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彼女の名は、真乙夜椅という。都内のとある私立高校に通う一年生だ。
なぜ僕が彼女の名前を知っているのかというと、単純に僕と彼女がクラスメイトで、運良く彼女が僕の名前を覚えていたからだ。名乗られて、初めてそんなクラスメイトの存在を思い出した。
僕は人の名前を覚えるのが苦手で、クラスメイトの名前すら、あまり覚えていない。だから、クラスで影の薄い僕の名前を覚えていた彼女に、妙な恐怖を感じ取った。
女子高校生は、クラスの人なら男子でも名前を暗記しておくものなのだろうか?
その真乙さんはどうやら僕の隣の席らしく、そのために僕のところまで来たようだ。
「でもよかった。先輩たちとは別々の席になることは知っていたんだけど、やっぱり隣が知らない人だったら心細かったから」
右隣から彼女の声がする。どうやら僕に向けて言った言葉のようだが、僕はそれを無視して、携帯電話のゲームをしていた。リバーシだ。
「ねぇ、赤木くん聞いてる?」
「え? ごめんなさい、あまり聞いてなかった」
真乙さんは両腕を体の前で組み、すこし苛立った顔をした。
「……あのう、気に障ったなら謝ります。すいません」
謝ると、「べつに」と窓の外へ目を向けられた。まだバスは発車していなかった。発車まであと十分はある。
居心地の悪い沈黙が流れた。話しをするのは好きじゃないが、このように、無駄に時間を費やす行為は嫌いだ。僕から話題を振ることにした。
「ところで、なんで真乙さんはここにいるんですか?」
彼女は目を点にした。
やはり、話しをするのは苦手だ、と実感。
こんな質問は人間として最低レベルだ。人間性が疑われる。
僕は口に手をあてて、「ごめんなさい」と弱々しい声で謝った。
真乙さんは僕のことを睨みつけた。自分でもわかるぐらい情けない目を僕はした。すると彼女は睨みつけていた眼を和らげ、幼気な眼で僕のことを見た。
「私は科学部に所属してるんだ。それでね、文化祭のときにプラネタリウムみたいなことをするから天体観測しに行くの。あの先輩たちが持っていた黒い鞄に入っているのは望遠鏡」
なんでもないよ、と言う風に笑ってみせられた。
「赤木くんは、どこまで行くの?」
逆に聞き返されて困った。適当にあしらってもよかったのだが、それでは理不尽なので素直に白状した。
「行けるところまで行きますよ……」
短く、簡潔に話をまとめて言った。真乙さんは「え?」と、疑問視を投げかけてきたが、それも無視した。
気づけば夜になり、気づけば朝になるように、気づけばバスは発車していた。小刻みに震えるバスの窓から外の景色を見ると、ちょうど東京タワーが目に入った。真乙さんも東京タワーを観ていたが、いっしょになってタワーを観ている僕に気づき、待ち望んでいたようにほほえみを浮かべて僕の方を振り向いた。
「おはよう?」
「寝たつもりはないし、今は朝じゃないと思いますけど」
挨拶を適当に受け流す。彼女は「それもそうか」と言って朗笑した。
僕の耳に、彼女の笑い声がくすぐったく響いた。大人っぽく咳払いをして、それをやめさせた。
真乙さんの笑い声が消えると、バスの中は閉散した。聞こえてくるのは、バスの振動音と、外を走る車の音だけとなった。
僕は寝た振りをして、真乙さんに話しかけられないようにした。これ以上おしゃべりを続けると、自分を見失うような気がした。
バスが発車して三〇分が経った。今バスは、高速道路を走っている。
頭を上げて、辺りの様子を確認すると、前に座っている女の子が母親と楽しそうに話しをしていた。
左をちらりと向いてみる。真乙さんはすぐに入れ替わる景色を、興味なさそうに見ていた。
「真乙さん」
自分でも知らない内に話しかけていた。そして後悔。
自分の行動に後悔していると、真乙さんは僕のことを見た。
「なぁに?」
何かを待望するように、彼女は目を細めてそう言った。
「なんでもないです……。すいません」
なるべく目を合わせないように注意しながら謝った。
「そう……。なら、ちょっと寝るね」
彼女は陰鬱な表情を浮かべた。
「うん……。お休」
「お休……」
五分もすると、静かな寝息が聞こえてきた。
暇をつぶすため、もう一度携帯電話のゲームをすることにした。音を出さないように最小限の注意を払うが、すぐにゲームには飽きてやめてしまった。