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真乙さんの頭がかたむいて、ちょうどいい高さにあった僕の肩の上にこてんっと倒れこんだ。
体中から危険信号が出た。寒気を覚える。鳥肌が立つ。何か汚物にでも触れているような気がする……とまで言うと、彼女に怒られそうだが、それほどまでに嫌だということだ。
どうするべきか迷った。起こしてどいてもらうように言うべきか、このまま起こさないで肩が凝るのを待つべきかを天秤にかけた。しばらく考えて、肩が凝るのは嫌だという結論を出した。
動かせる右手で彼女の肩を揺すれば、彼女は簡単に起きるだろう。そう思ったが、実際にそうしようとすると、急激にその行動が遮断されてしまった。何か声がしたので、その手を途中で止めてしまったのだ。
信じられなかったので、耳を澄ましてその声を聞き取ろうとした。
「……む……あつむ……くん……よか……った……」
真乙さんの寝言だった。安らかな寝顔をした彼女の声だった。
僕は途中まで出かかった手を戻し、そのまま動かないでいることにした。
真乙さんを起こしちゃ悪いと、考えを改めた。
どこからか、シャンプーの香りがした。出し抜けだったので困惑した。だが、すぐにこれは真乙さんの髪の毛の匂いであるとわかった。
萎えていた真乙さんを起こそうという考えがよみがえった。こんな匂いをずっと嗅いでいたら、脳が動かなくなりそうだ。つまり、これは一種の麻薬と同じで、精神を滅ぼしかねないのだ。
「……あつむ……くん……」
その感情を感じ取ったように、また寝言を真乙さんは言う。
彼女のことを見る。真乙さんの寝顔とその寝言を聞くと、起こそうとする気持ちが、膨らんだ風船の空気が抜けていくように失っていく。そんなとき、ある言葉が浮かび上がってきた。闇の中から急に姿を現すように唐突に。だが、そんな言葉は僕が生きているあいだでは、到底考えないような言葉だった。まるで、誰か他人が思いつき、僕に無理やり僕の頭に植えつけたような感じである。
――この人の寝顔を見ているのも、悪くないかもしれない……。
僕は奥歯を噛み締めて小さく頭を振り、その考えを否定した。
目をつむり、心の中で自分に絶望しながら浅い眠りに入った。
目が覚めたとき、僕はどこにいるのかわからなかった。なにせ、目を開けたら目の前に黒い草原が広がっていたのだ。香水のような匂いもした。
嫌な予感がして、僕は頭が真っ白になった。たぶん、顔は真っ赤になっているであろう。
頭を驚くほどの勢いで起こすと、支えを失った真乙さんの頭が重力によって下に落ちそうになった。彼女は反射的に目を覚まし、頭を起こした。
僕は顔を右手で覆って俯いた。もちろん、真乙さんに顔を合わせないようにするためだ。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
真乙さんが寝ぼけ交じりの声で心配した。
「乗り物酔いでもした?」
話しかけても反応を示さない僕を不審に思ったのか、さらにそんなことを聞いた。
「いや……睡眠時間が短かったから、頭が痛いんです」
口元だけ笑っているようにみせて、なんでもないという風に言った。
「あら、そう」
真乙さんは息を吐きながら言った。
それにしても危なかった。僕は不注意にも眠ってしまった。そのとき、僕の頭は支えを求めた。だが、ちょうどいい高さにあったものは、僕の場合真乙さんの頭の上だっだ。だから、起きたときに見た黒い草原は彼女の髪であり、香水かと思われた匂いは彼女の髪の匂いであった。
――この世の終わりだ……。
まじめにそんなことを考えた。当の本人には気づかれていないのが、不幸中のさいわいだ。
「あら? パーキングエリアに入るみたいだよ。何か、飲み物でも買ってこようか」
その真乙さんが言う。
「お願いします。喉が渇いてしかたがなかったんだ」
緊張を解くため、一度伸びをした。
財布から百円を二枚取り出し、真乙さんに渡した。
「百円で売っていればいいんですけど……」
渡された二百円を、馬鹿みたいに真乙さんは眺めていた。
「なるほど……わかったわ」
バスが止まるのを待って彼女は立ち上がり、バスから下車した。彼女以外にも、トイレ休憩などを取る人は多かった。結局残ったのは、僕と科学部の部員たちであった。
ため息を一回吐いて、また目を閉じて、しばし睡眠に入ることにした。睡魔は、すぐに僕を眠りへといざなった。
首に冷たい感触がしたから目を開けてみた。
その冷たいものが何かを知るために首を、冷たさを感じる右の方に向ける。真乙さんが、左手にミルクティーの缶を握り、空いている右手を僕の首筋にあてていた。正確に言えば、右手に持っている冷たい缶をあてていた。
すこし考えた後、その缶を右手で無理に奪った。「あっ!」と、彼女は小さく叫んだ。
「眠ってしまった」
左手で頬を掻きながらとぼけてそう言ってみた。それから、奪ったばかりの缶を見て、「これは僕のですか?」と聞き、彼女の答えを待たずに「ありがとうございました」と言った。
「もっとオーバーなリアクションをしてくれる、と思ったのに……」
ふてくされたような顔で彼女は言った。
「あーあ……さっきからずーと同じ姿勢だったから、右腕が痛くなっちゃった」
左手で右腕を擦りながら真乙さんは言った。
「じゃあ、僕が目を覚ますまでずっと、首に缶をあててたの?」
缶を開けて中身を飲みながら尋ねる。真乙さんは、ためらってから大袈裟にうなずいてみせた。
「それはご苦労なことで……」
半ば呆れた。
「……あれだけ頑張ったのに、リアクションがつまんないよ!」
「そんなこと、知りませんよ!」と言いたかったが、そんな子供染みたことをする彼女を情けなく思い、言うのをやめた。その代わり、思いっきり苦笑いしてみた。飲み物がブラックコーヒーだったので、苦笑いするのはだいぶ楽だった。本当のところ、僕はブラックを飲めない。




