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それからのことは、頭の中でむやみに予想していたほど、悪い事態へとはならなかった。ビルで過ごした時間は僕の意識とはべつに一時間程度の短い時間であったのだ。車を飛ばして会社に乗り込んだのも始業時間に三十分だけ遅刻したところであった。先輩や上司にはかなり怒られたもののそれ以外にはたいして支障はなくいつもの仕事に入られた。両親にも連絡はいっていないらしく、僕が危うく自殺、あるいは出奔する瀬戸際を迷った秘められし一時間はだれに知られることもなく封印できたのだ。
一日、二日と過ぎていった。その間、僕はそれまでとまったく同じ過程を繰り返しながら生活を送った。辛いことも、哀しいことも、悩んでいることも、なにもかも少しの進展さえ見せないでなおも僕の頭脳にとりついて頭部の重量をもとの値より増やしていた。それでも、あのビルの屋上での体験で味わった生への渇望を思い出せば、それら陰りある思いを退散させらるのだった。あのまぎれもない現実の物質的な恐怖は霧のような精神の幽鬼どもを斬りつける真剣となってくれたのだ。不意に現われてくる凝りのような泥土の幽霊が胸の奥で心臓に歯を立てるたびに、より強い剣をもつ退治屋が神経を伝いおりてきて苦悩の種を追い払ってくれていたのだ。
そのために、しばらくは目の前の実務に関心をむけて取り組むことができていたのだが、時間が経過するにつれ、状態はもとに戻りつつあることがわかった。やはり、僕の根本はかわってはいなかったのだ。解決されていない問題は荒療治のために一時は身を潜めただけで、抗生剤の効能が切れて自らの独擅場に復元するときを虎視眈々と狙っていたのだ。この心臓の下、肝臓の裏、胃袋にわずかに接し、背骨に取り巻いた、身体の中央に根付いた食肉植物はまたしても隆盛の時節を迎え、その頤をぱっくりと開いて内側から喰らいついてきたのである。
もはや過去に打ち込まれた生の望みというワクチンは効力を発揮せず、僕の憂鬱を打ち砕いてくれる勇壮な騎士は領土を追われてしまった。心の王国にはぶ厚い雲がひろがり日の光も射しこまなくなった。乾燥した冷気が吹き、暗く、荒んでいくのであった。暗い昼が終わらなければ、月の夜も来ることはない、停滞した凪の世界ばかりになってしまった。
そうしていると、僕の思考に浮かんでくるのはまたしてもあの二十階のビルであった。あの存在が僕をつねに呼んでいる気がしてきた。気がつけば車窓からのビルの景色を思い浮かべているようになっていた。不思議なことにそれが僕の慰めになり、荒立ちそうになる心をなだめてくれる作用をしていたのである。その景色とやらもいつも同じだった。雨がふりそうな薄明るい曇りの空を背景に、川をひとつ隔てて、下にぽつぽつと民家の群れを従えて、ぐんと伸び上がったビルがたくさんの窓でこちらを見て、じっと何か語りかけようとしている。そういう光景が僕を離してくれなかったのだ。
とりわけ、僕を誘惑してくるのは、あの屋上の女が言った、「私といっしょに死にましょう」という言葉であった。ひとりで自殺願望をいだくのは良い。本気にしろ、虚偽にしろ、それは自分だけの胸三寸で、いつでも止めることができるからだ。しかし、あの女に誘われたときから、どうも僕は自分の生殺与奪の判断になにやら規則めいた縛り付けを感じているのであった。それまで、勝手な空想のなかでもてあそんでいたことが、彼女を介することで否定しがたい現実として形を与えられたようだった。それだけならばまだしも、この現実に召喚された実体は僕から自由な空想の権利の半分を奪い取っていったのだ。自殺の空想をするたびに彼女のことが気になって、「もしや、彼女はいまでも僕が行くのを待っているのではないだろうか?」と、こうくるのだ。すると、もう僕一人だけの問題とはならなくなり、他人の生命の重みさえこの僕が担ってやらなくてはならなくなる。なぜ、頼みもしないのに、こんないわれのない責任を負わされなくてはならないのだろうと、頭をかきむしりたくなる。
だが、女のこの誘いは責任であると同時に、死という絶対に未知のものを相手にするのに一人ではないのだとも言っているようで、それが無性に安堵を呼び起こすのである。旅の道連れが出来たかのようで先に行く恐れが少なからずうすれるのが感じられたのだ。一人ではちょっと無理だと思われていたことが二人になったらもしかしたらうまく行くかもしれない。
そうだ、心中も、そんなに悪くはないかもしれない。彼女のことは全然知らないけど、記憶がたしかならけっこう美人だし、特別な道連れとしては、悪くはないかもしれないな。なにせ本人から希望していることなんだから、好きにやらせれば良いのではないかな。考えてみたら、どうせ自殺するならいくらかドラマチックな方がいいに決まっている。周りからつまらない人間だととられている僕が女性と死んだらさぞや仰天するだろうな。そうだ、ポケットにこっそり遺書を忍ばせておくのはどうだろう。「人の世にあらぬほど激しく愛し合い・・・」「このうえ二人の永遠の愛を実現する方法として・・・」などなど、適当なロマンス語を書き並べて死んでやったら面白いかもしれないな。そうだ、共同で自殺するのの引き換えとして本当に心中した恋人っぽく見せる演出に協力してもらってはどうかな。手をつないだり、靴をそろえたり、互いをヒモでつないだりして、同時に屋上から飛び降りるのだ。僕にだって死ぬ時はそれくらいの面白みをもつことを許してもらいたいものだ。
そうやって空想を重ねているうちに、やはり僕は自然の成り行きとして、ビルに行くことにしたのだった。




