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「あら、おはよう。お目覚めは?」
すぐ隣までやって来た僕に、彼女はそう言った。
「昨日真乙さんと口喧嘩したから、最悪ですよ……」
頭を掻きながら言う。正確には、照れながら言った。
「そう……。私も、ここら辺が痛いから、目覚めが悪いんだ」
こめかみを押さえながら彼女は言った。
「ここから見える太陽、とっても綺麗だよ」
有名な画家の絵を見ているように、うっとりとした口調で彼女は言った。言って、窓から外を眺める。
「こっち側からは、朝陽が見えるよ。赤木くんも見る?」
眼を輝かして、真乙さんが僕に尋ねる。
「いいんですか?」
真剣な表情で僕がそう言うと、彼女は笑って言った。
「何が? まさか昨日のこと気にしてるの? そんなこと忘れたよ」
その言葉には嘘偽りがない気がした。だから、朝焼けに染まる海面を見た。そこから視界を上に向けていくと、四国の山が連なった陸地が見える。山間から、太陽が見える。
朝陽は、久しぶりに見た。初めて朝陽が神々しいと思った。東京でも北海道でも晴れていれば毎日見ていたはずなのに、そんなことに気づかなかった。
「写真に撮っても、誰かが肖像権がどうのこうのとは言わないよね?」
とぼけたことを言って、彼女は僕を笑わそうとした。だから僕は適当に笑っておいた。
「べつにかまわないでしょう」
彼女はズボンのポケットから携帯電話をとり出し、その景色を撮った。
「僕は、いいや」
「えっ、赤木くんは撮らないの?」
信じられないという表情を彼女はした。ある意味、自分が好きな食べ物をきらいだと言う人を見るような眼で僕を見た。
「僕みたいに、暗くてじめじめした場所の方が落ち着く人間には、必要ありませんよ」
嘘を吐いた。本当は、そんな場所好きじゃないのに、まだ彼女をどこか避けようとしている自分がいた。どうしようもなく情けない心がそう言わせた。
「またそういうことを言う。ちょっと赤木くん、君の携帯電話を貸しなさい」
左手を差し出し、真乙さんは命令口調で言った。ためらっていると、彼女は左手の指をグーにした。身の危険を感じたので、携帯電話を渡した。受け取ると、真乙さんは右手に自分の携帯電話、左手に僕の携帯電話を持ってボタンを押しはじめた。僕は何も言えずに、始終待った。
一分もしないで彼女は僕に電話を返した。彼女は何も言わず、元の席に戻りはじめた。僕も席へ戻ることにした。
「……あら?」
先に席へと戻った真乙さんが、小さくこぼした。
「どうしました?」
尋ねると、彼女は楽しそうな顔をして僕の席を指差した。
そこでは、さっきの女の子が窓枠にもたれかかりながら小さな寝息をたてていた。
「すこし、話しすぎましたね」
女の子の横に真乙さんは座った。僕の席と反対方向の席は空席だったので、そこに僕は腰をおろした。
「この子のお母さんが、起きてこの子がいないことに気づいたら驚くんじゃないかな?」
真乙さんはさりげなく言った。彼女と目を合わし、彼女のスマイルに折れた。起こさないよう注意しながら女の子を抱え、この子の席を目指した。だが、常に動き続けるバスの中で質量六キロ以上の物体を持って歩こうとすると、僕の場合平均台の上を歩くのと同じように、歩くことは難しくなってしまう。だからといって、バランスをくずして女の子を落とすわけにもいかず、なんとかバランスを取って歩いた。真乙さんが「大丈夫?」と聞いてきたので、「死にはしないと思います」と答えた。真乙さんは微妙な表情をした。
慎重に歩いて目的の席に辿りつき、ここで起こしては意味がない、とこれも慎重に女の子を席にゆっくりおろした。
『みなさま、おはようございます。まもなく、休憩のため、パーキングエリアに入りたいと思います』
一安心したと思ったら、そんなアナウンスが車内に流れた。それは、じゅうぶんバスの中にいる人たちを起こすにはてきめんだった。もちろん女の子も目を覚まし、「おはよう」と言った。僕は苦笑いをした。
「今度は私が飲み物をおごるよ」
バスがパーキングエリアに入ると、財布を手に取って真乙さんが言った。僕はそれを丁寧に断ったのだが、「いいから黙ってて」と笑顔で言われたので、大人しく黙ることにした。
「じゃ、行ってまいります」
敬礼して、彼女は止まったバスから降りた。僕はまた、ひとりバスに取り残された。
ひとりになると色々なことを考えた。
今までのこと。
これからのこと。
この旅の目的。
自分の信念。
……考えれば考えるほど、核心が揺らぐ。
何を信じればいいのか、わからなくなる。そもそも、確信なんてものがあったのかもわからない。初めから、そんなものは存在していなかったのかもしれない。真乙さんがそれを、気づかせてくれたのかもしれない。
あの人は、他人をよけいなくらい心配でき、なおかつ寛厚なのだ。人のことを悪く言ったりはしない。もちろん、短い期間で他人のことを判断するのは難しい。それでも、そう思える。
すくなくとも、あの笑顔に偽りはないように思えた。
物音がしたので目を前に向けると、黒い服を着た青年がひとりバスに戻ってきていた。真乙さんが所属している部活の先輩だ。
彼は僕の前で立ち止まり、釣り上がった目を向けた。
「君が赤木くんだね」
その人の声は見た目に反して澄んでいた。
「はい、そうです」
「真乙から聞いたんだけど、君は行く場所がないらしいね?」
肯定する。その人は目を和らげて白い歯を見せた。
「君がこの部活――科学部に入るなら、同じ部員として同行してもいいよ。どうかな?」
僕は迷った。ここで「はい」と答えたら、部活という束縛が生まれる。それは困ることだ。といっても、何かしらの制約がないと自分を見失ってしまうのも確かだ。
「……はい。入部します」
僕はそう答えた。男の口元が、さらに笑みを湛えた。
「それはよかった。なにせうちの部活は、二年生が自分を含めた三人、一年生が真乙だけなんだ。……うん、なんとか文化祭は乗り切れそうだ」
僕の名前は、伊森楓だ。よろしく。
「僕は赤木修です。よろしくお願いします……」
伊森先輩はうんとうなずいて自分の席に戻った。入れ違いに真乙さんが戻ってきたので、科学部に入ったことを説明した。「あら、そう」と彼女は一言だけ言って、買ってきた飲み物を飲みだした。




