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その日もビルを訪れたのだが、僕の心は平静ではなかった。荒立ち、騒ぎ立ち、尋常ではないほど取り乱していた。かつてない乱暴な手つきで扉を開け放ち、いや、突き飛ばし、ゴン! と壁に衝突させた。 


 彼女は驚いたようにこちらを向いた。


「どうしたのですか? ずいぶん慌ててますね」


 ヒイヒイと肩で息しながら(なにせ、二十階を駆け足でのぼってきた)、僕は声が出せるようになるまでまった。


 汗が引き、ツバをのみこみ、ようやく言えた。


「母が・・・・・死にました・・・」


 彼女は目を丸くし、珍しいものを見る目で僕を見つめた。


「そうですか。それはそれは・・・・・」


 お気の毒に、とは彼女は言わなかった。死、は彼女にとって、なんら気の毒なことではないからだ。


「まったく、突然のことで・・・・・・今朝のことでした・・・・・・ベッドの上で冷たくなっていて・・・・・・病院に行って・・・・・・回復の望みはないとして医者が死亡診断書を・・・・・・・急性の脳梗塞だったそうです・・・・」


「なるほど。それで、今日は遅くなったのですね。」


 すでに夜の帳はおりていた。夜空には星が輝いている。犬の遠吠えが聞こえてきた。ビルのすぐそばを流れる川の音が続いていた。


「母は・・・・これまで、僕の支配者でした。」


「あなたとお母様の関係は前に聞いたことがあります。」


「僕は、子供のころから母の言いつけを忠実に守って生きてきました。今の職場に就職することだって、全部、母が望んだからこそです。僕の生きる意味は、母の意に沿うというだけのものなのです。母が満足するように僕は苦心惨憺してきました。怒らせないように、機嫌を損ねさせないように、気配りを欠かしませんでした。母は我が家の専制君主で、僕は奴隷でした。でも、それを別に恨んではいないのです。母の支配に任せておけば何も心配することはなかったからです。言うことをきいていれば、世の中の怖いことどもから守ってくれると思っていました。事実、そうでした。母は僕を思いのままに動かせる操り人形のように育てましたが、僕も、母を信頼するに足る主であると認めていたのです。だから、僕を縛り、かつ、支えていた精神的支柱は母だったのです。それが、いなくなってしまった・・・・・・・・」


 彼女は、一言も口をはさむことはなった。黙って、僕の話を聞いてくれていた。聞き流していない、しっかりと理解してくれていている感じ取れた。なので、僕はなおも先を続けられた。


「僕の生きる意味であり、すべてであった存在が、今日、消えました。病院の待合室でそう実感した時、僕の中にの大きな部分がすっと喪失していくのを感じました。今の僕は、まるで中身をくりぬかれたオレンジのようです。くたくたにしなびてしまってあとは腐敗にまかせるだけの皮きれです。生ゴミですよ。ようは生ゴミの一種になってしまったんです、僕は! 寂しいとか、悲しいとか、そんなことは一切ありませんでした。ただ、僕はたとえようもない空虚感だけを、風穴の開いてしまったわが身の痛みを感じるだけなんです。それで、思いました。これで、やっとのことで自由になったんじゃないかって。もう僕には、あの家に帰る理由も、仕事をする理由も、なくなったんです。縛り付けていたものも、支えてくれていたものも、僕を形成していた全部は、母とともに一足先に行ってしまいました。僕は取り残されています。どうしようもなく一人で、どうしようもなく・・・・・・本当にどうしようもないんです!」


 僕はそれだけを一息に言い切ってしまうと、息継ぎがしたくてしばらくは声も出せなかった。涙は流れなかった。感情は高ぶり、胸の動悸は抑えようがなかったが、夜の冷気はやさしく僕が発した熱を少しずつ運び去っていった。


 彼女は無言のまま、やおら、片手をすっ、と出してきた。


 僕はその手を、次いで彼女の目を、順に見た。周りがどんなに暗くても、僕には相手の顔と、そこに浮かぶ表情がどんなものかわかった。言葉はいらない。二人ともすで了解しているのだ。前に取り交わした約束を、今、履行する時なのだ。


 彼女の手は相変わらず温度が低い。手触りはすべっこくて実に女性らしい。身を寄せるとさわやかな香気がどこからともなく鼻をくすぐってきた。僕らは連れ立って縁べりへと歩いていく。


 ビルの屋上から見下ろす町の夜景は都会のよりはぎらついていない。ネオンや看板の光は稀で、ほとんどが民家に灯る家庭用の電光のきらめきなのだ。道路を車の光が右に左に動き回っている。空には光、地上にも光、にも関わらず、こんなにも黒々とした闇がごってり塗り込められているのはなぜだろう。あれら光のそばには普通に生きている人々が普通に笑い合っているのだ。それなのに、僕らのような闇の中に消えていこうとする者もいる。自ら、暗闇の底に落ちようとする人間がいる。誰にも知られ、強いられ、調べられることのない、断絶した場所へと赴こうとしている。


 僕らは靴をぬぎ、かかとがこちらを向くよう丁寧にそろえた。僕は靴下をはいていたが、彼女は素足であった。そして、縁べりの上に立ち、外側に向いた。この前、僕はここにさえ来ることが出来なかった。怖くて近づくのさえ叶わなかった。今だって僕の動悸は静まっていない。やはり、本能的な恐怖が脳の襞からじわじわと漏れ出てくる。それでも、己を保っていられたのは、彼女がいるからだ。こうして手をつなぎ、互いに目的を同じくする同志が僕を励ましてくれているからだ。一人なら僕はすぐに怖気づくのだろうが、二人でなら、大丈夫だった。


 僕は横に首を曲げ、彼女の顔を見つめた。彼女も僕の顔を見返してくれた。これまでに二人で過ごした時間のために、もうすっかり馴染みとなった友人の顔が、闇をまといつかせながら瞳を輝かせていた。僕は笑いかけた。死に際の人間には似合わないことだ、と自分にこの態度ができたことにいささか得意になりながら、最後の言葉を交わそうとした。


 また、会おうね。そしたら、彼女は、ええ、会いましょう、とこう返してくれるはずだと想像していた。しかし、僕が言う前に、彼女のほうが口をきいていた。


「さようなら」


 それだけ言って、あとはもうなにも言うことはないというように、彼女はぷい、と前を向いてしまった。


 さようなら? 僕はこの言葉に小さな引っかかりを覚えた。彼女は、僕といっしょに自殺することを望んでいたはずだ。それなのに、「さようなら」なんて言ったら、まるで、僕らは同じ道をいく同志どころか、別々の方向に進んで別離することになってしまうではないのだろうか。


 その瞬間、僕は彼女の思いを察してしまった。そうだったのか。彼女は、僕といっしょに死ぬのだと言いながら、内心では、死は孤独なものと、道連れがいたとしても死んでからは独りでしかないのだと明確に悟っていたのだ。僕のように男女の心中というロマンチックな幻像にめくらまされることなく、彼女は死の真実を見据えている徹底的なリアリストであったのだ。


 そして、僕はさらに思い知った。ここで自殺してしまえば、もう二度と、彼女とは会えないのだと。彼女と過ごしたここ数週間の心休まる日々が、彼女と交わした会話が、彼女といっしょにいた空間が、とても愛おしく、掛けがえのないものであったのだと思い至った。


 楽しかった。すなおに楽しかったのだ。これまで、何一つとして関心をもつことのなかったのに、欲することもなかったのに、彼女との時間をもっと欲しいと、明日も明後日も会いたいと、そう願っていた。


 だめだ! 死ねない! 


 僕は後ろに飛びすさった。しかし、不幸なことが起きてしまった。僕が飛んだのと反対方向に、それも、ほとんど同時に、彼女も飛んだのだ。逆方向にはたらいた力学作用は僕と彼女とを結び付けていた手を引き離してしまった。


 僕は屋上の床に倒れる間際までに見た光景を寸分たがわず目に焼き付けていた。空中に投げ出された彼女の後姿を。下から吹き上げる風に踊る髪の毛を。落ちる瞬間に半回転した体がこちらを向き、縁べりの下に消えていくまでに、彼女と目が合った。正直、彼女がどういう思いをいだいたのかはわからない。裏切られたと思ったろうか。たぶん、そうにちがいない。


 やがて、彼女の全身が消え、顔が、消えていった。


 僕は、石の床に着地した。

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