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前編

前編


 その白猫には『シロ』という名前がつけられていた。


 小学校からの帰り道にある雑草の生い茂った寂れた空き地に、不法投棄らしい古びた廃車が捨てられていた。その廃車の下側でいつも隠れるように身を縮こまらせている丸々と太っている白い塊がシロだった。


 自転車か何かに轢かれたのか、いつも左の後ろ脚を引きずって歩く姿が印象的だった。


 五年一組のクラスメイトたちのうち何人かは、よく下校途中にその空き地に足を踏み入れて、こっそりとっておいた給食の残りを与えているのだった。もちろん、それは大人たちには秘密だったが。


 シロは野良猫の癖に妙に人慣れしていて、子供たちが近づいても逃げることも威嚇することもなく興味もなさそうに身を丸めていた。そして、子供たちが餌を取り出すと、左の後ろ脚を大儀そうに引きずりながら歩いてその餌を食うのだった。首輪はしていなかったが、もしかしたらどこかの家で飼われていた猫で、飼い主に捨てられたのかもしれない。


 僕はよくクラスメイトたちがシロに餌を与えている様子をシロの巣である廃車からやや離れたところから見守っていた。五、六人のクラスメイトたちが餌を食べているシロを可愛がり終えるまでいつもじっと待っていた。


 僕はシロが好きではなかった。


 というより、猫という生き物がひどく恐ろしかった。


 以前、小学校に行く途中、狭い路地裏の暗闇で猫がネズミを丸かじりにしているところを目撃してしまったせいだ。それ以来、その明るいところで鋭く細まる金色の眼も、口元から覗く鋭い牙も、尖った爪も、僕にとっては恐怖の対象でしかなかった。


 だから僕はシロにはなるべく近づかないようにしていた。それどころか、その金色の眼と視線を合わせないように空き地の隅へと視線を向けていた。帰り道に空き地へ立ち寄るのは、ただクラスメイトたちとの付き合いのためと、僕が猫を怖がっているということを悟られたくないという小さな意地のためだった。


 不思議なことに、どうやらシロの方もそのことは理解しているようで、シロは僕の方へと近寄ろうとはしなかった。


 そんなわけで僕とシロはしばらくの間、奇妙なバランスの上に平和な状況を保っていた。


 だが、ある日のこと、その状況はほんのささいなことで崩れることになった。


 一緒にシロのいる空き地に立ち寄っているクラスメイトの中で、誰よりもシロを可愛がっている静本しずもとさんという女の子がいた。


 そもそも、シロを最初に見つけたのも彼女だった。この空き地の前を通りかかったとき、たまたま後ろ足を怪我して鳴いているシロを見つけたそうだ。


 彼女は猫が好きだったが、家の人が猫嫌いで猫を飼えないことについてよく友達の女の子たちに愚痴をこぼしていた。だから、シロに対する愛着も人一倍だったのだろう。他のクラスメイトたちが基本的に帰りにこの空き地に寄るだけなのと違って、彼女は休日にもたまにシロに餌を与えているらしい。


 その日、シロは何故だかいつにもまして大人しそうに見えた。餌を食べ終わって、クラスメイトたちがその体毛を撫でても、嫌がる素ぶりも見せずにさせるがままにしていた。


 そんなとき、静本さんがいつものように離れていたところに立っていた僕に目を向けた。偶然、僕もそちらを見ていて、静本さんと目が合った。


 すると、彼女は何を勘違いしたのか、にっこりと微笑んで大人しいシロの身体を抱き上げた。そして、ゆっくりとこちらへと近づいてくるのだった。


「ほら、森坂もりさかくんも撫でてあげなよ。今なら大人しいよ?」


 どうやら、彼女は僕がみんなに遠慮してシロに触らないでいたのだと思ったらしい。


「いや、僕はいいよ」


 シロに対する恐ろしさで、わずかに上ずった声で言いながら手を横に振った。


 ちょうどそのときのことだった。


 今まで大人しくしていたシロが突然俊敏な動きで前脚を伸ばし、僕の手を引っ掻いたのだった。


「痛っ!」


 思わず声を上げ、僕は反射的に手を払った。


 その手がたまたま静本さんの腕に抱かれていたシロを叩く形になった。シロは短く鳴き声を上げると静本さんの腕から飛び出して、巣である廃車の方へといつもの後ろ脚を引きずるような歩き方で逃げた。


 恐怖で心臓が早鐘のように打つのを感じながら、爪の痕で赤い線の走っている手へと目をやる。


 あまり傷は深くはないし、血も少ない。消毒すれば大したことはないだろう、と僕は安堵のため息をもらした。


 だが、そのときこちらに向けられるクラスメイト達の視線に気付いた。


 彼らはみんな、責めるような視線で僕を見ていた。


「何てことするの、森坂くん。シロを叩くなんて」


 静本さんの声は怒りで震えていた。


「いや……ごめん。叩くつもりじゃなかったんだ」


 必死に弁明しても、クラスメイト達の冷たい眼は変わらなかった。


 結局、誤解は解けないまま、彼らの視線に耐えかねて、その日は空き地から逃げるように立ち去った。立ち去るとき、廃車の下から覗くシロの金色の眼がこちらを覗いているのがひどく不気味に見えた。


  ***


 それから、僕は例の空き地へは近寄らないようになった。クラスメイトたちが帰り道に空き地へ行っている間も、一人で先に家に帰っていた。あの一件以来、仲良くしていた友達たちとの関係がぎくしゃくとして、何だか見えない壁ができたように感じた。


 特に静本さんは他のクラスメイトと違って、露骨に僕のことを無視するようになった。よほどシロを叩いてしまったことを根に持っているのだろう。


 ただ、正直なところ僕のほうもあのシロのいる空き地に再び入る気にはなれなかった。傷は日が経つにつれて薄くなったが、それでも手にシロに引っかかれた傷がまだ残っていたからだ。


 それを見ると、シロの金色の眼が思い出してぞっとした。しかも、家に帰るためには、必ず空き地の前を通らなければならなかった。だから、そのときは早足で空き地の前を通り過ぎるようにしていた。


 もともと付き合いでシロの空き地に行くのが間違いだった。時間が経てば、きっとみんなも例の一件のことを忘れてくれるだろう。


 そんな風に思って、シロの話題にはなるべく触れないようにした。


 だから、僕が『シロが仔猫を生んだらしい』という噂を知ったのも、たまたま静本さんと女の子たちが話しているのを聞いてのことだった。


 何でも、ある日、静本さんたちがシロの空地へといくと、廃車の下の巣でシロが二匹の小さな仔猫に乳を与えていたのだという。静本さんたちはひどく嬉しそうにそのことを話してはしゃいでいた。


 だが、先生が教室に入ると、互いに示し合わせたように別の話題へと変えるのだった。


 それから数日の間、休み時間中には教室のあちこちからひそひそと仔猫の話題が聞こえてきた。特にクラスの女の子たちのほとんどは仔猫のことに夢中だった。二匹の仔猫の模様がそれぞれどんな風に違っているか、尻尾の具合がどんな風か、などと他愛もないことをよく話しているのが聞こえてきた。


 ただ、それらの女の子たちの歓談の輪に混ざらず、いつも教室の隅で本を読んでいる一人の女の子がいた。


 それを見た秋宮さんはしばらく考え込むようにしてから、差しだされた傘を受け取った。


「それじゃ、お言葉に甘えて。ありがとう、森坂くん」


 そう言って、彼女は微笑んだ。


  ***


 秋宮さんの家は、僕の家と途中まで同じ方向らしい。


 僕たち二人は傘を差しながら並んで雨に濡れた道を歩いていた。今までほとんど話をしたことがないから、どちらも黙ったままだった。秋宮さんの方は大して気にしていないようだったが、僕の方は何だか気まずかった。


 歩いているうち、僕たちはシロの空き地の前へと通りかかった。


 入り口以外を金網で囲まれた、二十メートル四方程度の空き地。その中に捨てられた廃車の下にシロはいる。


 見ると、確かに廃車のそばにシロと二匹の仔猫が丸まっているのが見えた。シロは仔猫のうち一匹を毛づくろいをするように舐めていた。


「今日は静本さんたちはいないんだね。いつも通るときはよくエサをやってるのを見かけるけど」


 そのとき、秋宮さんが空き地の入り口前で立ち止まってそう言った。


 本当は、この空き地の前から早く通り過ぎたかったが仕方なく立ち止まり、秋宮さんに向き直る。


「雨だからね。ほら、この空き地って、雨が降ると地面がぬかるんで歩きにくいんだ。靴も汚れちゃうし。だから、みんな雨の日には寄らないんだよ」


 言って、空き地の地面を指差す。


 降りしきる雨によって空き地の土は濡れ、ほとんど泥となっていた。この雨ではシロも廃車の下から出てこないだろうし、空き地に一歩でも入れば靴が泥まみれになって不自然に汚れてしまうだろう。それが何度も続けば、家の人に何か寄り道をしていると気付かれてしまうかもしれない。


 シロの世話をしていることを大人たちに秘密にしているクラスメイトたちにとっては、それはできれば避けたいことのはずだ。だから、雨の日は基本的にこの公園にはクラスメイトたちは来ない。


「森坂くん、一つ聞いていい?」


「何?」


「森坂くんがあの猫をいじめたって静本さんたちが話してるのを聞いたんだけど、それって本当なの?」


「ち、違うよ!」


 その質問に、慌てて僕は手に残った傷跡を見せながら事情を説明した。


 シロを叩いたのはとっさの事故であったということ。それを説明しようとしたが、みんなは聞く耳を持ってくれなかったこと。


 僕の弁明を、秋宮さんは頷きながら真剣に聞いてくれた。


「やっぱりね。森坂くん、そんなことするような人には見えないと思ってた。それに、優しいし」


 その言葉に少しバツが悪くなった。


 今日秋宮さんに声をかけたのはほとんど気まぐれのようなものだったからだ。それでも、彼女に話しかけてよかった、とそう思った。


 そこで、ふと傘に当たる雨の音が聞こえなくなったことに気付いた。傘を下げて空を見上げると、雨は既に止んでいて、雲から晴れ間が覗いていた。


 秋宮さんのほうも傘を閉じると、僕の方に差し出す。


「傘貸してくれてありがと、森坂くん。私、ここから別方向だから」


 その傘を受け取り、互いに「また明日」と別れのあいさつをしたあとも、歩いていく秋宮さんの後ろ姿をじっと見ていた。


 ただ、秋坂さんの姿が道の向こうの曲がり角を曲がる直前、彼女は僕の方を振り返った。


「ねえ、森坂くん。今度、誰かから濡れ衣をかけられそうになったら、私を頼ってよ!」


「え?」


「絶対私が濡れ衣を晴らしてあげるから。約束だよ!」


 そう言って、彼女は赤いランドセルを揺らしながら曲がり角の向こうに歩いていった。


 ずっとクラスメイトたちに誤解されたままだった僕の心に秋宮さんの言葉は深く沁み入った。


 やっぱり、秋宮さんに声をかけてよかった。


 僕は改めてそう思った。


 ただ、僕はこのときまだ知る由もなかった。その約束を思っていた以上に早く果たしてもらうことになるとは。


 続く


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