第8話 久遠寺未悠のこれまでとこれから。
ようやく落ち着いた咲良は、恥ずかしさで火照った顔を手でぺちぺちと叩きながら絢音を振り向いた。
「……で、どうするんだ? この子を」
咲良の言葉に未悠は後ずさる。
「……変態」
「なんで!?」
変質者を見る目で自分の身体を抱く未悠に、咲良はショックを受けた。
「だって、お兄さんがわたしを見てる目が完全に澱んでましたもん。あとわたしの胸の先っぽをじっと見るのはやめてくれませんか? お兄さんの視線にぐりぐりと刺激されて、なんだか変な気分になってきました……」
「ちょっと待っていくらなんでもそこまでは……って、待って、絢音、待って、拳を握りしめないで!」
頬を赤らめて胸を隠す未悠に、慌てて弁解する咲良に、額に青筋を浮かべて咲良に歩み寄る絢音。地獄のような状況になっていた。
それはともかく……と、咲良は絢音に手招きをして、未悠から距離をとってひそひそ声で話し始めた。
「あの子の人となりはそれなりにわかったけど、この後どうするつもりなの?」
「そうなのよね、もっと現世に未練たらたらの悪霊みたいな子だったらすぐにでも手を打とうと思っていたんだけど……」
(……んん……?)
身を寄せ合って内緒話をしていると、絢音の艶やかな髪から香る涼やかで甘い匂いに咲良の鼻腔がくすぐられた。ぼんやりと絢音に見とれている咲良に気づいた絢音が、もじもじと身体をよじらせる。
「ちょ、ちょっと……咲良くん、話聞いてる?」
「え、ああ、うん、ごめん、見とれてた」
「え、ええっ!? ちょ、ちょっとあなた、急に何を……っ!」
「ご、ごめん、つい……」
「つ、ついって……!」
「あの……」
『っ!?』
咲良と絢音の背後から未悠が声をかけると、声をひそめるのも忘れていた二人がびくりと飛び上がった。
「お二人は、何をさっきから乳くりあっているのですか? 見ているこっちが胸焼けしそうなので、そろそろ控えていただけると……」
「ごめん、なんか本当にごめん」
咲良が未悠に謝っていると、絢音は顔を真っ赤にして両手で顔を覆っていた。絢音が回復するまで咲良と未悠が好きなジャンプキャラの話をしていると、冷静な表情を取り戻した絢音が二人をじっと見てきた。
「……なんであなたたちは、ものの2分でそんなに仲良くなっているの?」
「それがね、この子、山本総隊長が好きなんだって言ったら分かりますって言ってくれてね? それで興奮しちゃって」
「そ、そう……楽しそうで何よりだわ……」
興奮で声がうわずっている咲良に戸惑いつつも、絢音は優しい笑みを浮かべ、身体を屈めて未悠に顔を近づけた。
「未悠さん。あなたは……ずっとこの街に留まっていたい? それとも、天国に行きたい?」
「あー、まだまだこち亀関連商品が出てますよね? 全部読み尽くすまではまだ死ねませんね」
「そ、そう……というかあなたは一応死んでいるんだけど……」
「この身体では新品を買うという行為が出来ませんから、書店で立ち読みが出来ないと新古書店に行くしかないんですよね。ファンとしてはきちんと作者の方にお金を還元したいのですが、この身ではそれもままならないのが悲しいところです」
「み、未悠ちゃん、消費者の鑑だね……」
ごく淡々と言ってのける未悠に、咲良と絢音は純粋に戸惑った。
「そうなのね、それなら……他に何かしたいことはある?」
絢音の言葉に、未悠はあごに人差し指を当ててうーんと考え込む。「こち亀……ラノベのお気に入りシリーズ……あやとり……バイブ……露出……」と繋がりの全くないワードをいくつか呟き、後半のワードに咲良と絢音は噴き出した。
あ、そうだ、わたし……と、未悠は何かを思い出したように目を見開き、年相応の可愛らしさを纏って微笑んだ。
「自転車に乗ってみたいです」
× × ×
後日。
よく晴れた日曜日の朝。
咲良、絢音、そして未悠の三人は、最初に出会った公園にいた。前回と違うのは、咲良と絢音が共に自転車に乗っていることだ。
――わたし、自転車に乗ったことがないんです。
未悠はそう言うと、少しだけ悲しそうに笑った。
彼女はいわゆる箱入り娘で、今時珍しく外出も制限されるほどの家だった。習い事に行くにも送迎の車がつくような日々だったが、その中でも彼女は生来の天真爛漫さを発揮して、度々家から抜け出していた。
しかしプチ家出をしたところですぐ見つかるのは目に見えているので、いつも近くの書店やコンビニでジャンプを始めとした漫画を立ち読みしては連れ戻され、親に叱られていたという。
そんな彼女が、こっそりと人目を忍びながら街中を行く彼女が憧れたのは――同世代の子どもたちが、自転車に乗る姿だった。小学1~2年生くらいで大抵の子どもが乗りこなすようになる中、彼女は自転車に触れる機会さえ与えられなかった。
彼女は寂しく思っていたけれど、自分はまだ、楽しみを見つけられるだけ良い方なのだ……と、無理矢理自分に言い聞かせていた。
ある日、彼女はいつものように家を抜け出し、立ち読みをして店を出たところで家に雇われている人たちに見つかる。もう少し遊びたい……と思い、走って逃げた。追いかけてくる人は普段よく遊んでくれる人で、半ば鬼ごっこの形になっていた。
彼女が交差点を渡ろうとした時、信号は赤だった。彼女がいる側にも、向こう側にも、数人の人が信号で立ち止まっていた。
いつもなら、当然のように赤信号に気付いて立ち止まる。
けれど、その日は違った。
あ、自転車……。
向かいの道で同年代の子どもが楽しそうに自転車に乗っているのをじっと見ていて、彼女は赤信号でも足を止めなかった。人だかりから背の小さな少女が突然飛び出してきたためだろうか、事が起こる直前、ブレーキ音は聞こえなかったという。
彼女の右半身が、ほとんどの人間が生涯経験することがないであろう衝撃を受けた。彼女の視点が高速で横に滑り、回転し、歪み、ひしゃげる。
彼女を追いかけていた人が、どんな反応をしていたかは分からない。
ゲーム機のスイッチを無理矢理切ったかのように、彼女の生涯は終わりを告げた。
――この話を、未悠は、至極淡々と二人に話した。
「まあ、そんなわけですね、わたしの人生は……って、ちょ、ちょっと、お二人とも、どうしたんですか……!」
「え、あ……ご、ごめん、いつの間にか……」
「そ、そうね、ごめんなさい……」
未悠の話に、咲良と絢音は気づかぬうちにぽろぽろと涙をこぼしていた。無理やり笑みを浮かべながら涙を拭く2人に、未悠は顔をくしゃりと歪める。
「もう……過ぎたことなんですから、気にしなくていいんですよ?」
「そうはいっても……未悠ちゃん、なんか……『つらかったね』なんて言うのもおこがましくて……」
「う、うぅ……未悠さん……未悠さん……」
目を赤く腫らして上手く言葉を紡げないでいる二人に、未悠は穏やかに、そして少しだけ悲しげに笑った。
「……お二人は優しいですね」
でも……自転車に乗りたいと言ったところで、元々乗れなかったわたしにはどうしようもないんですけどね――と苦笑いを浮かべる未悠に、涙を拭いた絢音が嬉しそうに笑った。
「それなら、良い方法があるわ」
「え……?」
絢音の言葉に、未悠は年相応の、まるで親にプレゼントの箱を差し出された子どものような、輝いた笑みを浮かべた。
絢音は未悠に己の身体のことを説明し、自分の力を利用して、未悠の望みをどのように叶えるかを説明した。
「……それでお姉さんが良いのなら……お願いしてもいいですか?」
おずおずと、けれど声音に期待を滲ませながら、未悠は上目遣いで絢音を見た。
「ええ、もちろんよ」
――こうして、たっぷり時間がとれる休日の朝に、3人は再びこうして集まった。
「絢音に未悠ちゃんが取りついて、自転車に乗る……か。なるほどね」
咲良は先日のやりとりを思い出していた。絢音が自身の身体を霊に貸すときは、大まかに分けて3つの段階があるという。
1つ目は、身体を操る主人格は絢音で、霊は行動の自由こそないものの、絢音の視点からものを見ることが出来るという状態。咲良が絢音の飛び降りを目撃したときは、この1つ目の段階だった。
2つ目は、身体を操る主人格は霊で、絢音がサブ扱いになる状態。この状態だと、霊は絢音の身体能力をそのままに動くことが出来るが、絢音の意志で行動を抑制することが出来る。
そして3つ目は、霊が完全に絢音の身体を乗っ取る状態。この状態だと霊は絢音の今までの記憶や思考を自分のデータとして自由に引き出すことが出来るが、絢音が身体を操るときの意識ごと奪い取るため、身体能力が格段に落ちる。校門を平然と飛び越えるような能力を誇る絢音の肉体も、この状態だとごく普通の女の子程度の身体能力となる。
1つ目と2つ目の状態では絢音がいつでも霊の干渉を弾き、追い出すことが出来るが、3つ目では第三者に干渉されない限り、絢音の身体が好き放題に操られることになる。説明を受けた咲良は、絢音が今までどんな経験を経てこれらの段階を理解して、調整するようになったのだろうと気になった。全てを知るにはまだ時間が必要だろう、とも。
今回は、2つ目の状態を利用するという。つまり、主人格が未悠で、絢音はサブという状態。身体能力は絢音の身体本来のものを扱えるので、自転車に乗るのも何ら苦ではない。
「さて、あまり焦らすのも意味は無いから、手っ取り早くやりましょう。さあ、未悠さん、カモン!」
「え、ええっと……?」
未悠に対して唐突に両手を広げた絢音を見て、咲良と未悠は盛大に戸惑う。
強い霊感と高い身体能力、そして何より不死である絢音に取り憑く――よく考えてみれば、いや、よく考えてみなくても、どうやるんだ……? と咲良と未悠は首を傾げる。
「お姉さん……わたし、初めてだからどうしたらいいか分からないです……」
「そうよね、イメージの仕方が大事なんだけど……こう、私の中にずるって入り込むイメージを持ってちょうだい。入りこんで、ずちゅ、ぬちゅっ、って感じで奥に入り込んでいくの。そうすると…………咲良くん、どうしたの?」
「お兄さん、前屈みになってますけど……」
「……俺は悪くないと思う……」
なんで擬音がいちいち卑猥なの……? とは言えなかった。見たところ、二人とも今の会話の何がまずかったのかに気付いていない。
「お兄さん……優しそうな顔しといてとんだエロガッパですね」
「分かってたんじゃないか! 何で分かってないフリをして泳がせたの!?」
咲良が泣きそうになりながらツッコんでいると、絢音が身体をくの字に折り曲げて悶絶していた。
「……絢音、そんなに笑わなくても……」
「ぷっ、くく……っ、ごめんね咲良くん、つい……。……未悠ちゃん、取り憑くっていうのは取り憑かれる側の意思がとても大きなウェートを占めているの。だから私が受け入れる気満々でいれば、よく分からなくてもやれるはずよ。さあ、来てごらん?」
「……分かりました。あ、その前に。お兄さん、わたしは性欲丸出しなお兄さんも結構好みですよ」
「え、ちょ、何を急に……」
「あー、未悠さん、ごめんなさい。今あなたを受け入れる意思が完全完璧に消失したわ。なんならあなたを私の中におびき寄せて強制的に除霊したいくらいね」
「ごごごごめんなさい! 取りませんから! 大丈夫ですから!」
「ととと取るとか取らないとか何を言ってるの!? 私はただなんとなくあなたを拒否したくなっただけで……!」
「そっちの方がひどいですよお姉さん!?」
「(俺は何も聞いてない、俺は何も聞いてない)」
咲良は身を屈めて耳を塞いでいたが、ヒートアップする二人の声は咲良の手をたやすく貫いていた。