学初日、このバカは堂々と校則を破って髪の毛を赤く染めて登校してきたのだ。当然ながら生活指導の教師に見つかり、事情徴収を受けたあと丸刈りにされて今に至る。

「駆流は昔っからワルいことしようとしては返り討ちに遭うよなぁ。中学の時だって――」

「その話はやめろ!」

「えーっ。別に良いじゃん」

「良くねぇよ!」

 何やら面白い昔話があるらしい。非常に気になるが、今は人を待たせているので聞くのはまた別の機会にする。勇馬はそそくさと自分のロッカーから着替えを取り出す。

「何だ、勇馬。どこか行くのか?」

「ああ。まぁ、ちょっと。校門で待たせてるんだ」

「――女か!」

 樹が不意に語調を強めた。うるさい奴だ。

「……違うよ」

「嘘だな。目が泳いでる」

 バカのくせにどうしてそこはわかるんだ。そう言ってやりたいが、樹の詰問は留まるところを知らぬ勢いで、こちらが言い返す余地など微塵もない。

「なぁなぁ、どこの誰だよ。一緒のクラスか? てか、そもそも同い年か? なぁ、なぁ!」

「……先に言っておくけど、デートとかじゃないぞ」

「確かに、デート前に練習着を持ち帰るのもおかしな話だな」

 駆流がこちら側についてくれた。ありがたいことだと思いつつ、流れが悪くならない内に話を進める。

「元はおれも学校に残ってトレーニングルームでも使おうと思ってたんだけどな。近所にあるトレセン行くことになったから……」

「……トレセン? ああ、市民体育館のか。……あそこ行くのか?」

「ああ」

「へぇ――」

 少し間が空く。そして、樹は眉をしかめて言った。

「……変な奴だな、そいつ」

 別に、樹とて見知らぬ真帆を誹謗しようと思ってそんな心ない台詞を吐いたわけではあるまい。日々を過ごしていればごまんとある、取るに足らない平凡な一幕である。そんなものにいちいち感情を向けるなど、全くもって労力の無駄。

 なのに、どうしてだろう。

勇馬はその一言が鬱陶しいほど鮮烈に響いてしまい、つい苛立ちを禁じ得なくなった。

「……別に、そんなことねぇだろ」

 あからさまな憤りを、無理矢理押し殺したような声が出る。言った勇馬自身からしても怖い口調だった。

まずい――そう思って見た樹の表情は大きな驚愕とかすかな恐怖に染まっていた。

 何か気まずい空気になってしまった。しかし、あまり真帆を待たせるわけにもいかない。

「……まぁ、そういうことだから、じゃあ」

 そう一言言い捨てると、勇馬は逃げるように部室を去った。あとに残される二人のことを気遣う余裕はなかった。

 扉が閉まる音を聞いてから、駆流が口を開く。

「樹……今のは」

「ああ、うん。そりゃあ勇馬も怒るよな。明日にでも謝らねぇと」

 樹の声音に力はなかった。どうやら勇馬の態度に相当驚いた様子である。あの怒りを直接ぶつけられたわけではない駆流でも怯んだのだ、樹の心中など量りたくもない。

 しかし、樹が失言をしてしまったのもまた事実。いくら友人とはいえ――いや、友人だからこそ、そこはしっかりと指摘しておかなければいけない。

「そうだな、おまえとしては冗談のつもりかもしれないけど、勇馬からすれば好きな人を傷つけられたのかもしれないし――」

「いや、冗談言ったわけじゃないんだ」

 樹は即座に否定した。素早く突いた言葉もさることながら、そこに込められた瞳も真剣そのものだった。それを見た駆流は、樹に嘘がないことを悟る。

 確かに樹はバカでジョークが好きだが、他人の大切な存在を茶化すような笑いの取り方はしない。まだ知り合って日が浅い勇馬がどこまで感づいているかはともかく、付き合いの長い駆流はその辺りも弁えている。

 となると――。

「何か言いたいことがあったんだな?」

「ああ。……確か、トレセンって使用料とかかかるんだよな? だったらさ――」




 学校から市民体育館までの道は冬木でも有名な景勝地の一つである。春先は綺麗な桜が咲き乱れ、付近の公園は花見をする人々で賑わう。最近は桜の花も散り始め、綺麗なピンクと緑のコントラストが街道を彩る季節になってきた。

 勇馬はそんな鮮やかな情景とは裏腹に、すっきりしない気持ちを拭いきれぬまま街道を歩いていた。さっきは感情任せに反論して部屋を出てしまったが、時間が経って冷静になるにつれて色々と不可解な点が明らかになってきた。

 互いを知ってひと月程度なのであまり詳しくは知らないが、それでも何となく言えることがある。樹はバカだが、見知らぬ女の悪口を言うようなタイプではないし、人を貶めるような冗談を言う男でもない。あの言葉の裏には何か、勇馬が解釈したのとは違う意味があるような気がしてならないのだ。

樹は一体何を伝えたくて、あんなことを言ったのだろう。

 頭を悩ませていると、使用中のルームランナーが「ピーッ」と高い音を立てて減速し始めた。終了の合図だ。あれこれ考え事をしている内に三十分も走っていたらしい。

 クールダウンでしばらく歩いてルームランナーを降りる。隣で走っていた真帆もちょうど終わったようで、マフラータオルで顔の汗を拭いていた。そういえば、運動用の真帆を見るのは随分久しぶりな気がする。

「何か懐かしいな、こういうの」

「そうだね」

 中学に入って最初の頃は、朝一番とか放課後の練習の後とかによく近所を一緒に走っていた。毎週何曜日の何時からと決まっていたわけではなく、ふと思い立った日にどちらかが声をかけ、そのタイミングが空いていればその場で約束を取り決めて、ふたりで走って汗を流す。今思えば何とも子どもらしいが、中学時代の大切な思い出だ。

 気がつけばそういう機会はなくなっていた。一体いつからだろうか。中学に入ってほんのひと月くらいでやめたと言われればそんな気もするし、つい半年くらい前までやっていたと言われればそれでも頷ける。とにかく具体的な時期は覚えていないが、いつの間にかばったり途絶えてしまっていた。

 一縷の寂しさを抱きつつ、勇馬は各部位を鍛えるマシンが揃っているスペースへ移動する。真帆はそちらには興味がないらしく、今度は自転車型のルームランナーを始めた。今の今まで走っていたのに大した体力だ。

 筋トレ機材を転々としながら考える。樹が伝えたかった、本当の言葉は何だったのか。

 樹が「変な奴だな」と言うに至った経緯を思い出す。




「……先に言っておくけど、デートとかじゃないぞ」

「確かに、デート前に練習着を持ち帰るのもおかしな話だな」

「元はおれも学校に残ってトレーニングルームでも使おうと思ってたんだけどな。近所にあるトレセン行くことになったから……」

「……トレセン? ああ、市民体育館のか。……あそこ行くのか?」

「ああ」

「へぇ――……変な奴だな、そいつ」




 ……頭が痛くなってきた。そもそも物事を深く考えるのはあまり好きでも得意でもない。いっそ諦めた方が楽になれるはずなのに、どうしてもこの件だけは野放しにしたくない。樹がらしくない言葉で見ず知らずの真帆を誹るはずがないのだ。

 当時のやり取りを何度か反復してみたが、どこにもヒントと思しき台詞はない。となると、注目すべきは言葉そのものよりもその時の状況ということになる。

 時間のことを言っていたのだろうか。つまり、「今から市民体育館に向かってもろくにトレーニングなんてできないぜ」という意味で言っていたという可能性は――一瞬そう考えかけて、すぐにそれはないと気づいた。今、こうして勇馬自身が市民体育館で運動をしている時点でそれはあり得ない。

 時間がダメとなれば、場所のことを指していたと睨むのが妥当か。しかし、市民体育館は高校と瑞原家を結んだルートの間にある。自宅から真逆の方向へ行くのならともかく、少し通学路からズレた場所に行くのを「変だ」とは言わないだろう。川嶋家も方角的には瑞原家と同じであるため、この説は否定される。

 だとしたら、何だ。あの時、あの状況で、何かヒントになるような特別な物事は――。

「――あのぉ、お兄さん」

「――え?」

 ピンクのTシャツに身を包んだ中年の女性に声をかけられた。少し困った様子で勇馬に微笑みかけている。

「ごめんなさいねぇ、その機材使ってないなら、替わってもらって良いかしら?」

「ああ、ごめんなさい!」

 慌てて座椅子から降りて頭を下げる。どうやら考えごとに熱中するあまり、一つの機材を占拠してしまっていたようだ。ここは公共の場なのだから、他の人の立場も考えないと――。

「……他人の、立場……?」

 勇馬はふと思った。そうだ、自分の目線で推理するから何もわからないのだ。あの時のあのやり取りを、他の人の視点から捉えてみれば良い。




 樹は校内のトレーニングルームへ行って身体を動かすために運動着に着替えて部室にいた。駆流と部室にいると、扉が開いて勇馬がやって来た。

 勇馬は着替えだけカバンに仕舞うと、さっさと部屋を後にしようとした。

「何だ、勇馬。どこか行くのか?」

 樹は問うた。勇馬はしばらく誤魔化していたが、やがて自宅寄りの場所に位置する市民体育館へ行くと答えた。近所なのに部室に着替えを取りに来たということは、つまりそれがあるのは高校と自宅の間なのだろう――というところまで樹の考えが及んでくれることを祈りつつ、話は進む。

 成る程、勇馬は誰かしら女とふたりで市民体育館へ直行する。色恋沙汰を詮索されるのが苦手な勇馬がそのリスクを冒して部室に寄ったということは、その約束が取り付けられたのは今日中になる。昨日までの間に準備期間が設けられていたならば、勇馬は予めカバンの中に着替えを忍ばせてから登校していたはずだ。

 つまり、勇馬を誘った女子は校内に絞られる。




「ひとまずこんなものか――?」

 小さく呟く。樹の立場から整理してみたことで少しは視野が広がったものの、それでも決定打となるような素材はない。そろそろ考えるのも疲れてきたし、そろそろ樹に直接聞くべきだろうか。少々気まずい部分もあるが、新しくできた友人だし、これから三年間苦楽を共にしていく仲間でもある。イヤな禍根を残したくはない。

 件の少女は少し離れたところで、いつの間にか二度目のルームランナーに取り組んでいる。さっきあれだけ走った上に自転車も漕いでいたのに、大した体力と脚力だ。着ているTシャツ全体に汗が滲んで色が濃くなっているではないか。あれが終わったら流石に帰るだろうか。いや、それとも一度着替えてまだ続けるだろうか――。

「――あ」

 不意に、全ての話が繋がった。バラバラだったパズルのピースが一瞬で揃ったような、そんな不思議な感覚に包まれる。

 そうだ――樹はこれを伝えたかったのだ。単純な割合の計算問題でも間違える勇馬だが、これに関しては確信を持って正解であると断言できた。

 あとはこれを真帆に確認するだけだ。そう思った矢先、真帆のルームランナーが終了を告げる音を鳴らした。




 市民体育館を出ると外は暗くなっていた。すっかり陽の落ちた宵町を、真帆は踊るような足取りで歩く。あれだけ下半身をいじめたあととは到底思えない。本当に大した体力と脚力だ。

「いやぁ、久々に良い運動になった!」

 暗がりに紛れてはっきりとは見えないが、にこりと笑っているのはわかった。勇馬もそれにつられて笑みが漏れる。

「良かったな」

「うん。また行こうね」

 ――また、か。

 もちろん勇馬とてそのつもりでいる。しばらくぶりに真帆とふたりで身体を動かしたが、やはり気持ちよかったし、何だか懐かしくて嬉しくもあった。今度はこちらから声をかけるのもやぶさかではないが、そのためにも一つ確認しなければならないことがある。

「……なぁ、真帆」

「なに?」

 少し間が開く。聞いて良いものか少しだけ迷ったが、しかし、ここまで来て引き下がるわけにもいかない。しかも、これは何も勇馬と真帆だけの話ではないのだ。もしここで得られる回答が勇馬の予想通りならば、樹に謝罪する必要も出てくるのだから。

 勇馬は決意を固めてゆっくりと口を開いた。

「……何でおまえは――着替えを準備してたのにわざわざここに来たんだ?」

 市民体育館へ行く約束をしたのは今日の午後だった。だからこそ勇馬は手元にその準備をしておらず、一度部室に立ち寄って着替えを用意しなければならなかった。

 だが、真帆は違った。彼女はどこかへ着替えを取りに行くことなく学校から直接市民体育館へ向かった。勇馬のように部室に予備があったのかとも思ったが、真帆の所属は軽音部だ。部員が着替えるために使用する部屋は存在しない。となると、今朝、自宅で準備を済ませてから登校したと考えるのが妥当である。

「トレセンを使うには使用料もかかるし、近さで考えても学内のトレーニングルームの方が上だ。市民体育館まで足を運ぶ必要があったとは思えない。……どうしてだ?」

 樹はこれを勇馬に言いたかったに違いない。バカゆえに言葉足らずで誤解を与えてしまったのだ。

「あー、えっとね……」

 真帆は依然として笑顔を保っているが、先程までの朗らかなそれとは少し違い、少しきまりが悪そうな色が窺えた。

「……大した理由じゃないんだけど――恥ずかしいじゃん」

「……ああ――」

 納得だった。極めて真っ当な理由だ。全くもって同意せざるを得ない。

「確かにその通りだな」

「でしょ? 知り合いもたくさんいるのに、ふたりで学校の施設を使うのは、ね」

「だな。気が利かなくて悪かった」

「そんなことないよ! こっちこそ、先に説明しなくてごめんね」

「ははは……」

「えへへ……」

 会話が途切れると同時、ふたりの瞳がぴったり重なった。視線と視線が線を結び、時間と空間が止まったような感覚が支配する。世界から音が消え、互いの姿だけが確かな輪郭を残す。

 どうして向こうは笑っているのだろう。

 というか、こっちはどんな顔をしているのだろう。

 ここから、どうすれば良いのだろう。

 決して相手に知られることのない感情を共に抱き、ふたりはただふたりを見つめ続ける。

永遠に続くかに思われた時間は、しかし、不意の夜風に断ち切られた。

「――寒ッ!」

「やっぱり夜はまだまだ冷えるね……」

「……帰るか」

「うん」

 ふたりは横並びでいつもの通学路へ戻って行く。遠くに同じ制服の生徒が見えると、心なしかその距離が少しだけ離れた気がした。

※本作は筆者が別所にて執筆している『繚蘭学園シリーズ』より傑作選として掲載したものです。

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