JunePride
三十九回開催は6月2日(土)
お題「知らなかったよ」/初夏
6月1日は写真の日、氷の日、6月2日は裏切りの日です。
皆様の参加をお待ちしております。
作業時間
6/2(土)
20:17〜21:05
春の日差しが、少し強めの初夏のそれに取って代わろうかという頃、僕は恋に落ちた。恋と呼ぶにはまだ初々しくて子供っぽくて未熟だったのかも知れないけれど。
まだ僕は十歳で、日差しの熱から逃げるようにプールに飛び込んだんだと思う。この時期のプールは冷たくて、手足が出ている所だけがやけに生暖かくて、着ている服はまとわりついてくるしで、最悪だった。
なんでプールになんか飛び込んだんだろう、我ながら馬鹿だ。そしてたっぷりと水を飲んで、そろそろ僕も死というものを理解し始めた頃、水が大きくうねった。
脇腹を抱え上げられ、プールサイドに引き上げられる。肋骨を押され、水を吐き出し、息をしろ、息をしろと声を掛けられる。僕はごぼごぼと口から水を吐き出しながら、何故か陸に打ち上げられた宇宙人の事を考えていた。
初夏になると、家族の中でこの話が持ち上がって嫌な気持ちになること。それは恥ずかしさに似ていること。焦りにも似ていること。けれど一番は恐怖だったこと。そう言った感情が入り乱れて、やっぱり一番は「嫌な気持ち」だと言う事に落ち着いた。
僕は溌剌とした少年から青年に成長したけれど、君はそうでは無かったんだね。
「わたしはね」
彼女がゆっくりと話し出すのを、僕は君と同じようにと耳を傾ける。生まれた時、身体は小さかったけれど、年相応に成長してそれなりにティーンエイジャーとして世を満喫したこと。高校のクラブではラクロスとJRCに入ったこと。そんなある日、道を歩いていたら一人の男の子がプールで溺れていたこと。無我夢中で救い出したこと。
僕にとって怖いことも、彼女にとっては誇りだったと言う。自分が一人の人間を救えた事。それは誇り以外の何物でも無いんじゃないかと。
彼女は部屋の脇に飾ってあった「ありがとうおねえちゃん」とたどたどしい文字で書かれた紙のメダルを他の、ラクロスのメダルやトロフィー、楯と同じように飾っていた。僕は恥ずかしかったのだけれど、僕のためにプールに飛び込んでくれた彼女の勇気は本物だと思ったから、十歳の僕は彼女にこのメダルを捧げたのだと思う。
僕が大学に上がる頃、僕を助けたときに名も告げなかった彼女の居場所をとうとう突き止めた。ツーブロック先に住んでいた、ご近所さんだったのだ。会いに行こう、ひとことお礼が言いたかった。
僕の姿を見るなり、君のパパやママは年の離れたボーイフレンドが出来たのかと勘違いし大いに慌てたけれど、僕が八年前の少年だと知ると途端に優しい顔になった。
部屋に通されて、ノックする。引き戸が開いて思ったより小柄な彼女に話しかけると、彼女は吃驚して目を大きくして僕を見たね。
ブルネットの髪を三つ編みにして、大きなブルーグレイの瞳。鼻は少し、つんと上を向いていたかな。
僕は僕を助けてくれた彼女にお礼がしたかった。会ってきちんと、「ありがとう」と。本当のところ、僕は恋をしていたのだけど。
僕よりずっと年上の貴方は一人、病気と闘っていたんですね。
「ステージ4よ。もう生きてるのが奇跡と言われているところまで来ている。痛みがないのが幸いね」
僕はただお礼が言いたかっただけなのに、貴方は僕より先に逝ってしまうのか――。
「……知らなかったよ」
「そうね、知る機会が無かった」
僕の言葉に彼女が性質の悪い冗談を返し、彼女が笑った。
「貴方はラッキーだったわ。とても。わたしが貴方の家の前を通らなければ八年前に死んでいたかもしれない。神様が生きろって言ってくれたのね。わたしも一緒。こうしてまだ神様に生かされてる。誰かの役に立つために」
きっとわたしには役割があるはずよ、と彼女は言った。
――彼女の言ったとおりだった。
彼女はショッピングモールから道路に飛び出してきた少年を、身を挺して庇い、ステージ4の苦しみより先に呆気なく死んだ。
果たしてそれは彼女にとって幸せだったのか。
何度、自問自答しても答えは出ない。
彼女の誇りは、役目は、幸せは。
僕は彼女の誇りの一片。