チューリップ
家庭訪問で訪れた家は、昼間なのに人気がない、コンクリートの塊が立ち並ぶ団地の一室だった。
細かいひびだらけの階段を踏みしめて登っていると、誰もいないのにどこからか子供の声やら女の話し声やらが伝わってきた。
踊り場から外を見渡すと、曇った空と、まばらに樹木が植わった中庭が見えた。
玄関のチャイムを鳴らすと、まるでドアの向こうで待っていたかのように、すぐに内から扉が開かれ、そこに立っている黒い髪をひとつくくりにした薄化粧の女が、笑わずに軽くお辞儀をして挨拶をした。
私も慌てて名前を名乗り、女に勧められるままに薄暗い室内に上がった。
奥の部屋には明かりがついておらず、ベランダから差し込む灰色の淡い光線だけが部屋をうっすら照らしているらしかった。
短い廊下がいやに長く感じられた。
額にじんわり汗をかいているのがわかり、私は音を立てずに歩く女の後ろで、ハンケチを出しそっとぬぐった。
どうぞ、と女が示した先には、小ぶりのダイニングテーブルがあり、何もない天板の上に首の長い一輪挿しがぽつんと立っていた。
無色のガラスで出来た一輪挿しは、30cm程もある長く細いガラスの管に、これ以上小さくすると花の重さを支えることなど出来ないだろうと思われる、小さな底の膨らみを付け加えただけのシンプルなデザインで、くたびれた古臭いテーブルとは不似合いな、作った人の意図を感じる器だった。
そして、その長い長いガラスの管の中に、薄緑の鉛筆くらいの太さの棒のような茎が1本挿されている。
それは、葉のない1輪の赤いチューリップだった。
花はまだ開いていないふっくらした丸い蕾で、まるで生きて眠っている少女のようにかすかな呼吸を私に送ってきた。
立ち尽くしている私に向かって女が口を開かずに言った。
「毎日少しずつ、首が伸びますのよ」
何かに腕をつかまれたような気がして、私は1歩後ずさりした。