第21話 仄暗い穴が空いた少女。
「え……こわっ。やっぱちょっと今日は……」
「……咲良くん。2分前の私のときめきを返してちょうだい」
山の麓、神社の鳥居を前にして、咲良は目に見えてその意志が萎えていた。
鳥居は大きく、咲良がテレビで見るような大きな神社にありそうな高さを誇っていた。小さい町の中にある神社にこんなに立派な鳥居があるということが、恐ろしいくらい不自然に思える。
純粋な時間経過と、それ以外の何か禍々しい歴史を感じさせるような劣化の仕方は、咲良に限らず見る者をすくませる何かがあった。
「私も初めて見た時は思ったわ。『うわ―、なんか古びてる!』って。誰でも最初に見た時はそう思うから大丈夫。慣れよ、慣れ」
「俺の気のせいじゃなければ、絢音は全くもってビビってないよね? ね?」
慣れ親しんだ町中を歩くのと同じような歩調でさっさと鳥居をくぐる絢音に、咲良は慌ててついていく。二人の足音しかしない空間は、咲良の心の内に大きな不安を生み出した。
「咲良くん、怖いでしょ?」
「うん、怖い。超怖い。なんなの? なんなの?」
「す、清々しいほどに素直ね……」
石段を上りながら、絢音が二段ほど前を行っている状態で会話をする。石段の周りは広範囲で森が切り取られていて、何の街灯が無くとも足場ははっきりとしていた。しかしそれでも横に目をやれば鬱蒼と茂る宵闇の森が2人を見ているような気がして、咲良は気が気でない。
「霊というものは、人が怖がる場所を好みやすいと言われているわ。だから町によっても、新しく出来て活気づいた町よりも昔からあってどこか闇を抱えている場所の方が霊が集まりやすいの」
「なるほどね。確かに都内の立食パ―ティ―の会場で『ほら、ぼくお化けだよ! ほらほら、血が出てる!』とか言われても、もはや幽霊どころかコスプレしてスベってる人にしか見えないしね」
「例えが悲しすぎるわよ……。でも、確かにそうなの。現代では明るい場所が増えすぎたから、生きている人とは対照的に、死んでいる人の居場所はどんどん狭められているのよ」
絢音は説明しながら、ふと自分の太ももに視線を感じる。慌てて振り向くと、咲良が高速で顔を逸らした。
「……見てたでしょ?」
「……ごめんなさい、この間のことを思い出してムラムラしてました」
「ぶっ!? ちょ、ちょっと、今その話はしないで……本当に、お願いだから……他に人もいないし……助けもいないし……あ、あそこは休憩所になってて平らな場所があるの。ああ、あそこで何をする気なの……?」
「妄想広げるの上手すぎるでしょ絢音……あ、黒」
「…………」
「あっぶねっ!? 無言で石を投げないで……あっぶね! 本気であっぶねっ!」
スカ―トの中身を見られた絢音が、真っ赤な顔をして放つ豪速の石を死にもの狂いで避けながらも登っていると、二人は休憩所にたどり着いた。
「ちょっと休憩しましょうか。今の時間から考えるに、もう少し登ったら途中で引き返せば鳥居に戻るくらいでちょうど日没ね」
「わかった。……おお……っ」
ひたすらに続く石段を登る過酷さや薄暗い森の間を行く恐怖よりも、何よりも絢音が放つ石に怯えていた咲良がふと顔を上げると――休憩所から見える景色に、思わず感嘆のため息を吐いた。
夕暮れの優しい光を浴びた、自分の通う学校がある町とその向こうにある自分の住んでいる町。近くで見れば見慣れすぎて退屈そのものに思える場所だが、俯瞰して見ると自分の知らない色合いが見えてとても新鮮だった。
「私ね、ここから見える景色が好きなの。祭りには連れていってもらえなくなったけど、一人でよく来てたから」
いつの間にか咲良の隣に立っていた絢音が、穏やかに目を細めて町の景色を眺める。夏を前にした夕方の温い風が艶やかな黒髪をさらりと揺らし、咲良の目を奪った。
「ふふ……具体的に言うとね、かにクリ―ムコロッケぐらい好き」
「……………………へえ」
2秒前の感動を返して……と咲良は思い、
「2秒前の感動を返して」
「え、あれ!? だめだった!?」
思ったことをそのまま口にした。
絢音は咲良のツッコミが心底意外だったらしく、頬を赤らめて「あ、あれ? ここはもっと……キャラメルパフェくらい好きとか言えば良かった?」などと的外れなことを言っている。しょうもないな……と思いながらも、咲良はそんな絢音のことも可愛いとしか思えなかった。
小動物を眺めるような心地で絢音を見ていた咲良が、再び休憩所から見える眺望に目を向けた。
「絢音の家はどこら辺なの?」
「ああ、私の家ならあそこよ」
絢音が指差したのは、この町と咲良が住む町の境界線に近い場所だった。
「へえ、俺と絢音の家って結構近いんだね」
「そうね……あ、お母さんが買い物袋を持って家に入っていったわ。袋の膨らみようからして……カレ―かしらね」
絢音のさりげない言葉に、咲良の頬が引きつった。
「……何で見えるの?」
「え? こうしてると見えるけど……」
言いながら、絢音は手のひらを水平にしておでこにとんと宛がった。確かに人が遠くを見るときにする仕草ではあるが……。
「……絢音、半端じゃないね」
感嘆と呆れが混じった声に、絢音は軽やかに笑う。
「そうなのかしらね、ふふ。う―ん、さっきの袋の大きさを考えると五人分ってところかしら……妥当なところね」
「あ、ご家族が結構いるんだ?」
「ううん、両親と私の三人よ。カレ―は私が三人分食べるの」
「あ、そうですか……」
食べた分の栄養は一体どこに……と、咲良は不躾と分かりながらも絢音の身体に視線をめぐらせる。程良く締まった身体の中で二ヶ所、これでもかというほどに女として強調している部分に目が行った。
「あっぶね!? ちょっと絢音、三本指での目潰しはマジのやつ……あぶね、あぶねっ!」
「今私の胸とお尻見てたでしょ! すっごい目してたんだからね!」
「ごめんごめん、肉感的でほんと魅力的だなって……あぶねっ!? ちょっと絢音、上段蹴りはスカ―トの中がこれ以上ないほどばっちり見えちゃ……エロっ」
「わ―ん!」
「おぐっ!?」
顔を真っ赤にして泣きじゃくった絢音に強烈なラリアットをくらい、咲良は軽い呼吸困難に陥った。
× × ×
「はあ、ひどい目にあった……」
胸を両腕で抱いて目尻に涙をためた絢音の横で咲良が息を整え、ようやく落ち着いたところでふと休憩所内に視線を巡らせる。絢音とのやりとりのおかげで、すっかり怖くなくなったな……と思っていた心は、
「……え」
――一瞬で、心の臓まで凍り付いた。
咲良と絢音は座っていたベンチとは別にもう一つあるベンチに、「それ」はいつの間にか、いた。咲良が気付かない内に現れたという方が正しいのかもしれないが、咲良の感覚としてはまるでずっとそこに居て、自分が今気付いたかのように思えた。咲良が絢音に向き直ると、絢音も明らかに強張った表情をしていた。
「あ、絢音……」
「しっ、静かに……。驚いたわ、いつの間にか居たわね……相当存在が弱っている霊だけれど……未練、というよりは怨念だけが辛うじて存在をこの世に繋ぎ止めているようね、厄介だわ」
絢音の言葉に、咲良は戦慄を覚えた。恐る恐る振り向くと、どうやら女の子が俯いているらしいことが分かった。年の頃は咲良と絢音より少し下というくらいで、そんなに離れてはいない。
今まで見てきた未悠や恵美里に比べると遙かに存在そのものが曖昧で、肌が時折、墨が水に溶け出すように外気に混じり合っている。
漏れ出たかと思えば他の身体の部分が新たに黒々とした墨を取り込んで、辛うじて人型を成しているようだった。
「咲良くん、私が先に行くから、あなたは一歩後ろをついてきて? 本当に危険だから……」
絢音が極めて真剣な表情で言う。咲良は重苦しく頷き、二人でゆっくりと立ち上がった。絢音の言う通り咲良が一歩後ろを行く形で、そろりそろりと少女に近付いていく。夕暮れはまだ優しく照らしてくれているのに、自分たちのいる場所だけが急に宵闇に包まれたような気がした。
「咲良くん、大丈夫? 身体に異常は出てない?」
「あ、ああ、大丈夫。怖いけどそれ以上は……っ?」
それは、絢音が咲良を振り向き、咲良が絢音の顔を見ようと前を向いた一瞬の出来事だった。
俯いていた少女の首が、ゆっくりと上がった。
極めて緩慢な動作を、咲良はまるで時が止まったかのような感覚で見つめていた。絢音の顔を見るつもりだったのに、怖いと分かっているのに、見たくないと思っているのに。咲良はゆっくりと顔を上げる少女の動作を、食い入るように凝視してしまった。
「う……っ」
少女には、目が無かった。
「うぇ……っ」
本来目があるはずの場所に、仄暗い穴が空いていた。
「うぉぇ……っ」
無いはずの目と咲良の目が合った瞬間、咲良の脳内におぞましい恐怖と絶望の映像が浮かんできた。
「うぐぅ……っ」
咲良が今までの人生で味わいようが無かった、深い深い絶望。誰も助けにきてくれないという恐怖。自分の人生がこのまま終わるんだという……虚無感。
「うぉえぇぇぇぇぇ……っ」
咲良の身体は、いとも容易く拒絶反応を起こし、限界を迎えた。
「咲良くん……? 咲良くん、咲良くん!!」
目の前で嘔吐した咲良に、絢音は悲鳴を上げて抱きしめた。両肩に温もりが触れると、恐怖にまみれた映像が急激に薄れていく。
「うぇ……はぁ、はぁ……っ。……ありがとう、絢音。多分大丈夫」
「ごめんね、ごめんね……」
「きみが謝る必要は無いよ……。今、色んな映像が頭に浮かんだんだ。……あの子、誰かに殺されたみたいだ」
「……っ」
咲良が消え入りそうな声で告げた言葉に、絢音は目を瞠る。
「……記憶が、流れ込んだのね」
絢音は咲良の背中をさすりながら、少女の顔を見た。仄暗い二つの穴は、恐怖と絶望が強い憎悪に変換されて、強い闇となったことにより空いているように思えた。
『あ、あた、し、ここ、ころされ、ころされされ、た、たた』
半開きになった口から、ノイズ混じりの声が漏れ出てきた。深い悲しみが宿り、崩壊しかけた自我が何とか踏みとどまっているような、そんな声。
『しし、しらないおとこの、ひひ、ひとに、こえ、かけられ、て、こここことわったら、きゅうにこわ、こわ、ここここわくなっ、てて、くるまにいれられて、しし、しらないところで、らら、らんぼうされかけて』
少女の顔がはっきりと浮かび上がってくる。モノクロだった顔に色が宿り、生前の姿を取り戻すように変化しても……目には、深い闇が穿たれたままだった。
『こわくて、い、いい、いやで、にに、にげたの、にげたの、あああたし、にげた、にげた、にげげげたたたた。でで、でも、おいつかれた、おいつかれた、にげられなかった。それで、わわ、わたし、め、めめ、めを、めを、めを……』
「もういいわ。頑張って話してくれてありがとう。無理しなくていいのよ」
少女の静かな叫びが一番高まったところで、絢音が少女に歩を寄せ、その頭を撫でた。取り乱していたように見えた少女の言葉が止まり、初めて絢音を認識したかのように顔を上げる。
「辛かったのね。でももう大丈夫。私が……あなたが天国に行けるようにお手伝いするから。ね?」
「ほ、ほほ、ほんとに? あたし、もう、にげなくていいの? いい、の?」
少女の声が、ほんの少しだけ明るくなる。きっと生前の彼女は、明るくて活発だったのだろう。光溢れる未来が、どす黒い闇に塗りつぶされたのだ。
今なお穿たれたままの両目が、生前彼女が何をされたかを深く物語っていた。自分が何をされたかを強く記憶したまま命を絶たれたために、霊となった今も光が戻らないのだろう、と咲良は思った。
「本当よ。協力する。私ね、手助けに関しては結構ベテランなのよ? だから……信じて」
少女に言葉を掛ける絢音の声と表情は、どこまでも優しい。微笑み、ウインクまですると……少女の仄暗い目から、涙が溢れ出た。
「……おねえさん、たす、けて……おねがい、助けて……もう、いやなの……楽に、なりたいの……」
少女の声からノイズが除かれ、純粋なものへと変貌していく。絢音が少女を抱きしめると、少女は嗚咽を漏らした。
少女は泣きやむと、ゆっくりと咲良に顔を向けた。
「うえっ!?」
咲良は驚いた。少女の目が、いつの間にか澄んだ瞳を取り戻していたからだ。深いトラウマとなっていたはずの恐怖を絢音が癒したことに驚き、少女が思いの外美少女であったことに更に動揺する。
「……咲良くん?」
「ごごごごめんなさい!?」
絢音にジト目で睨まれ、咲良は慌てふためいた。
「あの……さっきは、ごめんなさい」
少女が突然、ばつが悪そうに頭を下げてきて咲良が驚く。
「え、ど、どうしたの?」
「……さっき、ひどい目にあわせちゃって……」
「ああ……そんなの気にすることないよ、大丈夫大丈夫」
まだ喉奥に感じる胃液の気配を飲み込んで、咲良は微笑んでみせた。
「……ありがとう。お兄さんは優しいんですね」
……わ……っ。
少女がふわりと浮かべた花のような笑みに、咲良の心臓がとくんと心地良く波打つ。
「……あそこの男の子にあんまり隙を見せない方が良いわよ? 何されるか分かったもんじゃないから」
「え、ちょ、絢音!? ひどくない!?」
絢音の言い分に泣きそうになっていると、少女がこてんと小首を傾げた。そして絢音と咲良との間に視線を巡らせて、にっこりと微笑む。
「お姉さんは、お兄さんのことが大好きなんですね」
「はぉわっ!? ちょ、ちょちょちょちょっと……っ!」
「絢音、落ち着いて! 後でかにクリ―ムコロッケ買ってあげるから!」
「落ち着いてるわよ! でもコロッケはおごってもらうから!」
「なんでそこはちゃっかりしてるの!?」
「……ふっ、ふふ……っ」
『……ん?』
二人のやりとりを見ていた少女が、こらえきれないといった風に笑い出す。
「ご、ごめんなさい……お二人は、本当に仲が良いんですね」
『……………………』
少女の言葉に、咲良と絢音は顔を真っ赤にして反対方向を向く。
墨を溶かしたような夕暮れ空が、ついさっきまでよりもずいぶんと優しく見えた。